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【映画レビュー】 ルーム 評価☆☆★★★ (2015年 カナダ、アイルランド)

 

ルーム [DVD]

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トロント国際映画祭観客賞(ノン・コンペの映画祭なので観客賞は、つまり最高賞)受賞、ブリー・ラーソンがアカデミー主演女優賞受賞。

面白い面白いと人が言う作品を俺が感心することはなかなかないので、『ルーム』も合わないだろうと思って鑑賞したら、案の定合わなかった。物語の導入は悪くないのに、中盤で子どもがあっさり脱出してから落胆し、最後まで退屈なままで終わってしまう。

 

 

ルームという題名の通り、部屋が舞台となる。高校生の時に男に誘拐された女ジョイは、男に強姦され、望みもしない男児を出産させられる。その子がジャックだ。

 

ジョイは、部屋の中でジャックと共に7年も過ごす羽目になる。ジャックは既に5歳となっていた。

 

部屋は、暗証番号によって鍵が掛けられ、中から開けることは出来ない。暗証番号を見ようとすると、男に「見るんじゃない!」と拒まれる。だからどうやっても外に出ることが出来ない。この部屋のことしか知らないジャックは、部屋の外に「外」があるなんていうことを知らない。だから、テレビの中の世界を外だと認識することが出来ないでいるし、唯一外を見ることが出来る天窓も、窓の外とは考えられない。そういった、部屋の中のことしか知らないジャック、外から来たジョイとの「外」を巡る対話は面白い。

 

 

「外」を巡る対話、部屋の中にしかいることが出来ない母と子の描写が連綿と続く中で、観る者の関心は、どうやって二人は外に出ることが出来るのか?というものだ。観る者は、いずれ、二人はずっと部屋の中にいるのではなく外に行ける可能性を想定する。その場合、どのようにして出られるのか?ということに、関心を抱く。

 

しかしその手法が拍子抜けするほどあっさりしていて、二人のことがどうでも良くなってきそうになる。ジョイはジャックに、死んだふりをするように指示する。前日からジャックに、高熱が出ていたという演技をさせていたジョイは、翌日ジャックが死んだことにしようとするのだ。しかしジャックはまだ5歳。死ぬ演技なんか出来っこないし、心臓の鼓動や息遣いを、犯人の男に確かめられたら一巻の終わりである。

 

じゃあどうするのかと思ったら、ジョイはジャックをじゅうたんにぐるぐる巻きにするのだ。じゅうたんにぐるぐる巻きにしておけば、死んでいるかどうかわからないとジョイは言う。「そんなのすぐにバレるだろう」、「バレた後の展開が楽しみだ」と思って観ていると、「バレる」ことなくジャックは部屋の外へと脱出出来てしまう。何しろ男は、ジャックの死体を確かめないからだ。こんな展開では、嘆息と共に大いに落胆せざるを得ない。部屋の中に何年も閉じ込められていたという、オリジナリティの高い設定を台無しにするような稚拙さだ。絶対に暗証番号を見せようとしない犯人が、死体を確認しないというのか?

 

その後、ジャックの証言によってあっという間にジョイが囚われている部屋が特定されるというおまけ付き。ジャックは5歳の子どもである。こんな小さな子が言っている言葉は、ヒントにはなっても真の解まではたどり着けない。つまり部屋の特定などやすやすと出来るとは思えないのだ。まるでこの映画の警察は、人の話を聞いただけで真相にたどり着ける、オーギュスト・デュパンにでもなったかのようだ(『モルグ街の殺人』)。

 

 

この『ルーム』の言わんとしているところは、監禁から脱出されるまでを描いているのではなく、監禁から解放された後の物語である。ゆえに中盤で解放されるのだが、解放されるシーンがスリリングでないことは上記で散々書いた。

 

その後の世界については、望まない妊娠で生まれた子ジャックと、時が止まってしまった7年間を取り戻そうとするジョイとの複雑な関係を描いている。ジョイの実父がジャックのことを正視出来ないことに象徴されるように、監禁前には仲が良かった母子が、望まない妊娠で生まれた息子という現実を直視させられる。時が止まったことにより、そして息子が生まれた現実により、青春時代を失ったジョイの現実。

ジョイ親子はマスコミにも追いまわされ、徐々に精神を病んで行く。ここらへんは、エピソードとしてはまあまあだ。だが取り立てて心を揺さぶられるというほどの描写でもない。でもこれがこの映画の主眼なのだ。

正視出来ない実父が、ジョイ親子を受け入れて行くようなストーリーなら、起伏があって面白いと思うが、この映画はジョイが精神を病んで、身を寄せている母親の家から離れ、ジャックとも離れて、最後にまた戻って来る、というだけだ。もっと印象的なシーンがバンバン出てくれば、この映画にも惹きこまれたと思うが、何しろ『ルーム』は、7年間監禁されたという事実、外の世界を知らない子どもジャックなどという、人目を惹く見てくれを用意するだけである。これで、さあ感動しろといわれても無理があるというものだ。

 

 

主演女優のブリー・ラーソンは普通の演技だが、アカデミー主演女優賞、GG主演女優賞などを獲得するなど高い評価を得た。オスカーは初ノミネートで初受賞だという。なぜだろう?今ひとつ分からない。『ルーム』の舞台が特異だったので、そういう特異性のある世界観に活きる役柄を演じたので、評価されたのか?もちろん下手ということはないが、彼女だから演じられたというものでもないし、絶賛されるほどのパフォーマンスを見せていない。

 

一方で、子役のジェイコブ・トレンブレイは、子どもながら「外の世界」を知らないという難しい役柄を見事に演じ切っていた。ジョイよりも息子のジャック役の方が想像以上に難しいはずだ。彼にアカデミー賞の栄誉を与えるのなら理解出来るのだったが。何とトレンブレイにはノミネートすらなかったというのだから、アカデミーは一体どこに目を付けているのか。

【書評】 テレーズ・デスケルウ 著者:フランソワ・モーリアック 評価☆☆☆☆★ (フランス)

 

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

 

 

舞台は20世紀前半のフランス。未だ第二次世界大戦もはじまっていない。この地には、自由な精神社会は未だ訪れず、人間の思考回路は伝統に依存している。女性に投票権はないし、女性解放運動などずっと先のことである。それなりに、自らの思考で自由な判断をして、決定をしていくことが出来る現代とは違い、「家柄がふさわしい相手と結婚すること」、「女性は家庭を守る者として存在すべきである」などとしてしか捉えられない時代にあっては、人々の思考は、自らではなく伝統に従って繰り出されるに留まっている(現代でも伝統の強さは消えてなくなってはいないし、伝統が悪者でもないのだが)。

 

『テレーズ・デスケルウ』は、古い伝統に依って立つ思考しか出来ない人々の中でアイデンティティを確立しようとする女性の物語だ。とはいうものの、もはや現代には古過ぎる作品ではない。さっき、現代では自らの思考で自由な判断が出来ると言ったが、「それなりに」と留保を付けた。現代でも、伝統ではないが、思考を阻害する枠組みはある。そのために思考が停滞させられる場面にはいくつも遭遇するだろう。そういう意味で本書は現代にも活きる作品と言えると思った。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』の主人公で、聡明な女性テレーズは、結婚対象の男たちの中ではマシな男ベルナールと結婚する。しかしベルナールは、女性であるテレーズよりも自分を高く見せようとして、論理的な思考をするテレーズに、旧弊な考え方を押し付けたり、感情的になったりして黙らせようとする。そうはいっても論理を優先させるテレーズは、夫の思考に納得出来ず、彼女は何度も理屈っぽい自己主張を繰り返す。小説の中で二人は、何度も対話が食い違っていく。読者はテレーズに理知を感じるが、伝統の前では論理さえもひざまづかなければならないのかと嘆息させられる。そしてテレーズの思惑は遂に報われることがなかった。

 

 

テレーズは、夫と生活を共にしていくうちに、アイデンティティは永遠に手に入れられないような気がしてしまう。夫が自信たっぷりに話し、だんだん太ってきたこと、毛が多過ぎることなどの些細な点が、自分のアイデンティティを阻害する全てに見えて来る。夫の存在が、思考を決定づける「伝統」そのものであるかのようだ。このままこの男と生活を続けていれば、自分は自分というものを死ぬまで手に入れることが出来ないままである。事態の転換を図るために、テレーズが取った行動は、夫の毒殺だった。

 

 

結果として夫の毒殺は未遂に終わるのだが、未遂に終わったことが『テレーズ・デスケルウ』の独創性を高からしめる点だろう。

 

未遂となったことでテレーズは、裁判にかけられるが、夫や家族は家の名誉を守るために偽証をしてしまうのだ。それによって無罪放免となった彼女だが、心が不安定なのだということにさせられて、軟禁状態にさせられる。結局、テレーズのアイデンティティを確立する試みは失敗に終わるのだが、物語はこれ以上の悲劇を示そうとはしない。

 

毒殺が失敗に終わったことで、伝統の檻の中に、テレーズをがんじがらめにしようとするベルナール、そしてその家族、あるいは実父。テレーズは物語の最後でタバコを吸い、やや軽快さを取り戻した足取りで前に進もうとする姿が描かれる。テレーズは自殺を試みたこともあるのだが、それでも尚生きることを選択した。最後の軽やかにも見える足取りによって、テレーズは尚生きることを選ぶが、それは、彼女があいもかわらず論理を優先し、アイデンティティを獲得しようとし続けるのではないか?という、疑念と感動とが混合した感情を、読者に与えもするだろう。物語の中で悲劇をこれ以上しめさないことで、未だテレーズが、戦う余力を残しているような気持ちにさせられるのである。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』は、カトリック作家モーリアックによって書かれた。モーリアックの代表作で、遠藤周作はこの作品に感銘を受けており、本書の翻訳も手がけている。俺は、遠藤の訳を読んだのは初めてだったが、非常に分かりやすく、メッセージ性のある文体で訳されていたと思う。

 

本書は、上記では触れていないが、多少神の問題が書かれているが主題ではない。カトリック作家のモーリアックが書いたといっても、別段キリスト教の色合いが濃い作品ではないし、本書の解説者が述べている通り護教文学ではない。むしろモーリアックは、カトリック的には異端と言われたことがあって、彼はそういう指摘に悩んでいたほどである。

 

しかしキリスト教的でないからこそ、現代でも本書は普遍性を帯びて我々の前に立ち上って来る。伝統とアイデンティティの問題は、例えばビジネスの現場において、「ルールや仕組み」とアイデンティティと置き換えることが出来る。働きたいのに待機児童が解消されないので失業せざるを得ない女性、あるいは逆に育児に関わりたいのに会社の理解がなくて残業続きの男性、いくらでも会社や国の雰囲気などによる「ルールや仕組み」にアイデンティティを阻害されている人間は、思いつく。

 

『テレーズ・デスケルウ』を、ただ単に夫婦の問題として本書を読むのはもったいない。自らの限界に線を引いてしまうのではなく、ルールや仕組みと毅然として戦ってアイデンティティを獲得しようとする現代の読者にも強い印象を与えるはずであろう。

【映画レビュー】 ソナチネ 評価☆☆☆☆☆ (1993年 日本)

 

ソナチネ [DVD]

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「ケン、ヤクザ辞めたくなったなあ」

「結構荒っぽいことしてきましたからね」

「なんかもう疲れたよ」

「金持ってると嫌になっちゃうんじゃないですか」

 

というような、村川(ビートたけし)とケン(寺島進)とのセリフのやり取りから暗示されるのは死だ。それも、本作『ソナチネ』で出て来る数多くの人物の死ではなく、村川個人の死で、それも自殺である。

 

 

村川は村川組という暴力団の組長を務める。村川組は北島組の傘下にある組織で、親会社・子会社のような関係だ。絶頂とまでは言わなくとも組織の長を担うまでになった村川は、金も女も手に入れたが、ヤクザを辞めたいと言う。もっと出世して欲望を追求することも出来ようが、それを押し留めるものがある。それは全てを手中に収めた後の虚無感であろう。村川は能面のような顔で喜びも怒りも悲しみも示すことなく、半ば強制的に北島組組長の命令の下に、沖縄に赴く。そしてたくさんの人を殺す。

 

村川は沖縄で中松組を支援するため、阿南組のヤクザを殺し続ける。同時に、村川の部下や北島組からの若い衆も、一人ひとり殺されていく。沖縄の静謐な海や砂浜のシーンを取り入れ、多数の人間が死ぬことで、静寂な自然の中で死がぽつぽつと、しかし徐々に村川の肉体に迫ってくるのを描き出す。村川は至って健康体だが、病におかされたかのように、死を意識し、死を求めもする。

 

それは全てを手に入れてしまったからだろうか。もちろん、映画を観ていれば分かるように、北島組組長と、矢島健一演じる北島組の陰険な幹部・高橋の2人体制に、自分は付け入る隙間がないことを自覚して、もう上にあがることが出来ないかのような、諦めの中で、ヤクザを辞めてしまいたいという認識が生じもしよう。だから、全てを手に入れたことと合わせて、もはや自分の到達点はここまでだという諦念があいまって、死を志向するのだろう。村川は、ヤクザを辞めて堅気になるのではなく、辞めてどこにも行けないのであれば、死ぬしかない。この先にどうとも、行くべき道がないのであれば、自ら退路を断ってしまいたい。そう、常に思っているようだ。

 

そのような虚無感を、『ソナチネ』は海、砂浜、久石譲の突き放すようなあるいは引き寄せられるような思いが混在した音楽、突発的な暴力描写により、印象的に描いていく。ドリュラロシェル原作でルイ・マル監督の映画『鬼火』のように自殺したい男の空しい願望を、夢を、コンパクトでショッキングなストーリーと共に表現する。

 

ソナチネ』には、有名な一つのカットがある。村川が自分のこめかみに銃を突きつけるシーンだ。これは戯れのロシアンルーレットのシーンなのだが、村川の自殺願望を象徴的に描いている。結局、映画の中で村川は、高橋のことも殺し、北島組も阿南組も皆殺しにして、車の中でこめかみに銃口を突き付けて自殺するのだ。だからあのシーンは、自殺を先取りした映像ということもできよう。この映画は、登場人物も多いし、ストーリーにも起伏があるが、一貫して、村川の自殺願望を描いているのである。

 

 

この映画は、自殺志願者の男=村川についての個人的な映画である。しかし、それにしては観終わった後にいやな気持ちにはならない。それはなぜだろうか。

ソナチネ』は、美しい太陽や海などの映像とともに、久石の映像に合わせた流麗な曲によって詩情を表現する。そして、キャストの能面のような表情のない顔、まるでセリフをしゃべらされているかのような彼らの朴訥としたセリフによって異様な雰囲気を醸し出す。また、非常に凶暴だが執拗ではない暴力描写などによって、刺激を与え続ける(暴力描写をしつこく描くと観客は暴力に慣れる。突発的に描き、すぐに暴力描写をやめてしまうことで、まるでホラー映画のように「いつどこから暴力描写が始まるのか」という恐怖感を与える。それが刺激となる)。

このように『ソナチネ』は、死をリアルに描きつつも、多方面へのアプローチを繰り出していっている。自然と音楽の詩情、人物の異様さ、暴力による刺激は、自殺志願者の男を描いているにもかかわらず、さほど陰鬱にはさせないのだ。そして、多数の人間の死があまりにあっけなく描かれることで、残酷ではあるが、おかしみを感じさせる。

 

ルイ・マルの『鬼火』は、いくつかのエピソードがあるものの、自殺に向けてのオーソドックスな映画だ。それだけに陰鬱である。何度も観たい映画ではない。『ソナチネ』は多くの人間が死ぬ。生き残る主要人物は二人だけだ。それなのに何度も観たくなるのは、人の死を描きながらも、多角的なアプローチを施しているからだ。美しく、詩情豊かで、残酷、しかし時に笑いを生じさせる。

 

 

キャストも素晴らしい。今では考えられないが、主演のビートたけしが非常に上手い。芸能界で大成功した自身の人生を村川に重ねているせいもあるだろうが。フライデー事件の後の記者会見の時のような凶暴性を感じさせる。

 

北野映画初出演の大杉漣は、村川への忠誠心や微妙な距離感を演じていた。村川組の幹部役なのだが、上司たる村川への進言や部下のマネジメントもしていて、会社の管理職のような役柄なのだろうなと思わせる。優しそうな、ダンディな紳士と思わせておいて怒鳴り散らすシーンは、そのギャップが凄い。『HANA-BI』での演技で国内の賞を多数受賞したが俺は『ソナチネ』の演技の方が好きである。

 

その他、寺島進勝村政信、渡辺哲、矢島健一津田寛治など素晴らしい仕事をしていた。

 

 

【書評】 ドルジェル伯の舞踏会 著者:レイモン・ラディゲ 評価☆☆☆★★ (フランス)

 

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

 

 

レイモン・ラディゲと言えば、三島由紀夫に影響を与えた20世紀初頭のフランスの作家という印象しかなかった。俺は三島の愛読者だから、彼を知るための材料としてラディゲを読もうと、『ドルジェル伯の舞踏会』を手に取った。何しろ三島は、次のように本書を評しているからだ(『私の遍歴時代』)。

 

私は、堀口氏(引用者注:本書の訳者堀口大學のこと)の創った日本語の芸術作品としての『ドルジェル伯の舞踏会』に、完全にイカれていたのであるから。それは正に少年時代の私の聖書であった。

 

敬愛する三島由紀夫にここまで言わしめているレイモン・ラディゲ。そしてその作品『ドルジェル伯の舞踏会』は三島を知るために読まなければならないと思った。何しろ少年時代の三島にとって本書は「聖書」なのだ。

 

しかし読んでみると本作は、青年と伯爵夫人の恋の芽生えや男女の交流を丹念に追った心理小説として、古めかしさは否めないものの、今尚読むに耐え得る作品であり、三島を知るために留まらず、三島に属さずとも十分に一個の作品として成り立っていることを知った。

 

 

ラディゲは『肉体の悪魔』で華々しくデビューし、フランスの文壇にセンセーションをもたらした後、本作『ドルジェル伯の舞踏会』を書き上げ、若干20歳で夭折した。作品への評価のみならず、「夭折の天才」としての伝記的なエピソードも、ラディゲへの関心を喚起する。

 

こういう作家に対して、書かれた小説だけを読んで評価することは難しい。どうしても作家の影がちらつく。そもそも、ラディゲから影響を受けた三島由紀夫に対しても、彼の壮絶な割腹自殺を抜きにして作品を評価することは出来ないだろうからだ。どうしてもラディゲ=夭折の天才、三島=愛国者三島事件の首謀者(割腹自殺を遂げた者)など作家的イメージ(作家の影)を抜きにして作品を捉え切れない。

 

作家の影を抜きにして作品を捉え切れないということは、本来、とりたてて作品の質を高めることも低くすることもないはずだ。しかしどうしても夭折の天才の作だから、愛国者だから、ということで評価する向きから逃れられない。それは、そういった作家たちにとっては夭折の天才となってしまったから、割腹自殺を遂げてしまったから、仕方がないと見るべきなのだろうか。

 

作品は、小説であれ映画であれ「機械」が作り上げたものではない。無論、人間が作ったものだ。それゆえに書いた者、撮った者の影から完全に独立して作品を評価することは難しいし、その評価の方法はナンセンスなことなのだ。機械が小説を書いたのなら、機械が夭折しようが割腹自殺をしようが、小説だけを評価出来るだろう。だから『ドルジェル伯』についても、この作品を書き上げた後に腸チフスに罹って若干20歳で夭折してしまったラディゲの遺作として読まざるを得ないし、そういう読み方で適切なのだろう。

 

 

『ドルジェル伯の舞踏会』は恋愛心理小説である。この作品においては心理を描くことこそが重要で、ストーリーはやや蚊帳の外に置かれているようだ。物語の前半で女主人公マアオの心情に敢えて触れないあたりは、最初、一体誰と誰の恋愛なのか?と疑わせるほど慎重な書きぶりだ。徐々にマアオの心情を明らかにしていくが、心の動きを静かに受け止めて文章に書こうとするとここまで丹念に描けるものだと感じる。

 

恋の芽生えについて、作家がどのように描くかは千差万別だが、長編小説の中盤でようやく、「僕は彼女のことが好きだ」と思うに至る小説などあるだろうか。しかし『ドルジェル伯の舞踏会』は90ページ近辺に至って、男主人公フランソワが、マアオのことが好きだと自覚するのだ。小説は220ページ程度しかないので、物語の中盤で恋をしていることを知る訳だ。相手の女に至っては、終盤まで恋の気持ちを認めようとしないほどだ。

 

『ドルジェル伯』において、フランソワとドルジェル伯夫人マアオとは、恋愛を成就させない。本作の主眼は成就ではなく「過程」にあるからだ。従って、ラディゲの処女作『肉体の悪魔』のように、二人はセックスをしない。それどころか、二人はキスはするけれど、唇を重ね合わせるのではなく男が人妻の額にキスをする程度のものだ。睦言を語る訳でもない。この作品で重要視されているのは二人の恋の成就ではなく、過程におけるそれぞれの心の風景だ。それを時間をかけて丹念に描いている。

 

物理的な距離感を構築したのは、マアオが人妻であることの制約が大きな理由となる。もし、フランソワとマアオとが結婚していない男女であれば、制約は何もない。ただ愛し合えば良いだけのことになる。しかしただ愛し合えば良いだけのことにさせないのは、マアオが人妻だからだ。そして夫アンヌに対して貞節を守っている。もちろんフランソワもそれを弁えた上で、安易にマアオに対して恋愛感情を示しはしない。

 

この制約の中で『ドルジェル伯の舞踏会』は生まれる。

そして最後までフランソワとマアオは結ばれない。マアオが本当の意味でフランソワに恋していることに気づくのは、170ページを過ぎた頃だ。

 

マアオは、自分がフランソワを愛しているのだといよいよ認めないわけにはいかなくなっていた。

 

この時点で、小説は残り50ページを残すのみである。その後マアオはフランソワの母あてに、自分がフランソワを愛していることを告白する手紙を書くのだが、それでも尚物語は、フランソワとマアオとの恋愛を成就させようとしない。二人は、マアオが既婚者であるという制約の下、慎重に、言葉を選びつつ接する。

 

『ドルジェル伯の舞踏会』は、恋愛の過程に重心を置いて筆を走らせている。そのために二人の恋はむしろ成就されない方が良いとさえ、作者は考えているかのようだ。だから、フランソワの母、そしてマアオの気持ちが夫に知られる頃には、物語は終盤を迎えざるを得ない。恋愛感情を言葉に表し、他者に知られていくと、恋愛はどうなるか?成就するか、あるいは破綻するか、しかなくなる。そうなると『ドルジェル伯』はハッピーエンドを迎えるか、悲恋として終わるか、いずれかに至る。そうではなく、あくまでも恋愛心理を丹念に描くことのみに強い関心を抱いて、ラディゲは本書を書き切ろうとする。

 

 

非常に独特な恋愛心理小説である本書だが、古めかしく感じられる点があるのが事実だ。それはおそらく、ラディゲというより、訳者に責任があるかもしれない。一番改めるべきと思われるのがマアオがフランソワの母にあてた手紙で、なんと「候文」だ。永井荷風じゃあるまいしと思ってげんなりした。

それと、「のだった」の乱用である。事あるごとに「のだった」が続く。例えば以下のような「のだった」の乱用が続くと、訳者は矜持を持って書いているつもりだろうが、現代の文体に慣れた目で読むと洗練されていないように感じられる。「のだった」だけを読み飛ばしたくなるほどだ。

 

否、責めるには及ばないのだった、何故かと云うに、伯爵夫人が二人前にしても十分な愛を持って居るのだったから。彼女の愛が如何にも大きいので、アンヌの上にまで滲んで、相互的に相報いているものと思わせるのだった。フランソワには、このような事情は少しも察しがつかぬのだった

 

 

訳者の堀口はこの「のだった」を美文のように書いているつもりなのだろうが(ここまで乱用するのだから)、ここまで「のだった」を使い続けると、文の流れを滞留させてしまう。あまりに「のだった」が続くので悪文にさえ感じられる。

「である」とか「していた」などと、文末を飾る言葉はいくらでもあるのだから、 綺麗な日本語となるように訳出すべきだと思うのだが。三島はこの「のだった」が気に入っていたようなので、ちょっとショックだ(笑)

 

「それかあらぬか」とか「館」とか「寄付の間」とかの古めかしい言葉が、「するのだった」「すぎぬのだった」という「だった」の乱用による、メカニックでもあり同時に呼吸が切迫するようにパセティックでもある独特の文体の中に、ちりばめられている堀口氏の訳文は、しばらくの間私をがんじがらめにして何を書いても「だった」がつづいて出てくるほどになった。

 

三島由紀夫『私の遍歴時代』

タラレバむすめ

 冬のドラマはまあまあ面白いんじゃないでしょうか。俺が観ているのは次の4つです。

 

東京タラレバ娘

・カルテット

・A LIFE

・相棒15

 

今回、『奪い愛、冬』を見逃したのがもったいなかったですね。こういう昔ながらの感情的な恋愛サスペンスって好きなタイプなので。水野や三浦の狂気的な演技も面白そうでした。

 

 

 

今回は『タラレバ』について。この作品は7話まで観ています。

 

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このポスターが超カッコイイ♡ 

 

日本版『セックスアンドザシティ』っぽい感じですかね。主人公の倫子(吉高由里子)はこのドラマを観て脚本家を目指したらしいし。

 

『タラレバ』は、30歳過ぎの独身女性の恋愛、友情、ビジネスを描いた作品です。とりわけ田舎の高校から上京して来た3人の女性たちの友情を、なかなか素敵に描いています。3人の女性たちの中で元AKB48の大島優子がクールで寂しげな女性を演じていますが、役になり切っている感じです。大島って演技が下手だったで、どちらかというと嫌いな女優ですが、演技に磨きをかけたんでしょうかね。あのメガネで凛とした雰囲気で、居酒屋の看板娘やられたら、俺、通っちゃいますね!

 

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かわいすぎるクールな大島さん・・・

 

逆に主人公を演じる吉高は、演技は良いんだけど、彼女を巡る男性たちがみんなデカくてかっこいいので、小柄で美人でもない吉高では男性たちに見劣りするのが残念だったかな。速水もこみち演じる男が、倫子をスーパーでナンパするんだけど、違和感がありました。いや、吉高はわたし結構好きですけどね。でもあんなカッコイイ男が「おっ!」と思うほどのビジュアルじゃない・・・んでわ?と。

 

* 

 

さて、恋愛はとってつけたような感じがしていましたが、7話まで観ると感想が変わってきます。早坂っていうテレビ局のプロデューサーが、昔、局の後輩だった倫子を好きになって告白するんだけど、あえなく撃沈する。

昔は、ダサかったんですね、早坂は。だから倫子もお断りした。

でもプロデューサーにまで上り詰め、演じるのは『天皇の料理番』やみずほのCMでも知られる俳優・モデルの鈴木亮平なので、カッコよくなってる笑(時の流れは速いなぁと思うけど、まぁ鈴木亮平だしな、という感じ)

 

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東京外大出の鈴木さん

こいつがカッコ悪いはずもないだろうと

 

 

それで倫子も好きになるけれど、早坂は他の子と付き合う。そのあと倫子も何人かの男と寝たり恋愛したりするが、結局フリーになる。

 

倫子はドラマの脚本家なんだけど、なかなか芽が出ずにいるので、プロデューサーの早坂は、彼女に脚本の仕事のチャンスを与え続ける。それでも仕事を得られずにいる倫子ですが、脚本家になるために局を退職しただけのことはあり、脚本にかかわる仕事なら何でもやるなど努力家の一面も。

影にひなたに倫子をサポートする早坂ですが、これはあくまでも、元後輩である倫子だから、同情とか共感、あるいは一緒にビジネスをしたい(つまりドラマを作りたい)とか、そういう意味だけでサポートしてたと思ったんですね。

 

そうしたら7話になって、早坂は、倫子のことをあからさまに好きだオーラを出し、しかも彼女とチューしちゃうwww

 

あれっ?オマエ、一途に、ずっと好きだったんかおんどりゃぁ!という感じ。

 

ビジュアルはあんまり良くない倫子だが、7話では寝ずに脚本を書き上げて、早坂の恩師が計画してる地域の活性化ドラマの脚本を書き上げるなど、仕事を一生懸命やる女性に「オッ・・・w」と思ってしまう男性はぐっとくるエピソードはいくつもある。だけど早坂がま~だ倫子を思ってたとは、オジサン、思いませなんだワwww

 

 

カルテットは今度語ろうと思いますけど、満島ひかりがかわいすぎますな。こういう子に騙されてみたい・・・