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アウトレイジ最終章 新キャスト決定


「アウトレイジ 最終章」に大杉、ピエール、ネプ原田ら

 

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北野武監督の『アウトレイジ最終章』の新キャストが決定。その驚きの内容とは・・・?公開は2017年10月7日。

 

■大友(ビートたけし)を慕う韓国・済州島グループの市川を演じるのが大森南朋

■花菱会の花田役にはピエール瀧

■花菱会・若頭補佐役に岸辺一徳

■花菱会・新会長役に大杉漣

■花田の手下役にはお笑いの原田泰造

 

うれしいねえ、うれしいねえ!

 

その男、凶暴につき』からたけしの映画を見続けてきた俺にとっては、なんといても岸辺一徳が出ているのがうれしいねえ!

 

そして『ソナチネ』でたけしに気に入られて、東京だけの出演だったのが沖縄編まで出ることになって、エレベーターでおっ死んだ大杉漣が出ているのがうれしいねえ!久しぶりだよ、大杉漣がたけし映画に出るのは!

 

『凶悪』という、狂った映画で人殺しを演じたピエール瀧も楽しみだ。こいつには暴れまわってもらいたいなあ。

 

大森南朋は『殺し屋1』の印象しかないんだけど、あれは浅野の映画になっちゃってたからなあ笑

ちょっと心配ではある。

 

お笑いの原田泰造ジム・キャリーみたいな顔の男で、良い人っぽいけど、華々しく散って欲しいな。

 

もちろん『ビヨンド』に出ていた西田敏行や、塩見三省名高達男光石研も続投する。

 

 

 

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見たいドラマ2017 春

1.母になる

いちばん見たいのがこれ。沢尻エリカ様主演。

 

エリカ様、番宣で『さんま御殿』に出てたけど、あごの皺が目立ってたなあ。嵐のイモみたいな顔した男が主演していたフジテレビのミステリーでは、かわいかったんだがなあ・・・

 

2.クライシス

小栗旬主演。

序盤からの新幹線内での激しいアクションに、引き込まれるものの、若干設定に無理を感じた。序盤から犯人との格闘を見せて、『クライシス』というドラマは、アクションで見せることを示してはいるんだが、新幹線で?こんな露骨になあ。マンガみたいに安っぽい。これでも公安なんだよね・・・

 

小栗がいるところには、何人かのチームがいるんだけれど、このチームがなぁ。冴えない笑

なんかどっかのアメリカ映画で見たことがあるような設定なんだけど、古臭い!爆弾の扱いに強いメガネのオタクっぽい男、ハイテクに強い女性、そして背が高いんだけど見てくれが冴えないリーダー。そして小栗と、西島英俊の肉体派。う~ん。オタクとハイテクが要らないな。ハイテク女を演じる女優は美人だけど。

 

小栗旬は順調にキャリアを重ねてきたせいか、ふてぶてしい公安のプロフェッショナルを自然に演じている。わざとらしいところがない。彼を見ているだけでも良いのかな、という程度。2話を見てから今後を決めようか。

 

3.あなたのことはそれほど

波留ちゃん。マンガが原作だとか。波留がカワイイから見るというだけだ。

 

4.リバース

藤原竜也主演。このドラマは面白い。幸先が良いスタートを切った。この高いレベルを最後まで続けられれば、素晴らしい作品になること請け合いである。原作が小説ということもあり、設定に裏があったり、人物描写が丁寧でリアリティがあるのも、特筆すべき点だ。原作者は湊かなえで、映像化されることが多い作家だが、映像化作品はあまり面白くない。評価が高い『告白』も酷い映像だったし、『白ゆき姫』も退屈な映画だった。今回は良さそうである。

 

品の良い顔立ち(歯並びは悪いものの)から、エリートを演じることが多い藤原だが、今回は作業服を着るような会社に勤めている。しかもその会社は、新卒の時にずいぶん苦労して内定を獲得した会社なのだ。

 

『リバース』は、10年前の大学4年時に、旅行中の事故で親友の広沢を亡くした深瀬と、その旅行に参加していた同級生3人(村井、谷原、浅見)、そして亡くなった広沢を巡る物語。広沢の事故のことは、墓場まで持って行こうと、秘密にする4名だが、その秘密については、1話では全く語られていない。事故ということだが、秘密にするということがどうにも怪しい。そして、深瀬のアパートのドアには「人殺し」という紙が貼られ、深瀬の恋人にも「深瀬は人殺しだ」という匿名の手紙が送られてくるのだ。そして、物語の時間は10年前にさかのぼる・・・あらすじを読んでいるだけでも興味を惹かれる。

主人公は深瀬なのだが、他の同級生3人と広沢についてもエピソードがふんだんにあり、物語に厚みを持たせているので、見ていて飽きさせないし、物語の奥まで知りたくなる。

 

このドラマはキャスティングも巧みだ。主人公・深瀬役には藤原竜也、政治家秘書の村井役には三浦貴大、大手商社に勤める谷原役には市原隼人、教師の浅見役にはジャニーズの玉森裕太。主役級の俳優がたくさん出ている。

そしていやらしいジャーナリスト役には武田鉄矢。よくぞこういう役にキャスティングしてくれました!

武田鉄矢みたいな俳優には、良い人を演じさせてはいけない。金八先生そのまんまになってしまう。彼みたいに、教師役を何十年にも渡って演じ、声が優しくて、良い人役がぴったりで、歌手としては「贈る言葉」なんかを歌っている俳優が、いやらしい役を演じたら「ウワッ、なにこいつ・・・」っていう違和感があるだろう。このドラマでは武田の演技も見物といえよう。だいたい、武田の顔は、笑えば優しいオジサンに見えるが、黙っていると意外と怖い顔である。こういう俳優が、たけしの映画に出て欲しいんだよな。平気で人を殺しまくって、ワイシャツを血で染めちゃうような笑

今回の武田鉄矢は、『インソムニア』のロビン・ウィリアムスを思わせる。もっと悪人を演じて欲しいなあ。

 

 

5.小さな巨人

警察版『半沢直樹』。『リバース』ほどじゃないが『クライシス』よりはよほど良い。

 

背が高くてスタイルが良いが、顔だけ見ると堺正章みたいで安っぽく、茶目っ気がある長谷川博己主演。なので、彼が正統派の役をやると似合わないなあと思ってしまうのは俺だけか。『家政婦のミタ』で、優柔不断なダメ男を演じて良いなぁと思ったが、彼はどこか抜けている役が似合う。

去年のヒット映画『シン・ゴジラ』で主演を演じた長谷川は、失敗を経ながらも果敢に前に進む官僚役で、「抜けた」ところがなかった。それだけに物足りなさを感じていた。いや、もちろん長谷川のパフォーマンスに不満があった訳ではないのだが、どこか欠陥がないと長谷川ではないような気がする。『MOZU』のヒガシ役みたいに破天荒でなくても良いが、正統派だと物足りないと思ってしまう。

 

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そして今回は、ノンキャリアながら捜査一課長のイスが目の前に見えている警視庁のたたき上げの刑事役を演じる。たたき上げというのはノンキャリアだからというだけで、長谷川が演じるのはあくまでエリート然とした刑事だ。それを端的にあらわすのが、彼のセリフ「捜査は勘じゃない。理論だ」と、所轄を露骨に見下して言うところであろう。しかし、捜査一課長の裏切りで、所轄においやられてしまうという設定である。

 

うん!これこれ!これだよ。

まるで長谷川のためにあるような設定!

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主人公を裏切る捜査一課長を演じるのは、香川照之。『半沢直樹』の大和田常務を思わせる嫌味な権力者である。

その他、半沢で出てきたキャストと被るのは、手塚とおる駿河太郎あたりか。半沢じゃないけど同じ池井戸作品『下町ロケット』に出ていたのと被るのは、ヤスケン春風亭昇太か。昇太は上手くないから俳優業は止めた方が良いのだが・・・今回も前捜査一課長を担っていたとは思えないほど小物。

主人公の妻役は、これまた『シン・ゴジラ』の官僚・尾頭役で人気になった市川実日子

 

 

6.犯罪症候群

1話だけ鑑賞。

オンエアを見たらつまんなかったので、今後は見ません。

警察を演じる渡部篤郎が病人みたい笑

白髪も多くて声もかすれている。

あんた老け過ぎだよ。

 

【映画レビュー】 シャーロック・ホームズ 評価☆☆☆☆☆ (2009年 英国、米国他)

 

シャーロック・ホームズ [DVD]

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 『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』や『スナッチ』等で小気味良いブラックユーモア、緩やかなバイオレンス、多様なキャラクターがひしめく群像劇を作り上げたガイ・リッチー監督は、筆者にとってお気に入りの監督であった。その後『スウェプト・アウェイ』、『リボルバー』等で低迷し、もはやこの監督はかつての才能を使い果たしてしまったのかと思った。それが『シャーロック・ホームズ』によって見事に復活を果たした時、筆者は劇場で拍手を送らざるを得なかった。もちろん、心の中で。

 

ガイ・リッチーは、『ロック、ストック』や『スナッチ』において、タランティーノに比べれば穏やかながらも、スタイリッシュなバイオレンス描写を示していて、筆者も、その点こそがブラックユーモアや群像劇と併せてリッチー作品を評価した要素であった。従って『シャーロック・ホームズ』のように、リッチーが、大衆受けするアクション映画を撮れるとは思っていなかったし、かつてリッチーが描いていたバイオレンスには、観る者の眉を少しひそめさせ、そして僅かにくすりと笑わせるようなブラックユーモアを感じさせるものが彼の特質だった。

それゆえに、『シャーロック・ホームズ』が映画音楽の大家ハンス・ジマーの躍動するような音楽と共に幕を開け、徐々にリッチーらしからぬ一般的なアクション演出を示して大衆へと歩み寄った時、筆者は、リッチーが自身の宵闇を破るように、本作を撮って、明るい陽光のような映画へと作品の方向性を変転させていったことにいたく感動したのである。

もちろん、筆者としては、『ロック、ストック』や『スナッチ』によってリッチーに惹かれたのだから、それらのように、『シャーロック・ホームズ』よりは観る者を限定し、ブラックユーモアやバイオレンス描写が作品の特質を示す群像劇を観ていきたいという欲望もある。しかし、リッチーは『スウェプト・アウェイ』以降、迷走してしまった。その果てに『シャーロック・ホームズ』の如き、大衆的で、普遍的なアクション映画を撮ったのであれば、その路線で彼が映画監督として生きていければ、それで構わないと思う。なぜなら『シャーロック・ホームズ』は大衆的で普遍的なアクション映画として成功しているからだ。

 

 

とはいえ、ガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』から、ブラックユーモアが消えた訳ではない。

特に悪役ブラックウッド卿が死刑宣告をされて絞首刑になった後、復活してホームズたちを苦しめ、最後にタワーブリッジでホームズと対決して敗れた時、首吊りで死んでしまう結末には顕著に感じられるだろう。そもそも、原作通りとはいえ、貸家に銃を放って、「VR」(ヴィクトリア女王)の文字を弾痕で書いてみせるほどの奇行を起こすホームズ自身が、ブラックユーモアの最たるものだ。何を言われても動じず、そして自らの頭脳明晰さを示すためには、相手の感情を逆なですることも厭わない彼は、物語中で相棒のワトスン博士が彼を殴ってしまうほどに、シニカルな存在である。『スナッチ』におけるミッキー・オニールのタフさを彷彿とさせるほどだ。ホームズは、ミッキーの後継者的存在といって良いだろう。

 

ワトスン博士がホームズを殴ってしまったエピソードは、ワトスンが婚約者メアリーを伴ってホームズと食事をした際、ホームズがメアリーに失礼な態度を取ったことに起因する。ホームズがメアリーの容姿や洋服についたシミや汚れなどから彼女がどんな仕事をしているか、どのような過程でワトスンと結ばれたかを暴くプロセスは、あまりに厚顔な物言いで、メアリーを憤らせるが、ちょっとしたヒントから全てを暴き出す探偵としての炯眼に、観る者は驚き、そして、笑いがこみ上げてくるはずだ。

 

ただ、こうしたブラックユーモアも、『スナッチ』でフォー・フィンガーが腕を切り落とされたり、ブリックトップが不要な者を豚の餌にすると喚いたりといったような毒々しいものとは違って、大衆的で普遍的なアクション映画に対して、ガイ・リッチーのスパイスがほんの少々、ふりかけられているものに過ぎない。しかし本作で腕が切り落とされるシーンがあったら、品の良いミステリ小説である原作のイメージが損なわれるだろうし、それでは本作はヒットしまい。ちょっとした隠し味程度にブラックユーモアが散らされているところに留めているからこそ、普遍性を獲得し得たということができる。

 

 

本作『シャーロック・ホームズ』の主役はロバート・ダウニーJr.だが、もう一人の主役を挙げるとすれば、ハンス・ジマーだろう。そう、本作の音楽を手掛けたハンス・ジマーである。

 

本作のジマーの音楽は物語をけん引する。

 

冒頭から始まり、随所で流れるメイン音楽は、シャーロック・ホームズが「次の事件に行こうか」と画面に向かって語りかけるところまで一貫して流れ、シャーロック・ホームズを演じるのはダウニーJr.だけではない、音楽もそうなのだと言わんばかりの強い存在感である。それだけこの映画の音楽は、ホームズのコミカルさ・ユーモア、殺人事件やホームズの行う穏やかな暴力性などを露骨に表現していた。この映画の音楽は、映画の背景に流れるべき、文字通りバックミュージックに留まるものではなく、ダウニーJr.と共に並んで、ラストまで疾走するのだ。

【映画レビュー】 アーティスト 評価☆☆★★★ (2011年 フランス)

 

 1927年~1932年までのハリウッドにおける、「サイレント映画」の衰退と「トーキー映画」の勃興と共に、サイレント映画の男性スターの没落とトーキー映画の女性スターが飛躍していく姿を描く。男性スター・ジョージは、トーキー映画の勃興には目もくれずサイレント映画に拘泥するあまり、忘れ去られる俳優にまで磊落してしまう。女性スター・ペピーは、トーキー映画の波に上手く乗り、端役からあれよあれよという間にトーキー映画の主演を張るまでになっていく。

 

本作はサイレント映画として撮られているので、ストーリーは、俳優たちの声のない演技と、途中で挿入される字幕で想像する他にない。サイレント映画に拘るジョージが夢の中で声を発するのと、ラスト以外、俳優たちは声を発しない。その代わりほとんどのシーンで、クラシック映画で使われていたような古めかしいBGMが流れている。

 

要は、現代にサイレント映画を蘇らせて批評家筋の評価を得たことが『アーティスト』の商売上手なところで、フランス映画ながら、アカデミー作品賞および監督賞を受賞した。字幕もセリフも英語だから、製作国や監督、主演がフランス人でもアメリカ映画のようである。アメリカのサイレント映画を愛し、ジョージという一人の没落した俳優が、トーキー映画のスターであるペピーの力を借りて復活し、サイレントではなく、ミュージカル映画で復活するという流れが、いかにもアメリカ映画的で評価されるのも当然かという気がする。だがこれは批評家受けしやすい映画ということでもある。現代にサイレント映画を蘇らせてもらっても、観る者としては、なぜ今更サイレントなのかよく分からない。サイレントにすると、ストーリーは想像しなければならず、説明不足な場面も多々あり、それが面白いかと言えば、面白いものではないだろう。説明が過剰な映画では困るが、トーキー映画がこれだけ流行したのは、観る者が感情移入しやすくするために必然だったのだろう。『アーティスト』だって、結局はトーキー映画の最たるもの(セリフを音声で話すのはもちろん、歌って踊るミュージカル映画なのだから)になって終わるのだから、トーキーはこれからも映画の中心であり続ける。むしろこの時代にサイレントを敢えてぶつけるところが、いかにも批評家狙いでいやらしく感じた。

 

この映画を観終わって思ったのが、批評家受けしやすい映画であるということと、現代の映画製作者が作ったサイレント映画ということ以上の意味は感じられなかった。それなら過去にあるサイレント映画を観ることと、どう違うのか・・・本作の存在意義に疑問を感じざるを得ないのであった。

 

トーキー映画のスターとなるペピーが売れていくストーリーは説明が足りず、なぜ彼女がスターとなったのか、筆者は理解できぬまま、映画は進んでしまう。彼女はかつてのスターであるジョージから売れるには個性を出すように言われて「つけぼくろ」をつけるアドバイスを受けるが、まさかそれだけで売れた訳ではないだろうし、ペピーにかわいらしさがあったり、絶世の美女であったりするならまだしも、個性的な容貌で、見た目で人気女優になった訳でもないらしい。ジョージのようにユーモアたっぷりの表情があって、タップダンスが素晴らしくて、陽気さの中に強い哀切さを相手に覚えさせるような設定であれば、観る者にも納得感があろうが、ペピーがスターとなっていく過程は唐突で、あまりに説明がない。サイレント映画だから許される訳でもないだろうし、それさえも想像せよと言うのであれば、現代にサイレント映画など提示するべきではない。

 

主演のジャン・デュジャルダンはコメディアンだそうだが、美男子ながらもユーモラスな表情と仕草を漂わせており、彼の演技を見ているだけで楽しくなる。この映画はデュジャルダンのためにあるようなもので、彼が演じたジョージの栄枯盛衰をメロドラマとして描いているのである。デュジャルダンのためだけに、本作には☆2つを付けたい。あと、彼が映画の中で飼っている犬か。とてつもなく芸達者でかわいかった。

 

またしても、この程度でアカデミー作品賞なのかと、『グラディエーター』(2000年)に引き続き残念であるが、どこかの作品で筆者を唸らせるアカデミー作品賞受賞作はないものかと、再び映画のレンタルに手を伸ばしてしまうのだろうが・・・

【書評】 ぼく東綺憚 著者永井荷風 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

 

 

荷風は、ニーチェと共に若い時分の筆者にとって反時代性の象徴のような存在だった。現実に目を背けて江戸戯作に懐旧の念を抱く荷風についても、あるいは、現実の東京を散策して江戸の残り香を発見する荷風についても、どちらも反時代性を体現する、眩しい偶像であった。

30代の現在、荷風は、反時代的であることに変わりはないが、やや苔むした像へと落ちていった。かつては崇拝するほどの偶像であった彼も、時代の流れに適合することの妙味に親しむようになった筆者にとっては、何だか、鬱陶しい存在にさえ感じさせられるほどである。

 

江戸戯作を懐かしむ荷風の姿は、既に現実から消失した風景(これは、文字通り風景のことであり、また、人物が発する言葉の使い方についても、そのほか全て目に見えるものを総称して、ここでは風景と呼ぶ)を懐かしむものであり、現実に目を背けていると言い得る。その行動は反時代的であるが、その反発は強く、江戸の風景がもはやこの世のものではなくなったことへの憎しみ、哀しみを全て含んだ反時代性である。哀しみは、ここでは、嘆きにも換言することができるだろう。江戸の不在の衝撃はそれほどまでに大きい。

かたや、現実の東京を散策してもはや存在しないと思っていた江戸の残り香を発見する荷風の姿からは、必ずしも江戸の不在について憎悪や強い哀切を感じさせるものではない。哀切は存在するものの、現実の東京にも尚残る、江戸の風景を愛でるために帯びる哀切さである。そこには嘆きは無いし、愛でることに哀切さを帯同することでむしろその哀しみを心地よく感じ入っているかのようだ。

 

以上のようなふたつの反時代性は、本書の中にいずれも存在し得る。冒頭における「わたくしは活動写真を一度も見に行ったことがない」という一節やラジオ嫌いの一節には前者の、お雪を通じて示されるのは後者の反時代性である。そしてより一層強く感じられるのは、後者の方である。荷風は現実に目を背けるしぐさを見せるけれども、それだけが彼の全てではなく、むしろ現実の東京の中から発見できる江戸を見ることで、懐旧の念に浸る。その思いの方がより強く、『ぼく東綺憚』には、懐旧と共に帯同される哀しみを、江戸戯作や漢文の知識を感じさせる、乾いた文章に写し出すことで心地よく思い起こしていた。

 

 

『ぼく東綺憚』は荷風のふたつの反時代性が描かれた小説である。先述のように、特に、現実の中に江戸を発見するという反時代性が強く描かれたものである。それには、物語の登場人物が反時代性のために犠牲になっても構わない。従って、物語の軸に置かれる大江匡とお雪との出会いと別れは恋愛であって恋愛ではないようなものなのだ。

 

大江とお雪は情交を続けるけれども、いつの間にか大江はお雪と会わなくなってしまう。彼らの恋愛は燃え上がることもなく、ただ情交としてその場に横たわるに過ぎない。そもそも彼らの関係を恋愛関係と称することが適切か判断し得ない。それほどまでにふたりは、反時代性のためにあっけなく関係を終了する。お雪は無情な大江を呪うことはしない。その幕切れは、激情に駆られるでもなく、無暗に哀情を誘うこともなく、淡々と生じてしまう。彼らはせっかく物語上で出会って別れるのに、そこには恋愛から生じる熱量は感じられない。彼らの出会いと別れは、『ぼく東綺憚』という虚構の中で、さらに、反時代的な懐旧と哀切とを表現するために、出会いと別れの虚構を演じさせられているかのようなのだ。しかも本書は、季節の変遷と共に物語を進行させていくのである。それほどまでに、彼らの関係は、人工的なのだ。

 

そしてそれを見つめているのは、作者である永井荷風そのひとだろう。その視点がグロテスクに映らずにおかれるのは、物語が終了したあとに書かれる作後贅言のせいだ。これが物語のみで終わったのであれば、『ぼく東綺憚』は、女に好かれる大江匡と、美しいお雪との恋愛を作者の都合の良いように描いたに過ぎないようにも読める。それを、作後贅言という、物語とは別な文章を書くことで、大江とお雪との関係を客観視する荷風の視線を読者に感じさせるのである。『ぼく東綺憚』は大江とお雪という主要人物が出てくる物語であるけれども、ふたりの恋愛などは反時代性の犠牲になるのだし、作後贅言が示すように反時代性における懐旧と哀切とを描くことだけが、この小説の狙いなのだから、それは功を奏したと見るべきなのだろう。