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【映画レビュー】 午後8時の訪問者 評価☆☆☆☆★ (2016年 ベルギー、フランス)

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ダルデンヌ兄弟の『午後8時の訪問者』を観に新宿武蔵野館まで訪れた。筆者はダルデンヌ兄弟の映画を『サンドラの週末』しか観たことがない。

新宿武蔵野館は、JR新宿駅東口にある。この映画館には行ったことがあるのか記憶がない。この近辺にはコムサストアがあって、学生時代にはよく行ったものだ。そして近辺の店をいくつもハシゴした。
今みたいにゾゾタウンやグラムールなんかで、ブランド品を安く買えるような時代ではなかったので、安く衣服を買うには、ユニクロやザラ、そしてコムサを利用するしかなかった。ユニクロはなかなか傷まないがデザインが嫌いで、ザラはデザインは洗練されているが質が悪かった。だからその中間的なところをとって、コムサを買っていたのだ。特に年末年始は安く買えるので、バーゲンセールになると主婦のように商品に殺到した。いつしか社会人になり、金をかけて衣服を買うようになると、コムサには行かなくなる。そして結婚して金が自由にならなくなった時、ゾゾタウンやグラムールを使って、ブランド品を安く買うようになる。時にはコムサを、定価よりも安く買うことにもなる訳だ。社会人になれば、もうコムサから卒業したのかと思い込んでいたのだが、金がないなら仕方なく買うのだけれど、新宿のコムサに行くことはない。ネットで買う方が安く買えるので、結局、新宿のコムサには行かないのである。だから、久しぶりに新宿武蔵野館を訪れるためにその界隈を歩いた時、懐かしさがこみ上げてきたのであった。

フランスの郊外、午後8時に診療所を訪れた黒人の若い女性が、翌日、無残な遺体で発見される。
刑事が診療所を訪れていたことで、その女性が亡くなったことを知る医師のジェニーは、自らの責任を問う。その女性は身元を証明するものは何も持たない、無名の女性だったのだ。どうやら娼婦であることは分かっているが、どんな人間かは全く分からぬままだ。
警察の捜査に協力する中でジェニーは涙してしまう。自らが事件に巻き込まれた事態を悪く捉えることもできようが、彼女は落涙する。そして、無名の女性の身元を証明、そして彼女の死の真相を知るために、奔走していく。その奔走の動機はジェニーの「償い」によるものである。彼女は明確に罪とは規定できないながらも、「罪悪感」を覚え、罪のようなものを償うために街を歩き続ける。

物語の骨格は『サンドラの週末』と同じで、主人公が何らかの目的達成のために奔走する物語である。そして、それが達成されるか否かは別として、奔走したことは、主人公にとって意味を有して終わるのだ。
『サンドラの週末』は、自らの復職を求めてサンドラが同僚の元を訪ねまわった。そして本作では、主人公ジェニーは、無残な姿で死んだ無名の女性が無名のまま埋葬されることが忍びなく、彼女の身元を証明し、そして死の真相を知るために方方を訪ねまわるのである。

『サンドラ』と物語の骨格は同じでも方向性が違うかに見えるのは、『サンドラ』では復職というプライベートな目的を達成しようとするのに対し、本作では見も知らぬ無名の女性の身元を証明したいという、ややパブリックな目的を達成しようとすることである。観る者にはなぜ医師ジェニーがかくも無名の女性のために奔走するのか理解し得ない部分はある。それは身元の証明が、少々パブリックな目的であるからだろう。しかし所詮は「少々」だ。パブリックに見えるといっても、既に死んでしまった無名の女性の身元を証明し、死の真相を知ることが、誰の利益になるのか。物語の中で、警察は、ジェニーに「刑事の真似をするな」と警告する。そう、ジェニーの行動は公的には、無意味なことなのだ。従って『サンドラの週末』に比べればややパブリックに見えるが、実質はプライベートな目的を達成するための物語ということができよう。

物語の中で、ジェニーは無名の女性の身元を証明し、彼女死の原因まで突き止めることに成功する。無名の女性の姉が出てくる結末は作為的なものを感じるが、ジェニーの奔走が有意味であることを語るには作為的な方が適切なのかもしれない。

ジェニーは、方々を奔走する。その先々で、無名の女性の死因に近づくにつれ、死因に関わる人間たちの罪のようなものに行き当たる。まさしく、ジェニーと同じく、明確に罪とは規定できないながらも、彼女の死に何らかの形で関わることで、全く罪ではないとは、言い切れないものを抱える人間たちと出会う。

例えば、無名の女性が娼婦として、トレーラーの中で性行為をしている姿を覗いてしまった少年である。あるいは、そのトレーラーの中で無名の女性に相手をしてもらった老人、そしてその老人の息子である。そして、無名の女性の死に最も関わっている、件の少年の父である(父は女性を殺してはいないということが、明確に罪を犯していないながらも、ハッキリと罪を犯していないとは言い切れないものを抱えた者の典型である)。
彼らに対して、医師ジェニーは真相を知るために近づき、話を聞こうとするが、しかし誰に対しても彼女は責めることがない。「医師には守秘義務がある」というジェニーのセリフは印象的だ。誰に対しても明確な罪はないかもしれないが、うずうずと心の奥底に仄見える罪のようなものは、消えることがなかろう。それを体現しているのがジェニーなのだから、彼らを責めないのは当然の行為でもある。結末に出てくる無名の女性の姉に対しても、ジェニーは「抱きしめる」という行為に出る。ここには、単なる優しさを超越して、罪のようなものを背負った人々との共感を引き起こすための象徴のように見えている。

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【書評】 カイジから経済を学べ 著者:丹羽由一 評価☆☆☆★★ (日本)

 

カイジから経済を学べ

カイジから経済を学べ

 

 

筆者は、『カイジ』という漫画を読んだこともなければ、映画版を観たこともない。タイトルだけは有名なので知っていたが、その程度の認識であった。

 

本書は「経済を学べ」というタイトルだが、行動経済学についての読み物だ。本書のタイトルにも副題にも書かれていないが、入門書としての役割を務めようとしていた。

 

カイジ』を題材に行動経済学を紹介していく書き方だが、オーソドックスな理論を網羅していた。新古典派による、人間は「合理的な選択」を取るという前提では解明仕切れない、不合理な選択をしてしまう人間の心理と行動を紹介していく。『カイジ』という、金と命が懸かったギャンブル漫画を題材にしているところが、まさに行動経済学らしくて適切であろう。それと、パートごとに、「Q」と称してクイズのようなものがあるのが、行動経済学を実践で考えるシミュレーションになっていて、良いと思う。

 

パートごとに『カイジ』のエピソードを皮切りにして、行動経済学の理論を説明していく手法が分かりやすい。プロスペクト理論、メンタルアカウントなど、類似の入門書でも頻出の理論が大まかに解説されている。『カイジ』のエピソードは最初までで、後は前述の「Q」があったり、現実の事例があったりして、行動経済学の入門書としての役割はおおむね果たしていた。ただ、『カイジ』ファンにとっては、もう少し『カイジ』について触れて欲しいと思うかもしれないし、筆者のように特に何の思い入れのない者にとっては、『カイジ』は邪魔な付属物のようにも見えた。というのも、『カイジ』のエピソードよりも、「Q」や現実の事例の方が著者は説得力をもって書いているようだった。もしかして余り『カイジ』のことを、著者は知らないのではないか?という気もしたが、未読の筆者にとってそれは検証できない。

【書評】 しろいろの街の、その骨の体温の 著者:村田沙耶香 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 

小学校4年生から、中学2年生にかけての一人称のシンプルな物語で、「女性の性への目覚め」、「女子生徒間の階級制度」などを臨場感のある筆致で描く。特に執拗に描かれる「階級制度」は相当にリアリティがある。文章を読んでいて、あたかも眼前に主人公のいるクラスが存在するかのようだ。

ただ、この「女子生徒間の階級制度」は、角田光代直木賞受賞作『対岸の彼女』(2004年)で克明に描かれていたので、既視感が否めない。しかも本作は性描写が特筆すべきではあるが、物語性がシンプルに過ぎ、構成力では『対岸の彼女』には遠く及ばない出来であった。何しろ『対岸の彼女』は、主人公が二人いて、時間も現在と過去とに分かれ、互いの物語を行き来しながら、最後は収斂するというものだ。そのように、巧妙に読者を作者の意図通りに引き寄せる、論理的な物語の展開を本書で見ることは出来ない。

 

とはいえ、同級生の男の子を「おもちゃ」扱いする小学生時代の描写は、醜悪でありながら正視せずにはいられない魔力を持つ。一般に、男子は、女子よりも肉体の成長が遅い。そして、性的な知識については、主人公は性の知識があるが、同級生の男の子・伊吹にはそれがないという設定になっている。ゆえに、腕力が強くて性の知識が豊富な主人公は、伊吹にわいせつ行為を行うのだが、伊吹はそれが性的なものだとは分からないのである。この「分からない者」に無理に性的な行為をさせるというのは、犯罪の匂いがするけれど、エロティシズムが漂うのは否定できない。そのエロティシズムは卑しいものだが、鑑賞せざるを得ない。

 

主人公は伊吹よりも腕力に差があるが、それを逆手に取って、伊吹に、無理やりキスをしたり身体に触れたり、エロ本を見せつける主人公と伊吹の関係は、グロテスクなエロスに包まれている。不気味でありながら甘美なのだ。しかし中学生時代になると、腕力で同級生の方が上回り、かつ性の知識を持つようになるので、途端に二人の関係はいびつでなくなる。対等な関係になってしまうからだ。不気味でありながら甘美なエロスは、二人の間から見えなくなってしまう。そして終盤までこの関係が続き、ようやく主人公が伊吹に無理やりフェラチオをする描写が出てきて、いびつな関係を示すが、もはや性の知識がある伊吹と主人公に、グロテスクなエロスを嗅ぎ取ることはできない。その証拠に、二人はいびつな関係を復活させず、「正しく」セックスをする。単なる個性的なラブストーリーと言ってしまっても差し支えないような、平凡な幕の閉じ方をしてしまった。

 

主人公は、クラス全員から蔑まれ、階級制度の最下位に落ちるのである。そんな女と「正しく」セックスをする伊吹は、作者の妄想でしかない。筆者がもし書くなら、主人公が嫌悪する形でセックスさせるか(暴力を伴うセックスとか)、あるいは、セックスを絶対にさせずに主人公の存在を全否定する言葉を吐かせるか、それとも、セックスなしで主人公を完膚無きまでに暴力でねじふせる。そして全てに否定された主人公は死を想起するという・・・

 

コンビニ人間』が面白かったので、本書を手に取った訳だが、『コンビニ人間』とは随分と差があるようだ。文章も全体的に雑な書き方で、知性が感じられない。ぐいぐいと最後まで一気に読ませるが、物語の展開が巧みなのではなく、文章が軽いだけである。『コンビニ人間』を書いてしまったのだから、現代の純文学作家の中では、村田沙耶香は抜きん出ていると信じたいが。

 

 

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【書評】 行動経済学の逆襲 著者リチャード・セイラー 評価☆☆☆☆★ (米国)

 

行動経済学の逆襲

行動経済学の逆襲

 

 行動経済学に関する一般向けの本。行動経済学の誕生から発展まで、行動経済学の研究者である著者の人生に絡めて詳細に書かれている。セイラーの語り口はユーモラスで読み物として面白い。

 

行動経済学の基本的な考え方は本書1冊で事足りるように書かれているので、学問的ではないが思想のエッセンスを知るには十分である。ノーベル経済学賞受賞者のカーネマンによる『ファスト&スロー』は、筆者は未読だが、文庫でも2分冊なので、1冊で読める本書の方が、効率的な読み方ができるような気もする。

 

単行本にして448ページと、ちょっと長いし、くどいのが難点で☆を1つ減らした。セイラーは行動経済学の権威で、一般向けの書物を何冊も出版している。本書もその一翼だが、権威だからといって長ければ良いと言うものではない。書き過ぎるのは良くないと思うからだ。

【映画レビュー】 愛、アムール 評価☆☆☆☆★ (2012年 オーストリア、フランス他)

愛、アムール [DVD]

愛、アムール [DVD]

ミヒャエル・ハネケ監督作。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。米アカデミー外国語映画賞受賞。『ファニー・ゲーム』、『隠された記憶』に続いて、筆者にとっては3作目のハネケ作品である。今回も素晴らしい出来であった。ハネケは、『ファニーゲーム』ではメタミステリーを描き、『隠された記憶』では思考の一面性を批判する。普遍的に了解されているもの(ミステリー、一面的な思考)に対して、ハネケはひびを入れて壊し、異物を再生産する。本作も同様で、『愛』という題名だが、ストレートに愛を謳う映画ではない。愛という言葉そのものを問い直す映画である。筆者が観た2作に比べるとやや「ひびの入れ方」が穏やかなので、☆を5ではなく4とした。

老いた夫婦ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニヤン)と、アンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、アパルトマンで暮らす。娘は独立して、夫婦は経済的に不自由のない生活を送っている。現役で働いていた頃、彼らは音楽で生計を立てていたらしく、部屋にはピアノがある。アンヌには、成功した弟子アレクサンドルまでもいる。二人が交わす言葉は限りなく同質的で、コミュニケーションは滞りがない。あたかも、理想的な夫婦の姿に見える。他者からもジョルジュとアンヌは尊敬の対象を持たれている。

しかし、ある時、アンヌの身体に異変が起こったことから、彼らの愛の関係は狂い始めた。介護が必要になったアンヌに甲斐甲斐しく世話を焼くジョルジュだが、アンヌの身体は一向に良くならない。それどころか、アンヌは言葉にも変調をきたしていく。何を語りかけても通じ合うことができなくなる。アンヌは、意味のない言葉を発し続け、ジョルジュが何を語りかけても通じない。ある時、水を飲ませようとしたジョルジュに反発して、アンヌは水をペッと吐く。この時、ジョルジュは、アンヌに暴力を振るってしまう。そして、遂にはアンヌを手にかけて殺害しまうジョルジュ。ジョルジュとアンヌの関係は、愛なのか、それとも、いったい何と形容すれば良いのか?

愛なのか、それとも、いったい何と形容すれば良いのか、という問い自体も適切か分からない。
というのは、筆者にも妻がいて、彼女が病に倒れてしまうことの「可能性」を考えたことがない訳ではないからだ。そして、言葉が通じ合わなくなってしまうことにより、愛の関係が途切れてしまうのではないかという不安を、考えたことがあったからである。
従って、筆者も妻が病に倒れた時に甲斐甲斐しく世話を焼くだろうが、果たして、ジョルジュのように暴力を振るわないでいられるか何とも言いようがない。それほどまでに言葉は、愛の関係を保つために重要な構成要素であり、むしろ言葉がなければ愛の関係は成り立たないのではないかと思われるくらいだ。

夫婦が愛し合うために、重要な構成要素として言葉があり、むしろ言葉がなければ愛し合うことはできないのではないか。
仮にまったく言語の異なる男女(例えば日本語と、日本人にとっては馴染みの薄いノルウェー語のような言語)がいて、夫婦になって初めてお互いの言語を覚えなければならないという、極端な状況を考えてみることにしよう。その時に、夫婦は言葉が通じないことに悩み、いらだち、苦しむだろう。しかしいつか、相手の言語を理解する時は訪れる。最初は、ジェスチャーによって、モノを使うことによって、言葉の代替を図るだろう。そして、徐々にお互いの話す言語を覚えていく。あるいはどちらかの言語に合わせるかもしれない。いずれにせよ、練習によって共通の言語を理解し合うことができる。そこから初めて、愛の関係は始まる。夫婦は、言葉の交流なしに、愛し合うことなどできるはずもないのだ。
だから、このように極端な例を示してみても、配偶者の言語が通じないということは、愛の障害にはなるけれど、愛の関係を否定するものではないのだ。なぜなら、前述の通り、練習により、いずれは相手の話す言語を習得することができるためだ。そうすれば、相手が考えていることが分かるから、愛の障害にはなるが、愛の関係は否定されなくて済む。

しかし、『愛、アムール』のように、病によりアンヌが一切の言葉を理解しなくなり(フランス語だろうが、ドイツ語だろうが)、発する言葉も意味がない言葉になってしまい、もはや二度と、言葉によって交流することができなくなると、愛の関係はどうなるのか。外国語を話す夫婦の例とは違い、練習によっていずれ相手の言語を習得することができると言い得るものではない。何しろアンヌ自身も意図して言葉を発している訳ではないからである。ジョルジュに伝えたいことがあって、言葉を発しているのではない。もはや、病によって、正常な思考をすることを許されなくなったアンヌにとって、発する言葉は、意味をなさない。練習はここでは全く役に立たない。誰が、アンヌの発する無意味な言葉の意味を理解することができようか。

映画の序盤では同質的な言葉を交わし合っていた夫婦の愛の関係に、亀裂が走った時に、ジョルジュはアンヌを殴る。『愛、アムール』において、ジョルジュが放つ暴力は2回のみである。アンヌを殴った時と、アンヌの息の根を止めるために枕を用いて窒息させた時である。しかし、アンヌを殴った時に、既に、愛の関係にひびが入って崩壊する道をたどることは予想できることであり、「ジョルジュがアンヌを殴ること」は、即ち愛の関係が否定されることを暗示していたのだ。

ここまで考えてみると、「夫婦が愛し合うために、重要な構成要素として言葉があり、むしろ言葉がなければ愛し合うことはできないのではないか」・・・そう問うてみた時に、『愛、アムール』において、返ってくる答えは、「その通り。愛し合うことはできない」というものである。どうしても、ジョルジュのように、一方的な愛となってしまうのだ。夫婦を主語において、言葉がなければ、愛し合うことはできないのである。それが夫婦の愛なのであるという、冷徹な視線で老夫婦の物語を照らし出すハネケは、この映画において、夫婦の愛を問い直し、言葉がなければ破たんする、非常に脆いものが愛なのだと言う。でもそれが、夫婦愛の大きな構成要素を占める言葉というものの、あまりに大きな存在に、映画を観て、圧倒されざるを得なかった。


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