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【書評】 ダブリナーズ 著者:ジェイムズ・ジョイス 評価☆☆☆★★ (アイルランド)

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 

ジェイムズ・ジョイスのことはよく分からない。

本書は私が学生時代の頃に、同じ新潮文庫版の訳を読んだことがあるきりで、ジョイスの他の作品には縁がなかった。日本語では有名な『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』なども読むことができるが、両者とも長大な物語であり、主に通勤電車中で小説を読むことにしている私には、向かないと思っていた。じゃあ何で『悪霊』は読んだんだ?と聞かれると答えに窮するが、要は、以下の通りに、ジョイスには興味が持てなかったということだ。

 

ユリシーズ』はダブリンのある1日間を、多くの登場人物を通じて描き出す作品である。そのためだけに数千ページもの長編にすることは実験的で興味深いが、「読みたいか?」と言われると違う。それより、『カラマーゾフの兄弟』を読み返す時間に使いたいかなと思ってしまう。

尤も、ダブリンの1日間を、多様な文体によって描き出すというのは、複眼的な1日の様相が見てとれるようで、面白いような気もする。ただしホメロスの『オデュッセイア』との換骨奪胎のような構成を楽しむには『オデュッセイア』を読んでおかねばならぬとも思うし、ただでさえ長い『ユリシーズ』のためにそこまでする義理もないので、結局、買うことも図書館で借りることもなく、今に至っている。

 

そういう訳でジェイムズ・ジョイスはよく分からないのだが、Amazonで本を検索していると、「この商品を買った人はこれにも興味を持っています」みたいなメッセージと共に、商品のリストが出ることがあるだろう。その中に『ダブリナーズ』があったのだ。『ダブリン市民』ではなくて。

 

 

試しに図書館で『ダブリナーズ』のページを繰ってみると、解説に惹かれた。これまで『ダブリン市民』などと訳されていた本書がなぜ『ダブリナーズ』と訳したのかについて、訳者が理由を説明している箇所がある。英語で都市に「er」を付けて住民を表す単語は多くないというのだ。Newyorker、Londoner、Berliner・・・そしてDublinerだ。ジョイスがこのタイトルに込めた思いは強いとして、敢えて原文から直訳した『ダブリナーズ』に改めたと解説では書かれている。

 

ユリシーズ』には高い敷居を感じるものの、言葉に強い思いを込めたこと(多様な文体でダブリンの1日を描くのだから)には関心を抱いていた私は、この解説にも心を惹かれて、短編集である『ダブリナーズ』であれば、読んで良いかなと思った。それで図書館で借りて読んだのである。

 

 

本書は、ダブリンのある1日を多様な文体で描くとまではいかずとも、ダブリナーズというタイトル通り、ダブリンの住民のやや哀切の漂う物語が収められている。どれもさほど印象的な物語とはいえないが、安易なハッピーエンドで終わらず詩情があるところが良い。といって、無暗にシニカルでもないし、警句が散りばめられている訳でもない。

 

もしそういう描写が執拗にあると、サキみたいになってしまう。別段サキが悪い訳ではないのだが、本書の目的とは遠い。住民の複数の目を通して、ダブリンという街を観察することにはなり難く、読者の関心は、皮肉や警句に向かってしまうからだ。

 

おとなだけではなく、子どもが主人公の物語もあって、複合的な視点からダブリンという街を照らし出すジョイスの筆致に舌を巻くだろう。そういう面では本書は高く評価しても良いのだが、複数の住民の視点でダブリンという街を観察するだけで、物語間に関連がある訳ではないので、読んでいて面白いとは言い難い。詩情はあるし、詳細なダブリンの街の描写は独創的なのだが、関連のないダブリンの住民の物語が連綿と続くだけの短編集では、残念ながら凡作程度の評価しか出来ない。

やっぱり私にはジェイムズ・ジョイスはよく分からないのか。

【書評】 図解3ステップでできる 小さな会社の人を育てる「人事評価制度」のつくり方 著者:山元浩二 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 

中小企業の人事評価制度を支援することになって、書店を渉猟していたら、本書にたどり着いた。今まで私は複数人でプロジェクトを組んで、中堅以上の人事制度の支援を行ったことがあるが、中小企業は初めてだった。だから、もしかして中小企業らしいポイントがあるかもしれないと思って、参考書を探していたのだ。

 

読んでみると驚くなかれ、過半のページが「経営計画書」に割かれているのだ。私は仕事柄人事制度関連の書籍は多数読んでいるが、こんな本は見たことがない。

これを見て、最初私は、こんなことまでに紙幅を費やす必要はないと思った。いかに中小企業といえども、経営計画書に類するものくらいはあるだろうと高をくくっていたからだ。しかし著者の山元浩二は、中小企業の人事制度の専門家である。1000社の会社の人事制度を研究したという、本書の触れ込みもある。

「待てよ・・・高をくくるのはやめ、真摯にこの情報を活かすべきなんじゃないか」

 

そう思って、顔合わせのために顧客を訪問した時に、愚直に本書の情報をもとに、顧客の代表取締役と応対したのだ。まず、最初から会社の代表が出てくることに驚いた。人事担当も出てこない。人事の役員はいるが、代表しかしゃべらない。代表は評価制度に対する熱い思いを語る。

 

そして代表から話を聞き出していると、こんなことが分かった。

「弊社に経営計画書はありません」

 

なるほど。いや、まさか?本書の情報を頭に入れておかなかったら、もしこの情報を聞いた時に、反応に困ったかもしれない。当たり前と思っていたことが通じない時、多少なりとも混乱が生じるものだ。そうなると言葉には滑らかさがなくなり、活力を失ってしまう。商談は上手く進まずにオジャンとなる可能性だってある。危ない。本書を読んでおいて、良かった。結果的にこの企業は私の会社のお客様となってくれた。本書の著者は、中小企業領域における人事評価制度のプロだと改めて感じた。

 

 

本書では、ビジョン型人事評価制度なるものを提案している。中小企業ゆえに、会社のビジョンをストレートに人事評価制度にリンクさせることが出来るからである。

 

会社の経営ビジョンを人事評価制度にリンクするのは、何も著者が提案したものでなくとも、役割等級制度でも出来る。だが、中小企業に特化したことで、本書の提案するビジョン型人事評価制度は、活力を漲らせ、独自性を獲得していく。

 

なぜなら、経営計画書を導入に持っていくからだ。つまり、経営陣のビジョンを明確に設定することを強調し、会社のビジョンと人事評価制度が密着していることを謳う。要は、既存の制度との強調の度合いの違いであるが、ここまでビジョンと評価とを明確に訴えれば、確かに独自の手法と言い得るだろう。

 

大きな組織になればなるほど、あまり経営陣のビジョンと評価とが密着し過ぎるべきではない。もう少し部門に落とし込んだ方が良いだろう。そもそも、大きな組織なら、あまり経営者が大きな存在感を持たない方が組織はうまく回る。○○部などの部門長やその構成員たる社員たちが、自律的に動けなくなるからだ。

 

しかし中小企業のように、トップダウンがこうしろ・ああしろで、経営が上手くいくなら、ビジョン型の方が良いだろう。今後とも参考にさせていただく。

【映画レビュー】 スヌーピーのメリークリスマス 評価☆☆☆☆★ (1965年 米国)

 

 

 

GWは、皆さまはいかがお過ごしだっただろうか。筆者は全て家族サービスに費やした。何しろ子どもが3人いるので仕方がないといえば、仕方がないのだが。おかげで、せっかくの休みの日なのに、読書もできないわ、映画も観られないわ、小説も書けないわでふんだりけったりだった。

 

子どもとはゲーム(オセロ、UNO、トランプ、かるた)などをして遊んだ。上が年長、真中が年少、そして一番下は赤ん坊である。

幼稚園児でも、教えながらであれば上記のゲームをして遊んでくれるので、これなら筆者でも遊ぶのが苦にならない。ゲームの面白さを知ってしまったので、毎日のようにオセロやUNOをやらされるのは大変だったが。

 

GW中はずっと晴れていたから、外でも遊んだ。自転車、公園、かけっこ、ボール遊び、縄跳び、などだ。

 

しかしずっと子どもと遊ぶのも辛いので、妻に少し子どもを見てもらう。ちょっと車を走らせたところに日向ぼっこができる公園があるので、そこで私は簡易ベッドを持ち出し、ハワイ気分を味わった。おかげで少し日に焼けた。

 

久しぶりの出勤となった本日、同僚から「どこか行って来た?」と言われたが、「ハワイ」とでも言えばお土産を要求されるかもしれないので、正直に、「公園にね」と言うしかなかった。

 

 

子どもが観たいと言ったので『スヌーピーのメリー・クリスマス』をレンタルした。時間はわずか25分。50年前の作品とは思えぬほど完成度が高い。アニメーションだが、派手なシーンがなく、物語は教訓めいているので、大人向けである。我が子たちはスヌーピーが大好きなのだが、本作は理解できなかったようだ。

 

クリスマス到来。チャーリー・ブラウンはクリスマス劇の監督を務めることになっていた。しかしルーシーをはじめ、仲間たちは全く言うことを聞かないし、チャーリーを軽侮して言いたい放題の始末だ。

 

しかもチャーリー・ブラウンは監督なのに、クリスマスツリーを用意するようルーシーたちに命じられる。しぶしぶ、ライナスと共に探しにいくのだが、仲間が求める豪勢なツリーではなく、枯れ枝のように貧相なツリーを持ってきてしまった。

 

案の定、ルーシーたちはチャーリー・ブラウンを責める。ほとんどいじめにも近いほどの言われようである。

 

チャーリー・ブラウンは、「クリスマスをお金儲けのために利用するなんていやだ」と言う。でも、クリスマスって、じゃあ、そもそも、何の日だっけ?

 

そこでライナスはスポットライトを求める。彼だけにライトがあたり、クリスマスはキリストの生誕を祝う日だと言い、クリスマスの意義を語り始める。このシーンが非常に感動的であった。アニメなのに危うく泣かされそうだった。

 

舞台は外に移り、チャーリー・ブラウンの買って来た枯れ枝ツリーに、仲間たちみんなで「衣装」を着せて、クリスマスツリーらしく仕立て上げる。そして、仲間たちみんなで、讃美歌を歌ってフィナーレ。

 

なんとも芸術的なアニメーションであった。

 

 

妻はこの作品を観て、海外のアニメは個を大事にしているから良いねと言っていた。日本のアニメだったら、チャーリーが責められているシーンで助け舟が出てきてしまう。この作品では、チャーリーががんばって見つけてきた枯れ枝みたいなツリーでも、クリスマスの目的をはっきりと思い出せば、それでも十分にツリーたりえるということである。

 

助け船を出して協調性を示すよりも、目的を明確にさせ、チャーリーのがんばりも認めるということ。確かに、何をやってもダメなチャーリー・ブラウンであるが、彼はがんばる。がんばった結果、ダメなだけなのだ。そのがんばりだけは認めてあげても良いじゃないか。そういう個を、この作品は大事にしている。そして、商業主義的なクリスマスの本来の意味を見出させる。

【映画レビュー】 白いリボン 評価☆☆☆★★ (2009年)

白いリボン [DVD]

白いリボン [DVD]

オーストリアが世界に誇る巨匠ミヒャエル・ハネケ監督が、初めてカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した作品。ゴールデン・グローブ外国語映画賞も受賞している。

第一次大戦前夜、名もなきドイツの村で、ひとりのドクターが落馬する。原因は馬の脚に針金が引っ掛かったことによるものだ。事故ではなく、誰かが故意に針金を仕込んだものだと警察は推測する。しかし、犯人は分からない。
その後、ひとりの女性が事故で死亡する。彼女は男爵が所有する土地の小作人の妻であり、事故が起こった場所は製材所であった。その製材所で働くことを命じたのは男爵であり、直接的な事故の原因が男爵とはいえないが、男爵が事故を未然に防げたはずだと、小作人一家は思っている。誰も反旗を翻さない中、女性の息子マックスだけが、男爵のキャベツ畑を蹂躙する。
そして3番目の事件が起こる。男爵の息子ジギが暴行され、逆さ吊りの状態で発見されたのだ。最初の事件同様、この時も犯人は分からない。男爵は憤り、犯人を見つけ出さなければ村に平和はないと告げる。

男爵と牧師が支配する、この名もなき村においては、彼らに逆らっては生きてはいけないことを意味する。村人は不安に駆られるが、犯人を突き止めることができない。

更にドクターの愛人の女性の息子が暴行され、視力を奪われる事件が起こる。この時も犯人は分かることがないが、語り手である村の教師だけは、犯人に目星をつけていた。

というあらすじなのだが、ハネケ監督の『隠された記憶』同様に、犯人探しが重要なテーマではない。もっとも、『隠された記憶』に比べれば犯人は明確である。教師が突き止めたように、村の子どもたちである。だが、犯人は誰であり、そうであるから断罪されるというような展開にはならない。一見ミステリーのような体裁を持つ『白いリボン』は、アンチミステリーとまではいわないまでも、犯人を突き止めよと、男爵が言うほどには犯人探しは重要なテーマではなくなっている。

では何が重要なのかといえば、タイトルが示すように白いリボンであろう。一連の事件の犯人たる「子どもたち」は、白いリボンを付けさせられる。その意味は、「純粋さの象徴」であるが、このリボンを付けられることで純粋さを強制させられることが問題だ。白いリボンは牧師によって付けさせられる訳だが、悪いことをした子どもたちが純粋になるまで、このリボンを取ってはならないと、彼は言う。

この牧師の姿に象徴されるように、男爵、牧師、そしてドクターは、子どもたちを心理的にも物理的にも支配する。誰も、この3人には逆らえない。村を支配する男爵と牧師とはまた違った支配の仕方である。子どもは大人よりも弱いから、もっと執拗に、強権的に、支配するのである。一方で子どもたちは純粋だと彼らは本気で考えている。純粋であるがゆえに、大人の心理的かつ物理的な支配にも抵抗することなく従うだろうと、考えているかのようだ。

子どもは大人に反抗する言葉を持てない。男爵を忌避して別れを切り出すことのできる、彼の妻のように。あるいはキャベツ畑を荒らしたマックスのように。だから、子どもは言葉の代わりに暴力に打って出る訳である。白いリボンを赤い血で染めることも厭わず、彼らはドクターを落馬させ、男爵の子どもに暴行し、ドクターの愛人の息子の視力を奪う。また、事件にはなっていないが、牧師が飼っている鳥を、実の娘が殺すこともする。

筆者はこれで4本のハネケ作品を観た訳だが、本作だけは今ひとつ評価できなかった。どうやらハネケ監督は自作『ファニーゲーム』と『隠された記憶』という2つの傑作の呪縛から逃れられないかのようだ。この2つに混乱させられているように感じる。

ファニーゲーム』はメタスリラー映画であるために、敢えて暴力描写を見せなかった。そして『隠された記憶』は、「過去の罪」を浮かび上がらせることに終始するために、敢えて犯人を突き止めなかった。そして『白いリボン』は、この2つの映画のいずれにもある特徴を備えている。控え目な暴力描写、犯人探しをしないこと。だが、そんなことをする必要はどこにもない。

この映画で重要なのは支配者の圧倒的なまでの強権的支配、そしてそれに対抗する子どもたちの暴力的な反抗である。それにもかかわらず、映画は犯人探しをしてしまっている。そして、犯人を教師が突き止めるのが終盤で、かつ、その証言を聞いた牧師は子ども=犯人説を否定して終わる。まるで『隠された記憶』のように、犯人を突き止めない。だが、筆者は、子どもが犯人であることを早々に突き止め、子どもが暴力を働いている凄惨なシーンを見せるべきだったと思う。そうすることで、子どもの狂気が伝わってくるからだ。

支配者(男爵、牧師、ドクター)は、子どもを心理的にも物理的にも支配する。それに反抗するための言葉を持てない子どもたちは、暴力という手を使うほかになかった。しかし暴力を振るっているシーンを敢えて描かないということは、狂気が伝わりにくいことに繋がる。しかしそれでもその演出を取ってしまったハネケは、意味もないのに、『ファニーゲーム』と同じ手法を取ってしまい、かえって、映画の重要なテーマを観る者に伝え損ねてしまっているのだ。

ただ、そうはいっても、映画の重要なテーマは、映画を観れば理解できるものだし(シンプルなテーマだから当然だが)、それ自体は悪くない。悪くないが、映画を観た後に数多くの言葉を紡がせるような、『ファニーゲーム』や『隠された記憶』、あるいは『愛、アムール』のようなものはなかった。ハネケの映画を観ると、言葉が怒涛のように流れてきて、あるいは思考して、さらなる言葉を考え出して提示したくなるものだが、『白いリボン』に至っては、シンプル過ぎるテーマもあってか、村の異常性が伝わり難いせいか、淡々としか流れ出るものがない。


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【映画レビュー】 アウトレイジ 評価☆☆☆☆★ (2010年)

アウトレイジ [DVD]

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アウトレイジ』は、関東の暴力団組織山王会グループ(池元組、大友組)、そしてグループには属さない村瀬組同士の抗争を描く。

抗争を仕掛けたのは山王会会長の関内である。あたかも、関内会長は大企業の社長のようであり、神のようでもある。

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山王会会長の関内(北村聡一朗)


山王会のグループには、池元組があり、その組長が池元である。池元組は大企業・山王会の子会社のような存在だ。山王会の中核で、規模は中堅企業のようなものか。

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池元組会長の池元(國村準)


そして、更に池元組の傘下に、大友組という小規模な暴力団組織がある。その組長が大友であり、物語の一応の主人公である。大友組は山王会にとっては孫会社のような存在といえる。

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大友組組長の大友(ビートたけし


最後に、山王会グループではないが、池元と兄弟の盃を交わしている村瀬組がある。組長は村瀬だ。村瀬組の規模は大友組と似たようなもので小規模である。池元と村瀬は兄弟分とはいえ、巨大暴力団組織である山王会に属する池元組からは、後ろ盾がないだけにいいように使われている。特に、「山王会会長から盃をもらえる段取りを取ってくれ」という村瀬の要望を、池元は利用して懐を温めようとする。池元は村瀬の要望をはなから聞く気がない訳だ。

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村瀬組組長の村瀬(石橋蓮司

物語は、関内会長の言葉通りに事が運んでいく。全ては、池元組、大友組、そして村瀬組の壊滅の目的のためである。

最初は、村瀬組と大友組に「いざこざ」を起こさせる。すなわち村瀬組のぽん引きに、大友組(バックには池元組がいる)が騙されたような振りをして、村瀬組に落とし前をつけさせようとするのである。しかし、この「いざこざ」は暴力団の抗争のほんの序章に過ぎず、このちょっとした「いざこざ」から、池元、大友、村瀬組の全てが壊滅してしまうことになるのだ。そして、その全ての筋書きを書いたのが、山王会会長の関内である。だから彼は相当な知恵者といえるし、あたかも神のように傘下の池元、大友、そして村瀬組をコマのように使う。

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ことの発端は、たかがぽん引きの間違いから起こったいざこざであった。それが山王会の傘下の組および村瀬組同士の潰し合いへと発展していく。


大友組の組長である大友は、手下の水野や石原を使って、”親会社”の池元組の命令を忠実に守り、村瀬組に喧嘩を吹っ掛けていく。終盤では関内会長も言葉を直接挟み、村瀬組を潰しにかかる。しかし結局大友組は、池元組に利用されるだけの駒であって、さんざん池元組のために誠実に仕事を果たしたにもかかわらず、大友組は「波紋」させられてしまうのだ。

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水野(椎名桔平

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石原(加瀬亮


そこで、今度は大友組は親会社である池元組を潰そうとするのだが、ここでも別段大友組の自由意志が働いている訳ではない。「波紋」にはもちろん関内会長の了解があるはずなのに、関内会長は、大友に、「波紋は池元の独断だ」と言うのだから。そして大友はそれを信じ、池元を殺害するに至るのだが、結局、大友組という組織は、関内会長の操り人形に過ぎない。意思などつゆほどにもないのである。池元がやれといえば村瀬だって殺すし、関内がやれといえば池元だって殺す訳である。

しかし、あたかも零細企業の経営者然としている大友は、関内会長のいう通りに動かざるを得ないのである。そうしなければ彼は、暴力団組織の中で生きてはいけないだろうから。

ずっと筆者は、暴力団組織と企業とを同一視するかのような表現を使い続けてきたが、『アウトレイジ』の目指したものは、大企業にいいように利用されて散っていった零細企業に相通じるものがあるからである。暴力団という舞台を使いつつも、どう見ても「企業」にしか見えないし、大友は零細企業の経営者にしか見えない。もっと規模を小さくして、山王会グループを1つの企業と捉えても良い。そうすれば、関内会長は社長で、池元は部長、そして大友は課長といったところである。村瀬は企業と癒着のある業者と捉えたらどうか。あるいは、こうした上下関係のある全ての組織として捉えることもできよう。

いずれにしても『アウトレイジ』は、暴力団を扱いながらも、我々とは縁遠い、バイオレンスに満ち満ちた暴力団というだけでなく、あらゆる組織における争いを、暴力団という装置を使って象徴的に描いた、稀有な作品ということができるだろう。

池元、大友、村瀬組は壊滅し、残ったのは巨大化していく山王会だけである(もっと傘下の組の数はあるだろうが)。山王会の利益のためだけに、池元も大友も村瀬も全て消失してしまった。消失すれば、村瀬組なき後、大友組が村瀬の仕事を取れたように、山王会もその分ビジネスを拡大することができるのである。3つの組がなくなった後、山王会だけが、肥え太るのだ。

このように、『アウトレイジ』は、暴力団という装置を使いながら、組織における普遍的な争いをあぶり出すことに成功したのだが、キャッチコピーの不味さや、過剰とも言い得るバイオレンス描写のために、「ちょっと人間関係が複雑で、しかし登場人物が魅力的なバイオレンス映画」というようにしか捉え難いところがある。

キャッチコピーの中で「全員悪人」というものがあってこれを槍玉に挙げたい。なぜなら筆者は、この映画を観て、登場人物に悪を感じることはなかった。
暴力団だから暴力を使うのだろうと思った。だからそこに悪は感じ難い。当たり前に思うからである。また、バイオレンス映画というジャンルゆえに、暴力に悪を感じ難いのである。銃を撃って人を殺害しても、そこに悪を感じづらい。過剰なまでの暴力描写があるゆえに、登場人物は全員悪人なのかもしれない。確かに暴力団は、存在そのものが悪というイメージがあるだろう。だが特に、『アウトレイジ』を観て、善とか悪とかいった倫理的な意識を呼び覚まされることはまるでなかった。その理由は先ほども述べたように暴力団ゆえの暴力行為であるし、バイオレンス映画というジャンルが既に、暴力を許容してしまっているのだ。だから、悪人と言われてもピンとこない。北野監督は、本当にこのような無意味とも言い得るキャッチコピーを良いと思ったのだろうか?こんな奇妙なコピーにしてしまうと作品の本質を観てもらえなくなる。

バイオレンス描写については、判断が難しいところである。
コピーのように不味いものではないが、それにしても過剰である。どうしても『アウトレイジ』といえば、拷問・殺人シーンのいくつかを思い出す。特に村瀬の歯医者における拷問のシーン、池元の拷問シーン、水野の殺人シーンは極めて印象的である。筆者はどれも刺激的で独創的なので好んでいるが、これらの描写のために『アウトレイジ』といえば拷問・殺人シーンというキーワードに引きずられてしまうことは、残念ながら否めない。

本作はカンヌ映画祭コンペティションに出品されて、ブーイングを受けた作品だ。身体の欠損のシーンもあるので、つい目を背けたくなるような、視覚的な強い痛みを伴う描写が散見される。それだけで本作の根底に流れるテーマ(組織における普遍的な争い)を見誤って欲しくはないのだが、見誤らざるを得ないのである。それだけ、『アウトレイジ』のバイオレンス描写は、『アウトレイジ』とイコールに考えたくなるほど過剰である。痛みを伴うシーンを先に考え、そこから物語の骨格を作っていったという北野監督が語った言葉があるそうだが、その企画の段階で、本作が質を少し下げてしまったところがあるのは、惜しいところである。

まあ、筆者はそういう点も含めて『アウトレイジ』シリーズは大好きなのだが・・・


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