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【書評】 ミクロ経済学の第一歩 著者:安藤至大 評価☆☆☆☆★ (日本)

ミクロ経済学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

ミクロ経済学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

出張中の新幹線の中で読むために、ミクロ経済学の教科書を探していたら本書に行き当たった。別にミクロ経済学の復習をしたかった訳ではなく、新幹線内で手持ち無沙汰なので読んだだけだが、これがなかなか面白かった。

実例が豊富で、理解を深めながら次々と読めてしまう。新幹線「東京→大阪間」の往復と、ホテルの空き時間で読んでみた。本書は、大学で初めてミクロを学ぶ学部生向けに書かれているが、数学がほとんど使われておらず、適切な実例があるので、経済学を専攻していない学生でも十分に読める。つまりは、単なる知的好奇心の一つとして。

私も、機会費用や外部性などは良い復習になった。

山形浩生が『この世で一番おもしろいミクロ経済学』の訳者あとがきで書いていたように記憶するが、結局、経済学は手を動かして問題を解くことで身に着く要素がある(こういう場合はどうだ、ああいう場合はどうだ・・・のように)ので、ただ本を流し読みしただけでは分かったようにはならない。そこが経済学のとっきつきにくい点なのだが、先ずは、手を動かして問題を解かせるようにするための動機が必要である。その動機としては、入門書が最適であり、山形が訳した『この世で一番』シリーズもその一冊なのだが、私は本書の方が経済学をもっと知りたいと思わせるに足る動機となる入門書たりえたと思う。

その理由はやはり事例なのだが、抽象的な用語を深く理解するには、具体的な事例を用いて説明されることで、理解が深まっていく。ただ、定義が少し分かり辛いところがあるのは気になった。もう少しスパッと言い切れると思う。

【書評】 潤一郎ラビリンス〈8〉犯罪小説集 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

谷崎潤一郎の犯罪小説集。ミステリーを読まない私だが、谷崎や乱歩などのグロテスクで血みどろの物語は読んでいる。ここに収められた「途上」や「柳湯の事件」などは、ラビリンスよりも前に、集英社文庫で同様の短篇集があって、私はそこで初めて谷崎の犯罪小説を読んだ。ミステリーにしては合理的でなくロジカルな小説ではないと感じたが、それでも嗜虐的でグロテスクな描写は快楽的で、技巧的なミステリーよりもよほど私には魅力である。

ラビリンス〈8〉に収められているのは「前科者」「柳湯の事件」「呪はれた戯曲」「途上」「私」「或る調書の一節」「或る罪の動機」の7編。

私がつい再読してしまうのは「柳湯の事件」で、銭湯の奥底に女の死体が横たわっているという奇怪な着想は、足でその死体を確認するという描写により、ジメジメとした不快感を皮膚感覚に伝えずにはおかない。そう、私はこの作品を目で読みながら、どうやら視覚ではなく触覚による読書感覚を味わっているのだ。湯が大勢の客で賑わって濁っているために、湯の底がどうなっているか不明な湯船。そこにどっかと浸かって指先で底を触ってみるとそこにはゴムのようなものがある。そして、藻のようなものが絡みつく。これは果たして、女の死体ではないか。ゴムというのは柔らかい女の体で、藻は髪の毛ではないのか?そういった皮膚感覚に訴える執拗な描写が続き、私はいつしか読みながら銭湯にいる気になる。そのくらいリアリティがあり、著者の筆は滑らかだ。

物語が進むと女の死体というのは彼の妄想で、風呂の奥底には、代わりに男の死体が横たえられているのが分かるが、その男は主人公に急所を掴まれて殺害されたというので、なぜこんな殺され方をするのか、奇怪で、可笑しみを堪えきれない。

谷崎はラビリンス〈4〉で書いた通り、足で踏む行為を特筆して描いているが、「柳湯の事件」では、人間の足は死体を踏むのである。そして藻のような髪の毛が人間の足にまとわりつき、人間を不気味がらせる。谷崎にとっての足は、再三再四小説のモチーフとして現れる通り重要なものだが、銭湯で死体を踏む行為は「柳湯の事件」独特のスケッチだろう。犯罪小説として書かれたがゆえに、足は、死体を踏むのである。

「途上」は乱歩も好きだった短篇で、散歩をしながら相手の犯罪を暴く心理的な犯罪小説である。「柳湯の事件」よりはだいぶミステリー寄りの小説で、それゆえに乱歩が好んだのだろうが、私はミステリーのロジックよりもむしろ「妻を愛さない男」という設定にこそ注目する。ラビリンス〈8〉にも所収されている「呪われた戯曲」には、より顕著に妻を愛さない男の身勝手な犯罪が描かれている。女性から虐げられることを自ら選ぶ男を描くことが多い谷崎が、妻を愛さずに殺す男を描いたのは興味深い。

谷崎は、何故こうも妻を愛さない男を執拗に描いたのか。「途上」にしても「呪われた戯曲」にしても他に愛人があって、愛人は性的に魅力的だが妻は善良すぎて退屈な人物として描かれている。退屈な人物だから男には不要なのだが、愛人を魅力的に描くよりも、妻の無聊さを仔細に描くことで、如何に善良なだけの女は殺したいほど退屈なのかを言っているようだ。

それゆえ殺害するに至るのだが、だからといって露骨に殺す訳にはいかない。それで、思案したのが、完全犯罪を企図して殺すという方法である。いずれも他者から暴かれてはいるのだが、暴く者がいなければ、人間の手を経ずに死を迎えたかに見える。それくらい自然の死を迎えたかのように、殺害する方法を取った犯罪者たちは、邪魔者を排除して、あとはせいせいと愛人と楽しむ。犯罪が露見しては楽しめないので、完全犯罪を企図し、実行したという訳だ。

「呪われた戯曲」については、メタ戯曲のような体裁で、作家である主人公は、脚本に自分と妻を描く。脚本の中でも主人公は脚本を書いており、書かれた脚本にはまた主人公が脚本を書いているというような設定である。どこまでも合わせ鏡のように世界が連続して続いている。

脚本の主人公と妻は、現実を活写していて、妻は、自分の立ち位置が一体現実なのか非現実なのか分からなくなる。


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【映画レビュー】 キング・アーサー 評価☆☆☆☆★ (2017年 米国、英国他)


CM Nike [Take It To The Next Level].avi

 

 

 

Rotten Tomatoesで支持率わずか28%の低評価(2017.6.20時点)を受けたガイ・リッチー監督の新作『キング・アーサー』を劇場で観た。ちなみにリッチー監督の代表作『シャーロック・ホームズ』シリーズのRTでの評価は、初代70%、シャドウゲーム60%なので、『キング・アーサー』のそれは、相当な低評価である。

www.rottentomatoes.com

 

しかし私の評価は、本記事のタイトルを見てもらえれば分かる通り高評価だ。私はリッチーの初期の犯罪群像劇『ロック、ストック』や『スナッチ』における計画的な物語も好むが、『シャーロック・ホームズ』のように怒涛の展開を見せる直線的な物語も好きである。しかしリッチーの前作『コードネームUNCLE』のごとき落ち着いた映画は得意ではない。だから今回の映画はどの作品と似ているのか待ち遠しく、あるいは不安を感じながら鑑賞した。

 

そしたらどこの作品にも似ていないではないか。いや、そうではない。似ているといえば『シャーロック・ホームズ』に似てはいる。この限りなきスピーディな物語の進展は『ホームズ』だ。だが、どうもしっくりこない。それよりももっと似ている作品があるのではないか。

 

それがYouTubeの動画として掲げた「Take it To The Next Level」である。ナイキのCMに使われた動画で、YouTubeに残っているのは2分間の動画だ。

 

これを見るとまさに『キング・アーサー』の縮小版といった向きである。CMはサッカー選手だが、物語の類似性ではなく「疾走」が似ているのである。もっとも、CMの物語も、クラブに所属して、悪戦苦闘を経て、一流のサッカー選手にまで上り詰める姿を描いているのだから、物語も『キング・アーサー』と似たところがないではない。だがもっとよく似ているところがその「疾走」なのである。

 

CMでは迸るロックミュージックを同伴者に、フィールドを疾走するサッカー選手の姿が描かれた。彼の姿は客観的には捉えられず、一人称視点でフィールドを走り抜く。カメラはどこまでも選手の足を追い、彼のシュートとゴールを捉え抜いている。そのケレン味たっぷりの演出は、サッカー選手のスピード感を徹底して追求することに捧げられていて、観る者を全く思考させることなく、ただその画面の動きと同時並行的に、足とボールの動きに合わせて全速力で駆け抜ける。サッカー選手にも紆余曲折があって、ただずっと選手として最高潮にいる訳ではなく、終盤ではフィールドに倒れ、もはやかつてのシュートの一撃が打てなくなるかのようだが、刹那的に立ち上がり、再びボールを蹴り上げる。

 

 『キング・アーサー』では、冒頭からこの「疾走」が描かれる。主人公アーサーは、叔父に父を殺された男として描かれる。といっても未だ幼く、父母の殺害シーンを目にするも記憶することもできないくらいだ(幼さは巧みに、アーサーの記憶の奥底に父母の殺害場面をそっとしまい込む。そうしなければアーサーは傷心のまま成長することになるが、そうなるとまともに大人になることはできないだろう)。そして青年に成長するまでの少年時代の葛藤と苦難と力の膨張を、躍動する弦楽器を同伴して疾風のように素早く描出する。その間、私は目の動きを縦横に動かさなければ物語の展開についていけないくらいだ。この成長の記録を、光の速さのように、さっさと描き抜く速さは、ガイ・リッチーのCMの「疾走」そのものなのだ。

 

キング・アーサー』は、「疾走」を冒頭の少年時代の光速的な動画と音楽のみの説明から開始し、以後、その流れは終盤まで延々と続いていく。少年時代の物語はこの映画の象徴で、躍動するロックアレンジの弦楽器とともにアーサーの疾走を描いていき、途中思考するために止まるけれども、ついには王の冠を手にするまでに至るのである。少年時代の素早い物語は、映像を観ているにもかかわらず、激しい音楽を聴いているかのような感覚を味わわせるのだが、この音楽のような感覚は、最後まで続いていく。いつまでも観ていたいような、あるいは聴いていたいような惑溺は、『キング・アーサー』の大きな価値である。

 

とはいえ、「新機軸のソードアクション」と銘打つほどに剣の捌きあいが独特でないのは惜しいところだが、ロンドンの街並みを全速力で走り抜けるアーサー一行の「疾走」は、その独特とはいえぬまでも十分に見られるレベルにある剣の戦闘の平凡さを、何とか許容しても良いほどに刺激的な動きを示しているのだ。

 

 

キング・アーサー』は、中世ヨーロッパ、それも英国の中世時代を描いているように見えて、全く歴史的な映画ではない。『シャーロック・ホームズ』が、原作があるとはいえ、リッチーの自在な解釈で暴力性と音楽性とが混合する独自のアクション映画へと昇華したように、本作も歴史的作品ではない(アーサー王が実在の人物かも不明だが)し、というよりも、だいぶファンタジー寄りの映画になっている。

 

それを知らずに観た私は怪物が何匹か出てきたり、聖剣エクスカリバーを手にしたアーサーが魔力を帯びて敵をなぎたおすのを観た時驚かされたが、事前の情報として、「ファンタジーアクション」であることは、宣伝しておいた方が良かったかもしれない。CMでは「スラムのガキから王になれ」だの「下克上エンターテインメント」だのといった宣伝文句ばかりで、人間同士のアクション映画かと思ったからだ。だがアーサーの仇敵となる叔父は、悪魔に魂を売った半身半獣のモンスターで、悪魔自身も姿を現しているし、そもそも冒頭から魔術師が出てきて巨大な象が蠢いているところからして、ファンタジーだ。

 

この叔父は、モンスターに変身すると骸骨のような仮面をまとうのだが、私が去年没頭したゲーム『ウィッチャー3』のワイルドハントそのもので、最後の戦闘シーンもワイルドハントとの最終決戦とよく似ている。ガイ・リッチー監督はゲームが好きなのかと邪推したくなるほどだ。別段それは構わないが、人間同士のアクション映画だと思って観たら、意外や、アクションファンタジーだと思って興醒めする観客がいるのかもしれない。

 

それでも私は存分に『キング・アーサー』を楽しめたのだが、その原因はしつこいようだがCMの「疾走」の感覚を最後まで貫き通したからだと思っている。

 

 

 

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【書評】 潤一郎ラビリンス<4> 近代情痴集 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 

『潤一郎ラビリンス<4>』は「近代情痴集」という副題である。「懺悔話」「憎念」「お才と巳之介」「富美子の足」「青い花」「一房の髪」の6編を収める。

 

漢語を駆使した『潤一郎ラビリンス<1>』の初期短編と比べると、文体があっさりした印象を与えるのが物足りないが、『痴人の愛』に代表されるマゾヒズムおよび嗜虐性を充分に見ることができるし、物語の構成も巧みで、純文学というよりも、読者を飽きさせないエンターテイナーとしての著者の才能が露出した作品集といえよう。

 

 

特に私は中編「お才と巳之介」が好きで、巳之介のお才に対する執着は、毒婦たるお才さえも逃げ出させるほどに面妖で、結末、死んだかと思われた巳之介が泥だらけのままお才の前に出現する様は極めてグロテスクである。谷崎潤一郎といえば、初期は、女性に拝跪する男を描くことで、至高の女性美を高らかに謳い上げる作家とされるのだが、グロテスクなまでに女性に執着する男の醜悪ぶりを描出したことも特筆すべきだろう。現に、代表作の一つ『痴人の愛』は、ナオミのみならず、譲治のナオミに対する狂気的な執着を語らずには、片手落ちの感想に陥ってしまうと思う。

 

この作品集に収められている「富美子の足」に象徴されるように、あくまでも男は「女性に踏まれる存在」なのであって、女性と対等ではないのである。「お才と巳之介」の巳之介は、妹のお露を、お才の差し金の悪漢どもに捕えられて、行く末は女郎屋に売られてしまうだろうことが予測されても、お才に対しては狂気的なほどに執着するのである。それほどお才は蠱惑的なのだが、妹が女郎屋に売られても恨みを言わず彼女にすがりつく性的倒錯ぶりは、至高の女性像と比肩するほどに強い存在感を放つ。

 

それにしても、巳之介の性的倒錯は常軌を逸しているが、この異常性愛は最初からなのだろうか。序盤、巳之介は、女に持てたいがために、遊郭に行って遊んでいた。しかし、彼は、みっともない面相と女に好かれるコミュニケーション術や立ち振る舞いを持っていないために、女に持てない。彼は富裕な家に生まれているので、遊郭で散々金を使い尽すのだが、一向に女に好かれる気配が見えない。そんな時、彼の家に奉公人としてお才という美しい女性が仕えて、巳之介は彼女に好意を持つが・・・という物語である。

 

巳之介はお才と交際したいという気持ちがあって、資産家の若旦那という威を借りて現にお才と付き合う。ここまでは、巳之介の恋愛観は平凡に見える。だから、中盤、お露が惚れている同じ奉公人の卯三郎と、お才とが出来ていて口惜しいと言って兄である巳之介に報告した時に、なぜ巳之介が平然としていられたのかが分明ではない。憤っても良さそうなものなのに、彼は安定した心情を持っている。この辺りから、私は巳之介に異常な性的倒錯の観念が宿っていることを知るに至るのだが、どういう理屈で彼が性的倒錯に至ったのかが分からないし、もし最初からそういう観念があったのであれば、地の文で説明があってしかるべきだと思う。そうしないと、なぜお才に憤ったり恨んだりしないのかが分からない。結末は、巳之介がお才に執着する異常性を発揮して終わるのだが、なぜ巳之介が性的倒錯の観念を持つに至ったのかずっと疑問であったので、この狂気的でグロテスクな物語の終着そのものは興味を持って感じられるが、やや説得力に欠けると思えた。

 

そういった欠陥がありながらも、お才の明白な毒婦ぶりは爽快なまでに強烈であるし、巳之介の性的倒錯は言わずもがな、極めて存在感がある。そして何より、草双紙のような情念の匂い立つ物語の世界観は何度でも覗きみたくなるような誘惑がある。やはり私は「お才と巳之介」が好きである。

 

 

「富美子の足」は谷崎のマゾヒズム小説で、「足」にフェティシズムを感ずる著者らしい作品だ。足へのフェティシズムは、「刺青」の頃から顕著で、この作品では「富美子の足」などとストレートに題名に用いられているところが興味深い。老人と若い女性という性的な関係は、晩年『瘋癲老人日記』にも通じるところから、谷崎は『少将滋幹の母』のような現代に平安文学を蘇生させたかのような独特の小説を創造しながらも、マゾヒスティックな恋愛観に拘泥していたものと見える。

 

物語の構成は単純で、老人が若い妾の富美子の足に性的に興奮していて、最後はその足に踏まれながら昇天するというものである。老人が富美子に足を踏まれているところを、実の娘に見せて青ざめさせるというブラックユーモアも欠かせない。無様な最期を迎える老人であるが、彼の心情を富美子はつゆほども理解できない。こういった関係もまた、『痴人の愛』のナオミと譲治そのものを見ることができようか。谷崎の描くマゾヒズムは、一方通行なところがある。「お才と巳之介」もそうなのだが、男がマゾヒズムへの執着を露わにしてしまうと、文字通り女は逃亡してしまうのである。あるいは「富美子の足」や『痴人の愛』のように、金のために嗜虐性を示す女性たちは、本当にサディスティックな性癖があって男を虐待しているとは言い難いところがある。だから男の一方通行のマゾヒズムと言えるのである。

 

美を中心に捉えれば、「刺青」の女性のように、美のために尽くす男性との双方向の関係を維持することができるが、マゾヒズムとなると、どうやら一方通行になりがちなのである。だが、元より谷崎流のマゾヒズムにおいて、双方向である必要もないのかもしれない。「女性に踏まれる存在」は女性と対等な関係ではないのだから。女性がどう思おうと、男と同じ視点に立っては、それこそ彼の描くマゾヒズムは崩れていく。それゆえに相手が逃亡しようとも、男は女性にすがりつくのではないか。

 

その他の作品、「懺悔話」や「憎念」、「青い花」などは、小品といったところだが、谷崎の文章は今読んでも、非常に読み易いので、小品でもついつい読み進めてしまう魅力がある。それも、私が、彼の描く性癖、女性像は、繰り返し繰り返し、執拗なほどに描かれたことに興味を抱くからに他ならない。

 

 

 

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【映画レビュー】 マスク 評価☆☆☆☆★ (1994年 米国)

 

マスク(字幕版)

マスク(字幕版)

 

 

 

『マスク』は、ジム・キャリー主演のコメディ映画。

お人よしの銀行員スタンリー・イプキス(ジム・キャリー)は、デートに誘いたい相手にチケットを取ってやるが、「実は・・・友人と行きたかったの」などという嘘八百を信じて、チケットを譲ってしまう。車に水をぶっかけられても文句ひとつ言えずニヤニヤし、小うるさいアパートの管理人には思うことがあっても睨むだけで終わる始末。やることなすこと全てがお人好しなのである。

そんなスタンリーは、ある時、川に落ちた男を助けようと、飛び込むが、男だと思ったのは目の迷いで、ゴミの集まりに過ぎなかった。しかしよく見るとゴミの中に緑色の怪しげなマスクを見つけ、それを拾ってアパートに戻る。

彼は、ふとしたことからマスクを被ると、緑色のマスクを付けた変態のような見た目に変わる。それと同時に、彼はハイテションな性格になり、銃弾を受けても死なない、超人的な肉体に変身していたのだ。直情径行的といえるほどに率直な物言いをして、また、女にはストレートなアプローチを試みるようになる。マスクは、スタンリーの欲望を引き出していたのである。

 

主演ジム・キャリーのマシンガントークと、心臓や目玉が飛び出すアクション等アニメ『トムとジェリー』のようなスラップスティックアニメを地で行く映像が持ち味で、終始、高いテンションを維持している。

マスクを被っただけで、軽快かつ大胆な口調と、高いセンスで音楽とダンスを表現するのは至難だが、ジム・キャリーは難なくこなしており、圧倒させられること頻りだ。『マスク』のスラップスティックアニメは今見てもそれほど陳腐には思えないが、『トムとジェリー』を見て、陳腐と思わないことと同様である。映像のコストがそれほどかかっていなくても、スラップスティックは万人共通で笑ってしまうのである。とはいえ、本作は実写映画だから、スラップスティックの演出も、ジム・キャリーの笑いのセンスがずば抜けているからこそ意味のあるものに変わるのだから、『マスク』というコメディ映画に、いかにキャリーの存在がなくてはならないものなのかが察せられる。

 

普段吹き替えでは映画を観ない私だが、コメディ映画は吹き替えを観るようにしている。日本語の方が言葉の面白さを感じ易いからである。『マスク』も、主演のジム・キャリーを演じた、山寺宏一というエキセントリックな演技ができる声優のお陰で、中毒性が高いコメディになっていて、何度も何度も見返してしまうほどだ。


『マスク』を語る上で、キャリーと共に外せないのは、キャメロン・ディアスだろう。この演技が評価されて、以降、一貫して映画スターの道を歩み続けたディアスは、本作と『メリーに首ったけ』によって、清冽で、それでいて肉感的という、独特のコケティッシュな女性像が体現していくのである。最近のディアスは、枯れてしまって、肉感的な魅力を感じにくくなっているのが残念だが、キャリア初期のディアスは、思わずスクリーンに目が釘付け(まさに『マスク』のスタンリー・イプキスのスラップスティックのように)になってしまうほどに、魅力を画面いっぱいに散りばめていたのだった。