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【書評】 A&R優秀人材の囲い込み戦略 著者:ウイリアム・マーサー社 評価☆☆☆★★ (日本)

 

A&R優秀人材の囲い込み戦略

A&R優秀人材の囲い込み戦略

 

 

国際的な人事系コンサルティング会社・ウイリアム・マーサー(現:マーサー・ヒューマン・リソースコンサルティング)のコンサルタントによるA&R戦略が書かれた本。マーサーの本拠地はニューヨークで日本法人も40年近く前からある。コンピテンシーを日本に最初に紹介した企業らしい。執筆陣の一人には舞田竜宣(現:HRビジネスパートナー株式会社社長、グロービス経営大学院教授)の名があった。

尚、外資系企業のコンサルが執筆した書といっても、事例となっているのは日本企業が多いので、横文字は多いものの、噛み砕いて書かれているので、分かり易い内容である。

 

A&RとはAttraction(人材の引き寄せ)&Retention(人材の引き留め)のことである。タイトルに「優秀人材」とある通り、A&Rの対象は優秀人材である。優秀な人材をいかに引き寄せられるか(入社させられるか)、引き留められるか(離職させないか)の戦略が惜しみなく披露されている。本書が発表されたのが2001年とそれなりに古く、凡庸で新規性を失っている部分も見受けられるのが惜しいけれども、A&R戦略のエッセンスは現在でも十分に活用出来る。

 

A&R戦略は相手が企業と人材であるだけに、多様な戦略が求められ、これをすれば上手くいくというような魔法の杖のようなものではない。企業、組織文化、人事制度、そして社員によって必要な解決策が異なるのである。企業の数だけ戦略が異なるといっても良いだろう。そのために本書の対策は複眼的な様相を呈しているので、読者はその中から、自社に合った戦略を選びとっていくことになる。まあ回答が一つでないことによって、本書は一見複雑さを感じさせもしようが、それは人材という生き物を対象にしているのだから、その複数の葉の中から自社に合ったものを選択していくのは当然のことである。

 

ひとくちに優秀人材とはいっても、企業には多様な人材がいるのであり、本書は人材を4種に分ける。この切り口はA&R戦略の要である。

まず、コア人材だ。これは長期的に組織のリーダーシップをとる人材と定義される。こういう人材は労働市場でも高値で売れてしまうのと、人材開発に要する期間が長期間かかるので、企業においては、最も離職されては困る人材である。

次に、職人である。個人的な専門知識や技能を活かし、事業の最前線などで活躍する人材である。

そして、世話人である。組織文化への深い理解と社内の人間関係から組織の潤滑剤となる人材である。

最後が、ポテンシャルである。専門知識も組織内での位置も未だ開発中の人材である。

 

この4種の人材の切り口を、マーサー社は、A&Rヒューマン・キャピタル・ポートフォリオとして設計した。

PPM分析のようなポートフォリオの図式を用いて、横軸に人材獲得コスト、縦軸に人材開発に要する期間を置く。そして、先のコア人材であれば、人材獲得コストも高く、人材開発に要する期間も長い。したがって、一度離職されてしまうと、採用も容易ではないし、いざ採用したところで即戦力として活躍できるとは限らないので長く成長させていく必要が出てくる。コア人材は、離職させてはならない人材として優先順位が高いと言えるゆえんであろう。

 

職人は、人材獲得コストは高いが、専門知識を活かして直ぐに活躍できるので、人材開発期間は短期で済む。世話人は、人材獲得コストは低いものの、組織文化に対する深い理解があるため、人材開発に要する期間は長期である。ポテンシャルは、人材獲得コストも低いし、人材開発に要する期間も短期である。

 

このように考えると、コア人材と、ポテンシャルとは、同じ目線でA&R戦略を立ててはならないことが分かる。ポテンシャルは優先順位が低いけれども、流出しても構わないというのではない。いずれ世話人や、コア人材に成長する可能性もあるからである。このように具体的かつ細密な戦略を採る必要があることが分かるだろう。

 

 

本書では、4つのステップに分けて、A&R戦略を組み立てる。人材ポートフォリオは、いわばステップ0の段階で、全ての前提である。

ステップ1で「問題の定量」を図り、2では「人材確保難の根本原因の分析」を行い、3で「A&R施策の立案・導入」を行う。施策を導入しても効果を測定しなければならないので、ステップ4として「測定・モニタリング」を行ってようやくクローズされる。

こういったA&R戦略のコンセプトが非常に明快で、読者には、わが社でも導入すれば上手くいくかも・・・という考えを植え付けることが出来よう。人事の専門家がいるそれなりの企業であれば、相当に根気がいる仕事だが、一見すると、自前でも出来る内容だと錯覚させられる(マーサーに頼んだ方が効果は上げられるに違いないが、それほどに明快なのである)。

 

 

本書のデータによると、「現金報酬」や「福利厚生」を高めるリテンション(引き留め)戦略を採っても、有効か否かは分からないらしい。著者の友人に外資系証券会社に勤めるアナリストがいるそうだが、2億円のオファーを断ってでも現在の会社にいることを望んだという。そのアナリストは数千万円の年収だったので、破格の条件である。しかし「2億円も出さないと人が採れないのだ」と考えて断ったのである。後日、そのアナリストがうわさで聞いたのは、2億円のオファーを受けて入社した者がたった半年で退職したということだった。

本書にも書いてあるが、ハーズバーグの「動機づけー衛生理論」を裏付けるかのような内容で面白い。やはり金だけでは人は長く組織にいつづけることは出来ないものである。「仕事そのものの面白さ」「達成感」などが動機づけとしては重要なのである。

 

 

 第II部のステップ3は「A&R施策の立案・導入」の説明で、膨大な事例の紹介に紙幅を割いており、読み応えがある。企業文化における5社のエピソードは実に多様で、私自身も企業文化再構築の支援をしているので、参考になった。バイオベンチャーJ社の例などは、臨場感にあふれ、かつ、具体的な問題と解決が一体となって披露されていたと思う。

 

とはいっても、インターンシップだの多面評価だの、その他の福利厚生の数々はもはや紹介するまでもない訳で、凡庸な用語の紹介に留まっているので、どうしても評価が下がってしまう。もはや「わが社のリテンション戦略ってどうしよう?」と考えた時に、インターネットで検索できてしまうレベルだ。本書の発表時期を考えると、仕方ないのか。

【書評】 聞書抄 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

 

聞書抄 (中公文庫)

聞書抄 (中公文庫)

 

 

 

 

中公文庫版 『聞書抄』には表題作の他に3編の短編が収められている。いずれも小品といった体で、出来は良くない。表題作『聞書抄』は、代表作の一つ『春琴抄』が鵙屋春琴伝なる架空の書物を題材に、物語を始めたのと同様、安積源太夫聞書という作者創造の書物を題材に、史実をおりまぜながら描く。いわば虚構と現実とが混交した歴史小説であるが、たおやかな谷崎の文体が目を引くものの、構成がまずく、企画倒れ(虚構と現実の混交の失敗)で終わっている。
 
石田三成の娘の物語かと思って読んでいれば、豊臣秀次らの惨殺シーンで終わっていて、尻切れトンボなのである。関ヶ原の戦いは?石田三成はどうなったのか?小説の末尾に、著者がこの作品は前編であるなどと言ってしまっているが、結末をきちんと書かずに擱筆するなどは、興ざめである。それと、盲人が目を自ら破壊する場面は『春琴抄』と同じパターンで、これも退屈である。類似のエピソードを入れても印象には残らない。
 
それでも、主人公の盲人による語りに見られる通り、文語体を現代語として蘇生させたかのような、雅でたおやかな著者の文体は圧倒的で、それを読めるだけでも充分なのかもしれない。『少将滋幹の母』のように物語性に秀でたところがあれば、まだしもであったと思われる。

【書評】 眠れる美女 著者:川端康成 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 『眠れる美女』(新潮文庫)は川端康成の短編集で、表題作の他に、『片腕』および『散りぬるを』の2編が収められている。解説において三島由紀夫が傑作と称して絶賛する『眠れる美女』が白眉で、この作品だけなら☆5である。

 

10代の少女(多くは処女)を全裸のまま布団に眠らせて、男性としての力を失った老人たちを、少女たちと共に泊まらせる奇怪な家が舞台である。老人が処女と共に眠り、セックス以外の何をしても許容される関係は、極めて醜悪に想像されるにもかかわらず、そして事実、少女と共に眠りながら頓死してしまう老人のエピソードもあるのだが、そういった関係は外的には相当にグロテスクであるはずが、川端の筆にかかるとただ不気味なだけに留まらず、純粋に美しいとは言えないまでも、処女の美しさ、老人のあさましさ、そして死を前にした過去の幻影の到来などによって、複雑な様相を呈する。それは美しい、とは、単純に言い切れないけれども、汚らしい醜悪さと清冽な美しさとがあいまって、美とも醜とも言い切れない奇怪な世界が現れる。

 

主人公の江口老人の眼を通して物語が語られていく。江口は少女を前にして、過去の女性との交情を思い返し、陶酔させられるものもあれば、淡々と事実を想起するものもあり、あるいは苦渋の表情を共にしなければ思い出せない追憶もある。それらの幻影は詩的であり、あるいは現実的でさえあるのだが、目の前に眠る少女がただ寝ているに過ぎないにもかかわらず、肉体や寝息、あるいは裸体の少女が布団に眠る構図を通じて、種々の追憶が思い出され、幻影は色を変えていくのである。

 

老人は処女と思われる少女を前にセックスを試みるが、本当に処女であることに心づいて止めてしまう場面がある。老人は、勃起しなくなった老人の客の中にあって、自分だけはセックスが出来ると思っているのだが、いざ少女を前にすると処女である事実を前に、先へと進むことが出来ない。彼は恐らくセックスが可能な状態で、少女の体を見たのだろうが、この少女に犯し得ない神秘を感じて、精神的にも物理的にも前へと進めないままに終わってしまうのである。

 

三島が解説の中で、眠れる美女を愛する老人たちを、ネクロフィア(死体愛好者)と言っているが、私もそう思う。明らかに少女らは生きているのだが、どんな薬を用いているのか、一向に起きない。そして、江口老人は睡眠薬を服用して朝まで眠るが、江口が起きても少女は寝たままなのである。死んでいるのではないか?と思って触れば、確かに肌は温かい。しかし江口は一度も少女が起きているところを見たことがない訳である。そして、江口は家の女主人に、「起きているところを見たい」というけれども、許されない。

少女たちに江口は触るし、けがらわしいこともするけれども少女たちは起きない。布団には暖房が入っているが、それを切ると、全裸なので寒がるので生きてはいるが、一向に目は覚まさないのである。眠り続けて目を覚まさない彼女たちは、死体のようであり、少女を愛する老人はネクロフィアである。

 

だから、物語の終盤で少女が本当に死んでしまった時、江口老人はネクロフィアたることを許されなくなったかのようである。死んでしまった少女は、江口の前から運び出されて、この家で死んでいなかったことにされる。実は江口は、この時、ふたりの少女と眠っていたのだが、そのうちの一人が死んでしまったのである。そこで家の女主人は江口に、「もう一人いるではないですか」と言うのである。ネクロフィアたることは、少女の死によって断絶されるという逆説が働くことが印象的だが、もう一人の女がいることで、またもネクロフィアは継続される。江口は家の中で頓死した別の客のように、この家に通い続けるのだろうか。または、神秘的な処女性を破壊しても尚、セックスを行使し、現実性を持ちこむのだろうか。

 

 

『散りぬるを』は私の好みではなかったが、他に収録されている『片腕』も印象的な作品である。ある女性が、自らの片腕を外して男に貸すというシチュエーションは、『眠れる美女』よりも非現実的であるが、『眠れる美女』よりはグロテスクではなく、清冽な美しささえ感じさせる。

女性の片腕は会話をし、男の腕と付け替えることも出来る。片腕は何かを象徴しているように見えてただその強い存在感をもって、無意味性を色濃くするものであり、会話をするだけに『眠れる美女』の少女のような死体性は帯びていないものの、生き物というよりはモノのような違和感がある。”彼女”というには人間の女性らしくはないし、といってモノそのものではないところが片腕の存在の不確かで、不可解な点だろう。

【書評】 フロー体験 喜びの現象学 著者:ミハイ・チクセントミハイ 評価☆☆☆☆☆ (米国)

 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

 

 会社で先輩が同僚と雑談をしている時に、フローという言葉を使っていた。単にフローと言えば流れだが、私にはその意味するところが分からず、口惜しいので、チクセントミハイの『フロー体験 喜びの現象学』を読んだ。先輩もこの本を踏まえて言っているらしかった。本書は心理学の書物だが脚注がない。脚注がないから学術的ではないとは言えないが、著者が冒頭で語る通り一般的な読者向けに書かれている。一方で著者の結論の学問的背景を知ろうとする読者のために、巻末に「注」が掲げられているので、著者の語る概念、主張についての根拠を知りたければ注を読むことで足りるようになっている。従って本書は、かゆいところに手が届く作品である。

 

『フロー体験』におけるフロー体験とは、「一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態」のことを言う。また、「その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態」、ないしは「正さねばならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態」を指す概念である。なぜフロー(流れ)という言葉を用いているかといえば、著者が調査をしている時に、どのような状態が最高の状態かを対象者に尋ねると、「流れているような感じだった」であるとか、「私は流れに運ばれた」などと言っていたからである(P.51)。

 

著者は、このような状態はどこでも発生し得ると言う。仕事、ゲーム、遊び、スポーツ、そして、退屈な日常、あるいは強制収容所の中でさえも。それらは人によって感覚が異なり、仕事にフローを感じる者がいる一方、リゾート地に行っても味気ないものと感じてしまうというような場合である。

 

本書の豊富な事例の中で私が気に入ったのは「逆境」と「仕事」についてである。

まず逆境だが、9章の「カオスへの対応について」の中で、逆境、悲劇、ストレス、うまくいかないことに直面した人間は、フロー体験をすることが出来るのか、出来ないかを論じる。予想通りに、出来るという結論が導き出されるが、豊富な事例の中で著者は、「生活からフローを見出す方法を知っている人は、絶望しかない状況をすら楽しむことができる」と言う。

 

すなわち、事故で半身不随となったり、身体に障害を持ったりしている人間が、目的を持ち意味のあるフロー体験に変換しているということの事例が盛り込まれているのだ。

 

9章の要約にまとめられている通り、「フローを体験するには、その達成に努めるべき明確な目標をもたねばならない」が、逆境、悲劇、ストレス、うまくいかないことに直面しても人間は、明確な目標をもち楽しい状態を維持することが出来ることが書かれていた。

 

私も30数年の生涯を振り返ると逆境の多い人生だったとは思うが、耐えるばかりではなかった。それよりも目標を明確にもって、適度にリラックスをしながら、それに向かって没頭し、まい進していたように思う(例えばブラック企業に勤めながら、必ず自分の満足する転職を果たす、という目標。その当時、私はブラック企業に耐えはしたがそればかりではなく、辛い自分の境遇をじっと見つめて自分はなんて辛く悲しい存在なのだろうと思う。そして心の中で滝のような涙を流す。そうすると鬱屈するのではないかと思われがちだが、涙を流すことがストレス解消に繋がるように、自分をかわいそうな存在だと同情することで、私はスッキリしていたのである)。顧みれば私は自らの経験を通して、何となくフロー体験をしていたのかもしれない。

 

 

そしてもう一つは「仕事」について。

仕事を辛いものと思っていた私であるが、転職して以来仕事を辛いとは思わなくなっていた。むしろ辛いどころか、目標に向かって仕事を行うことに、楽しいとさえ思うようになっていたのである。そしてその状態は、それ自体が楽しくて仕事をするために多くの時間や労力を費やして没頭しても、何ら問題だと思わなくなっていた。それをワーカホリックのように考えたこともあったが、それにしてもこの「楽しさ」については説明がつかない。

 

私は、ルーチンワークが好きではない(好きな人がいることも知っている)。人事の仕事をしていた時には定常的仕事が多く、仕事そのものを変えたいと思っていた。しかし職種を変えるにしても現在の仕事との接点がなければ転職することは出来ない。それで人事の仕事で、転職後も続けたい仕事はないか?と考えると、複数列挙出来た。例えば「研修の企画を考えること」、「採用計画を立てて予定人数を確保すること」、「人事制度改定の企画立案をすること」などが楽しい仕事として挙げられた。それらはすべて、「何かを考える」という仕事であり、それらを専門的に行う仕事となると、人事コンサルに繋がった、という訳である。

 

それらを楽しいと思うようになったのは、転職先で実践してからだが、なぜ仕事に没頭することが楽しいか、そもそも、楽しいと言って良いのか、今まで分からないでいたのであるが本書で明瞭になった。 

本書はフローという概念を使って、仕事を通じて人間がフロー体験をし得ることを明言する。それは、私の経験とも合致する。これは断じてワーカホリックではなく、目標達成を志向して自発的に仕事に向かっている状態なのである。この概念を現在の働き方改革などと共に経営に活かせば、社員に自発的な働き方をするように仕組むことも出来よう。

 

 

フロー体験を学習と結びつけているところも非常に興味深かった。

 

4章の「フローの条件」で、著者はテニスの練習を通じたフローについて説明する。

 

アレックスが初めてテニスをする時、彼はネットの向こうにボールを打つことしか出来ない(A1)。難易度は低いが、それは彼の未熟な能力と合致しているから、アレックスはテニスを楽しむことが出来るのである(フローの中にいる)。

しかし練習を続けることによって、アレックスは能力が高まり、A1の練習に退屈し始める(A2に移行する)。またはアレックスは、彼より高いテニスの能力を持つ者と出会い、不安を感じる(A3に移行する)。A2、A3のどちらにしても彼は、フロー状態に留まることが出来なくなってしまうのだ。

 

アレックスが退屈しているなら、彼の挑戦の水準をあげることで、フロー状態に移行させることである。あるいはアレックスが不安なら、彼の能力を高めることで、フロー状態に移行させることである。そして彼は、もう一段高いフロー状態であるA4に移行するのである。

 

これは目的を明確にした学習の効果である。仕事でも、試験勉強でも、あるいはスポーツでも、人間は学習することで能力を高め、挑戦の水準を高めていく。それには必ず目的がなければならない。段階的に引き上げられる短期的な目的(例えば試験科目の数Ⅰをマスターする)もあろうし、もっと高い長期的な目的(例えば医大に合格する)もあろう。

しかし目的だけであれば機械的であるし、人間は継続して行い得ない。著者が言うように、喜ばしいフロー状態を作ることによって、人間は高い学習効果を上げることが出来るのである。学習の中にフロー状態を作る、ということ、それはマニュアル的にこうすればフロー状態たりうるとは言えないし、個人ごとに違うが、それを練習して体得していき、自然にフロー状態を作っていければ、学習効果は高まるのではないかと思う。

上記は勉強について述べたが、仕事においても同様であり、経営に活かすことも出来るはずである。単に残業削減をするだけでは生産性が上がるはずもないのだし、給与を上げるだけでも生産性は高まらない(一時的には向上するだろう)。仕事そのものに楽しさを覚えなければならない。フロー体験は多くの応用が利く概念であった。

アウトレイジ最終章 予告編


北野武監督18作目となる最新作『アウトレイジ 最終章』予告編

 

アウトレイジ最終章』の追加の予告編が出ました。前回出ていた予告編よりも長いバージョンです。10月7日に公開なので更に情報を提供しよう、というところでしょうか。

 

のっけから人を殺しまくるシーンの連続で、相当な迫力が見込めそうです。予告編にしては、過激とも思われますが、R15で大丈夫なんでしょうか。まあそのくらいの方が私も楽しめるのですが。

 

しかし、ややストーリーを見せ過ぎでしょうか?知りたくない事実を知ってしまった感があり、もうちょい編集して欲しかったところ。『ビヨンド』ですさまじい存在感を見せた塩見三省は病気をして痩せてしまったので、ビジュアル的にトーンダウンした印象は否めません。それと、ビートたけしの演技が気になります。呂律が回っていないので、ヤクザとしての迫力は大丈夫でしょうか。

 

事前に知らないでいましたが、津田寛治も出演していますね。私は彼の演技が好きな方なので楽しみです。

 

前作を超えることができるか、非常に期待させる映画です。まちがっても、韓国のフィクサー側(たけし)が単に勝利するだけの映画にはしないで欲しい。最終的に勝利するのは構わないですが、単純な構成にはしないで欲しいところですな。

 

***

 

今年は、『ラ・ラ・ランド』、『沈黙』、『ゴースト・イン・ザ・シェル』、『午後8時の訪問者』、『キング・アーサー』などの作品を劇場で観ました。『ラ・ラ・ランド』は非常に素晴らしく、『午後8時』も良く、酷評されている『キング・アーサー』も素晴らしかった。期待していた『沈黙』は窪塚の演技は良かったが・・・という内容で残念。

さて、8月にはポール・ヴァーホーヴェンの『ELLE』、10月には『アウトレイジ最終章』を観る予定。なかなか豊作になりそうです。

 

邦画が好きじゃないので、どうしても洋画が多くなりがちです。

 

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