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【書評】 春琴抄 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

『春琴抄』は、鵙屋春琴伝という架空の伝記を元に、春琴という盲目で美しい琴の師匠と、その弟子の佐助による愛と献身を描いた物語である。時代は、幕末から明治にかけてである。春琴伝があたかもこの世に存在するかのように仕立てる著者の筆致はさすがで、春琴伝の仔細な引用文、および、春琴と佐助のありし日の姿を知る者による聞きがたりによって、日本の歴史に春琴と佐助が存在したかのように読ませていく。句読点を限りなく付けないように腐心する、あるいは艶麗な熟語の多用と文語的な文体を構築するなど、たおやかな文体は冴え冴えとした魅力を放ち、『少将滋幹の母』と並んで著者が創造した最も流麗な文体といえる。

春琴は、裕福な商家に生まれ、九歳の時に両目を失明した美しい女性である。佐助は丁稚として商家に勤める年上の男で、春琴の失明後は、彼女が琴を習う際に手引きをする役を務めるようになる。佐助は音感が良いようで、耳に聞こえた琴の音色を覚えて、誰にも知られぬよう夜な夜な練習に励んでいた。それが露見してからは春琴と共に琴を習うようになるが、同時に稽古の身の春琴から琴の指導を受けていく。春琴は嗜虐的と思われるほど佐助を虐待し、佐助は春琴の稽古中にしくしく泣くくらいである。撥が飛んで彼の頭を傷つけることもしばしばあり、心理的および肉体的な痛苦を春琴は佐助に与えるのである。ここまでくると読者は、「また谷崎潤一郎マゾヒズムか」と慨嘆するかもしれない。私も途中まで読んでいくとその思いが湧き起こり、少し退屈を覚えるようになったが、最後まで読み進めると、『春琴抄』という小説の狙いはマゾヒズムではないことが分かる。

マゾヒズムは、一方通行の愛と言い換えても良いかもしれない。『痴人の愛』の譲治によるナオミへの愛は、相思相愛という時に使われる愛とは全く異なる。譲治の愛は彼の観念的な愛であって、それゆえにナオミが譲治を振り向かなくても彼は心配するのではなくむしろ、彼の観念通りにナオミが美しく魅力的に、眼前に花を咲かせるためであれば、譲治は裏切られても良いのである。その花は、著者晩年の作である『鍵』や『瘋癲老人日記』にも見られる。あるいは『猫と庄造と二人のおんな』における猫のリリーもまた、庄造による一方的な愛を受ける対象であろう。

しかし『春琴抄』がそれら数多の一方通行の愛を描いた作品と様相を異にしているのは、一見すると佐助による春琴への愛だけを謳ったかのようでいて、春琴が絶対の美貌を誇っていたその顔に、熱湯を浴びせ掛けられ、二目と見られない要望に陥ってしまった時から、著者の狙いが別にあることを知らされるのである。その変貌は、一方通行の愛を描かないということで、春琴は、体の関係までもある佐助のことをどこまでも奉公人として蔑視していた癖に、美貌が消え、醜い容貌へと落ちてしまった春琴の顔を見ないようにするために、佐助が両目を針でついて、自ら失明させることにあり、これを契機として、心身共に、春琴と佐助とは心を通わせることになるからだ。作品では次のように書かれる。

今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めてひしと抱き合い一つに流れて行くのを感じた

春琴は美しい容貌、そして商家に生まれたことによる恩恵などから、驕慢な性格の女性へと育ってしまった。失明による卑屈もあったであろう。それまで彼女は佐助に対し酷い言葉や身体的苦痛を与えてきた。二人の間に子が生まれても春琴は佐助の子ではないという始末であった。こんな女性が熱湯を浴び、失明のため九歳の時から見ていないが恐らく美しく成長したことであろう自らの美貌が全く崩壊したのを知った時、佐助にだけはその顔を見られたくないと思ったのである。そして佐助もその意をくみとって、自らの両目を針でついて、失明させたのであった。春琴は熱湯を浴びて初めて、自分の矜持が揺らいだのかもしれない。拠って立つところのもの(美貌)が、がらがらと崩れ落ちた時、春琴は端的にいって心細くなったのであろう。そしてその時傍にいたのが佐助であり、春琴は彼にだけはこの顔を見せたくないと言う。その時の春琴の心は、これまでの嗜虐性ではなく、師弟の間柄でありながら、自分にとってもはや欠かすことのできない存在となっていた佐助に対する好意的な感情が芽生えたのである。そして佐助が失明した時、二人は抱き合って泣いたのである。心は初めて通じ合ったように、佐助には感じられたのだった。

佐助の献身は宗教性を帯びている。愛する師匠に悪罵され、打擲されても尚、彼は春琴につき従うことを厭わない。佐助が失明した後、彼は春琴の姿を思い出していて、来迎仏のようだとするが、それほどまでに佐助にとり春琴は畏敬の対象であったのだろう。そのような春琴に対して、佐助は、当初は一方的な愛を貫こうとするのである。あたかも神の如き春琴に対して、佐助が礼拝せんばかりに献身的(一方的)な愛を注ごうとするのである。ここに佐助の宗教的な献身の姿があった。しかしその献身は、相互の愛を味わうことができたことによって、畏敬の対象でありながら愛するという、込み入った感情を呈するに至る。男女の愛において、普通は、愛しかないのであるが、佐助の愛には、宗教性が備わる。キリストやマリヤに対するクリスチャンのように、佐助は、春琴を愛し、しかし、畏敬することを片時も忘れない。あの抱擁があっても尚、佐助は変わらず春琴を師匠として遇し、死しても尚、自らの墓は春琴より少し離れて、そして、春琴の墓石より明らかに子ぶりの墓にすることで、春琴は自らにとって恐れ多い存在であることを、身をもって体現したことが明らかに分かるのである。

【書評】 コンピテンシー評価モデル集 著者:佐藤純 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 コンピテンシーとは高業績者の行動特性のことをいう。ビジネスの現場では、主に人事評価制度や採用面接で活用される概念だ。後者については『コンピテンシー面接マニュアル』(川上真史、斎藤亮三)という良書がある。本書はもう一方の人事評価制度について書かれているものである。

 

コンピテンシー面接マニュアル

コンピテンシー面接マニュアル

 

 

 

本書はコンピテンシーの提唱者である米心理学者のマクレランドの理論を引用して、コンピテンシーとは「高業績者に共通する行動特性」のことであるとする。著者の豊富なコンサルティング経験を元に、12のコンピテンシー評価モデルの事例が挙げられていた。本書は事例の記述にページの大半を割いており、理論は序盤に軽く触れるに留めている。そのおかげで、本書は人事評価制度にコンピテンシー導入を検討する人事担当者にとって、有益な参考資料となっている。

 

12のコンピテンシーは以下の通り。

・成果達成志向

・コミュニケーション

・チームワーク

・マネージメント

・部下育成・指導

顧客満足

・自己研さん

・時間・行動管理

・論理的な問題解決

・組織における関係構築

・一般職と管理職のコンピテンシー評価の事例

・資格等級別のコンピテンシー評価基準と定義の事例

 

コミュニケーションやチームワーク、顧客満足等の人間関係的なコンピテンシーや、自己研さん、時間・行動管理、問題解決など思考的なコンピテンシーもある他、一般職と管理職のコンピテンシー評価を比較するなど、微に入り細にわたって解説されており、普遍的な評価モデルの事例は人事評価制度の再構築をする際に参考になるだろう。そのコンピテンシーの一つひとつに、著者の解説や、企業のコメントが付されているので、事例を並べるだけで終わったり、空虚で抽象的な内容に留まるのではなく、具体的で臨場感にさえ富んでいることが分かるだろう。

 

難点はいくつかある。

コンピテンシーの評価モデルは12あるが、区別しようとすればできるのに、人間関係、思考、比較などといったように区別化されていないので、12のコンピテンシー間に関連性がないように見えることだ。何らかの区別化が施されていると、読者も相互の関連性が分かり、より認識しやすくなると思った。また、序盤でコンピテンシーの抽出方法も書かれているのだが、事例にページ数を割くとはいえ、あっさりした記述で、人事担当者がコンピテンシーの抽出を実践する場合の参考にはなるまい。

コンピテンシーの事例は12あり、解説も企業コメントも適切なのだが、そもそも、もう少し分量があった方が「評価モデル集」としては活用できたと思う。量があれば良いという訳ではないが、コンピテンシーは12のままで良いから、パターンが2つあるなどすれば、汎用的になったのではないか。人事担当としては、1パターンの事例のみでは自社には合わないということもあり得る。しかしもう1パターン、別の事例を設けておけば、対象の範囲が広がる訳だから自社との接点の可能性も広がるだろう。私も本書を用いて顧客のコンピテンシーの事例を文章化しようとしたが、どうも合わない部分があり、もう1パターンあれば参考になるのだが・・・と思う節があった。かつて『コミュニケーション重視の目標管理・人事考課シート集』という書籍をレビューしたが、あれは網羅的に数多くの企業の事例があったので高評価したが、本書は目的とするところが異なるにしても、事例の数の少なさは否めないので、不満に感じる点であった。

 

 

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僕たちがやりました

夏のドラマが始まって少し経つが、窪田正孝主演の『僕たちがやりました』しか見ていない。結構面白くて、毎週見てしまう。他の作品も録画はしているが、撮り溜めているだけで見ていない。『ハロー張りネズミ』だけは見ても良いかな・・・太った瑛太を見るために。

 

www.ktv.jp

 

窪田は28歳にして高校生を演じている。全く高校生に見えない訳でもないので、彼は童顔なのだろう。笑うと頬に深い皺が表れるので、老けてるなあと思ってしまう場面はあるが。

額をほとんど見せない前髪を、疾走と共にビュンと風になびかせる感じは確かにかっこいい。妹からは敬遠されているし、イケメンの友達がいるので持てないように思ってしまうが、レンコというかわいい幼馴染の同級生から一目置かれているのもよく分かる。レンコを演じているのはUQモバイルの妹役の子だ。CMを見ていると、私はあんまり好きじゃないように思っていたが、ドラマで見るとかわいい。こんな子に好かれているのだからうらやましい限りである。演じているのは、セクシーさと、清潔さが混交した独特の存在感の女優(名前が出てこない)でちょっと気になる。

 

トビオ(窪田正孝)、イケメンとキノコ頭の友達の3人組は、とにかくバカで、毎日をいかに楽しく過ごすかということしか考えていない。バカなことをすること、遊び、恋愛、セックスへの憧れ。だが、男子高校生なんて、こんなもんだったと思う。よほど、勉強とか部活とかに打ちこんでいない限りは。高校3年あたりから、男子は社会に出ようとするための厳しさを学んでいく訳だし、彼らも潜在的にはそのことを考えてはいるのだが、まだ社会が現前していない状況にあっては、いかに毎日を楽しく過ごすかということだけに焦点をあてているのである。

 

あんまりテレビドラマや映画で、バカ騒ぎする男子高校生を描いた作品を見た例がないので、『僕たちがやりました』はちょっと変わっているように感じた。まあバカ騒ぎする中学生を描いた漫画なら、だいぶ古い例だが『稲中卓球部』なんていうのもあるが、あれはリアリティがない。

 

私は、このバカ騒ぎするだけの男子高校生の風景がリアルなので、ガス・ヴァンサントの傑作『エレファント』を思い出した。『エレファント』はバカ騒ぎする男子は出てこないが、私が言いたいのは、どこにでもいる男子高校生の普通の物語を映像で見ることの楽しみである。それは、ときたま見たくなる、快楽だ。だって、みんながみんな、純粋じゃないし、勉強ばっかりしている訳じゃないもんね。だから『僕たちがやりました』のバカ男子高校生に私は共感するのかもしれない。郷愁、懐旧、などの感情と共に。懐かしさを覚える。

 

 

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【書評】 美しい日本の私 その序説 著者:川端康成 評価☆☆☆★★ (日本)

 

美しい日本の私 (講談社現代新書)

美しい日本の私 (講談社現代新書)

 

 

川端康成ノーベル文学賞受賞時の講演録。川端康成というとこの「美しい日本の私」という講演録、『雪国』『古都』『山の音』といった作品の”表面的な”イメージから、日本的な美を描いた作家という気がするけれども、『雪国』を読み返してみるとどうもそうではないように思って新鮮な印象を抱いた。最近は、『山の音』を読んでいるが、これも『雪国』同様に日本的な美を描いているのかというと、全く否定はできないが、しかし私のイメージする京都とか江戸とかの美ではないし、日本文化を謳いあげている訳でもないし、一体日本的なことを描いているようではあるが、それが何なのか分からない。一度、「日本的なこと」から離れてそれらの作品を捉えてみると、人間、あるいは人間の運命の冷厳さ、孤独感などがイメージとして現れてくる。そして私はそういったイメージを感じ取ることで、作品を評価していたのだと気付く。

 

『美しい日本の私』の最後に、明恵を引用しながら自らの作品を日本的あるいは東洋的な虚空、虚無であるとする。なるほど、『雪国』や『山の音』などに通じる冷厳さ、孤独感のイメージが日本的なものに通じないと思っていたが、それは私の無知から来るもので、充分に日本的であったのか。谷崎潤一郎作品ばかり読んでいて、日本的な美に対して絢爛たるものや、雅なものを想定しがちだったが、川端が文章の末尾に「禅に通じる」というように、日本的なものの一側面として、このように虚空で、虚無で、冷厳で、孤独な、文化があったことを思う。金閣寺に対する銀閣寺のような渋味のようなものか。今さらながらに日本の美に対する奥深さに気付かされたように感じた。

【書評】 新撰組 幕末の青嵐 著者:木内昇 評価☆☆☆★★ (日本)

 

新選組 幕末の青嵐 (集英社文庫)

新選組 幕末の青嵐 (集英社文庫)

 

 

私は学生時代に歴史が苦手であったし、今でも得意ではない。そのせいか歴史小説をほとんど読んだ例がないのである。私の父が愛読していた司馬遼太郎も知らない。谷崎潤一郎遠藤周作歴史小説や、松本清張芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』などは読んだことがあるが、歴史小説を本業としている作家の作品は読んでいない。だからこれが私にとっての最初の歴史小説と言えるかもしれない。

 

本作は新撰組についての小説である。私は歴史の知識が欠如しているといっても良いので、新撰組のこともよく分かっていなかったが、本作を読んでよく分かった。新撰組入門書として、適切なのかもしれない。もっと『新撰組』の関連書籍を読みたくなるほどである。といっても、本書は、入門書にしては、文庫版にして550頁超なので長大過ぎるか。

 

NHK三谷幸喜脚本の『新撰組!』が放送されていて、見たことがあるが、主人公の近藤勇を演じたのがスマップの香取慎吾で見るに堪えない酷い演技だったことと、山南啓助役の堺雅人が印象的だったことくらいしか覚えていない。今Wikipediaで調べて見ると、『新撰組!』では、沖田総司役に藤原竜也土方歳三役に山本耕史斎藤一役にオダギリジョーが配されていたので、随分と豪華な出演陣である。ほとんど狂人のような芹沢鴨を演じていたのが佐藤浩市であるが、あまり狂気的な匂いは感じなかった。『新撰組!』もちょっとしか見ていないのでストーリーはまるで覚えていないから、本作を読んでようやく新撰組のストーリーの型を知ったような気がした。

 

本作の構成は独創的である。明確な主人公はおらず、近藤勇土方歳三沖田総司、山南啓助、斎藤一(はじめ)、芹沢鴨など、それぞれがいわば主人公の群像劇である。10頁くらいでぽんぽんと主人公の視点が変わっていくので、新撰組の勃興と栄光、そして破滅までのストーリーの型を、複眼的な視点で捉えることができる。そして、群像劇に徹している点で、どのキャラクターにも魅力を感じることができることも特筆すべきだろう。ただし、この視点の切り替えは早すぎるという欠陥がある。それぞれのキャラクターの心の内面を描ききれないまま、次の視点、さらに次の視点へと移ってしまうからである。もっと人物の心情を掘り下げて欲しい。

 

私は最後まで生き残った者の一人、斎藤一が気に入った。生き残ることに執着する彼は私に似ていると思った。次に土方歳三である。新撰組の局長(組のトップ)である近藤よりも、彼の方が実力者だが、参謀役に徹したところが潔くて良いし、最後、函館で戦死してしまうところも哀愁が漂っている。農民出身で武士になることに憧れるあまり、形式に拘泥する近藤勇は好みではなかった。本作では近藤勇に対する批判的なセリフを吐く者が大勢いるのだが、特に私が感じたのが、現実を読み取ることができないところである。例えば、多くの者が幕府に危機感を感じているのに、近藤は幕府を支えることにのみ視点を置いてしまう。俯瞰的に物事を捉える視野がないのだ。芹沢鴨の粛清以来、近藤のような者をトップに据えたまま最後を迎えてしまった新撰組が悲劇を迎えるのは必定であろう。『新撰組』のストーリーは、組織の悲劇を見せられるようなものだということがよく分かる。

 

本作は群像劇に徹するという点で独創的な構成を誇るが、文体は淡白なので、もう少し艶があっても良い。大衆的な歴史小説だからといって、文章を洗練させなくても良いということではないだろう。粗野な文体ではないのだが、欲を言えばもう少々、文に色艶が欲しいところだった。また、新撰組が壊滅していく展開は簡潔すぎるので、急速な展開にしても良いけれども、迫力をもって描いてもらいたかった。群像劇として魅力を与えてきた人物、そして彼らが所属する組織の破滅であるから、あまり淡白では落胆させられる。

 

戦闘シーンもあっさりとしていて、戦闘を描写しているのに暴力性が足りない。グロテスクにまで執拗に戦闘を描く必要はなかろうが、幕府の暗殺集団としての新撰組の戦闘シーンは、ある程度暴力的でないとリアリティを感じ辛くなる。本作の戦闘場面はきれいで、優しいのであるが、戦闘がきれいで優しいはずはないから、会話、人物設定のリアリティに比べて虚構的な印象を抱いてしまった。

 

以上のような欠陥を抱えながらも、新撰組のストーリーの型を明確に捉え、群像劇として新撰組の全貌を複眼的に捉える手法は称賛すべきものである。会話や人物設定の巧みさは小説に臨場感を付与するに充分であった。

 

どうでも良い話だが、近藤勇の写真を見ていると、俳優の鈴木貴之に似ているような気がした。最近私はドラマの『僕たちがやりました』を見ているのだが、筋肉質の松崎役である。『僕たち~』での松崎はクレイジーな役だが、実際の鈴木貴之の写真を見ると細い眼ながらも、良い男で、近藤勇に似ているというと、鈴木貴之がかわいそうな気もする。土方歳三は小説中で役者にも見えるというほどの美男らしいが、近藤勇は残された写真を見ると冴えない風貌だからである。