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【書評】 谷崎潤一郎対談集(藝能編) 編者:小谷野敦、細江光 評価☆☆★★★ (日本)

 

谷崎潤一郎対談集 - 藝能編

谷崎潤一郎対談集 - 藝能編

 

 谷崎潤一郎の対談集。谷崎の作品を数多く読んできた私だが、対談は初めてである。この対談集は「藝能編」と銘打たれている通り、映画女優や歌舞伎俳優との対談が収められている。映画女優岡田嘉子高峰秀子杉村春子淡路恵子若尾文子岸田今日子などが谷崎の対談の相手となるが、錚々たる顔ぶれである。映画男優は多くないが、歌舞伎俳優では尾上菊五郎坂東三津五郎などが相手となる。映画についての座談会では作家の志賀直哉、藝についての座談会では永井荷風などが対談の相手で出てきており、小説や随筆でしか知らない作家たちの声を読めるのは貴重である。

 

編者は小谷野敦と細江光。小谷野は文芸評論家で小説も書いている。芥川賞候補になりながら獲れなかったと著書で嘆くような人である。

小谷野は、以前に当ブログでもレビューした通り大江健三郎江藤淳についての評伝も著していたが、谷崎の評伝も書いたことがあるのである。センスのかけらも感じない表紙なのでまだ私は未読なのだが、小谷野は谷崎を高く評価しているし、大江と江藤の評伝を読む限り作家に肩入れして盲目的な賛辞に傾くようなことはしないので、表紙のだささに目をつぶって読んでも良いかとは思っている。細江光は谷崎の研究者でWikipediaによると新潮文庫版の谷崎作品の註の多くを付けたという。 

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

 

 

映画についての対談は、谷崎の鋭い観察眼に基づく批評が散見される。日本映画の黎明期に映画製作に関わった谷崎ならではの慧眼は、日本映画は日本らしさを撮るべきであるとの提言に落ち着く。ハリウッドや欧州の映画を模倣しても、体型が異なる日本人俳優による演技では、猿まねにしかならないのだから、日本らしさを追求するべきなのである。西欧崇拝から日本回帰を果たしたということもあろうが、俳優の体格や容貌の差異を踏まえ、日本人特有の個性を貫くことによる日本らしさが、日本映画の独自の美学を高めるようにも聞こえた。

 

対談という表現形式は、言葉が口語であるだけに小説よりは気楽に読める。言葉の一つひとつに力強さがあったり、メッセージ性がある小説家の対談であれば、気楽さの中に詩情、ある種の重厚感があったりして、ハッと蒙を啓かれたような印象を受けるのだけれども、谷崎潤一郎はそこまで、彼が語る口語に力強さやメッセージ性はない。その代わり、お気に入りの女優たちと楽しく語ったり、谷崎夫人が対談に混ざったり、映画や芝居のここが良い、あれが悪いなどといって好き勝手に話す、その軽妙さに興を覚えるだろう。ただ、興を覚えるといっても、芸能は谷崎の主戦場ではなく、やはり彼のメインの仕事である文学についての対談の方が、より、記憶に刻みたくなるような言葉を読み取れるかもしれない。本書の姉妹編である文藝編には、もう少々の期待を込めて読んでみたいものである。

【書評】川端康成初恋小説集 著者:川端康成 評価☆☆★★★ (日本)

川端康成初恋小説集 (新潮文庫)

川端康成初恋小説集 (新潮文庫)

川端康成は幼少期に父母に死なれ、姉や祖父母にも死なれ、幼くして天涯孤独の身となった。彼の小説にまとわりつく死の匂いや無常観は、それら死の実体験と無関係ではないだろう。ところで、川端は、現実の世界で、初恋をしたのである。その相手と婚約したが、相手の一方的な意思により婚約は破棄となっている。川端にとって初恋の痛みは大きく、経験に基づいた多くの初恋の短編を書いている。本書は川端の初恋の経験に基づく、ほとんど私小説的な物語が数多く収められている。初恋を経験に基づいて描くことで、物語は悲恋に終わっていく。決して叶えられることのない恋は、死や無常観と切り離しては考えられぬようである。死の匂いや無常観の系譜に、叶えられることのない初恋の物語は、位置している。

本書に所収されている物語は、主人公の男がいて、その初恋の相手の女性という構成である。本書は「短編集」なので、物語は数多く収められているのだが、主人公の男、そして初恋の女性という人間関係は変わらないのである。中には娘というものもあるが。そして、主人公の友人や、女性の養父、女性をかわいがった女などが出てくるが、この人間関係も多くの物語で繰り返し使われる構成である。

初恋という主題、主人公の男と初恋の女性の対置、そして女性から突如として男に渡される絶縁の手紙という構成は、本書所収の多くの物語において共通する。それだけ川端はこの内容を書き続けていたかったのだろうが、類似する主題、男女の対置、手紙の構成などは何度も読まされるとさすがに退屈してくる。川端が天涯孤独の身の上で、初恋の女性に現実的に恋をして、将来を誓い合って、しかし女性からの一方的な意思によって婚約が破棄されたという事実にショックを受けたことは痛いほど分かる。本書所収の物語の多くが、類似の悲恋物語となっているのだから。とはいうものの、文体に大きな違いがある訳でもなく、類似の物語を読み解いていくことであたかもミステリのように謎が解けていくような鍵がどこかに潜んでいるものでもないので、ただ漫然と類似の悲恋物語を読まされるに過ぎないのだ。従って、本書を読み切ったことで得られるのは時間の喪失感である。

川端康成だからといって、全ての物語の完成度が高い訳ではないので、本書所収の短編もまた、平凡な作品が多い。しかしそれでも点数を標準より下げたのは時間の喪失感を拭えなかったからだ。私は一体、本書の類似の物語を読んで、どうしたのか?何を得るのか?読書とは必ずしも何かを得る者ではなかろうが、それにしても徒労感が強かった。世界的作家・川端康成の初恋について、彼自身の小説を読んでつぶさにその心理を知ることができる。それ以上の意味は本書にはないと思われた。

【映画レビュー】 君の名は。 評価☆☆★★★ (2016年 日本)


やっとDVDを借りて、日本映画歴代2位のヒット作『君の名は。』を鑑賞。テレビ放映されるまで観ないつもりでいたが、無料で借りられる機会があったので、鑑賞した次第。都会や自然などの背景の描写が非常にきれいで、特に彗星の放物線を描くように落下していく様は美が誇張されていると思うほどにクリエイティブで美しい。反面、人物のキャラクターのビジュアルや性格設定は人工的で、テレビを通じてそれを観ていると、映画との距離感を痛切に感じる。また、心理描写や物語の構成は、粗雑で練られていないようである。そういうことも関係して『君の名は。』は私には遠い存在に感じられた。『君の名は。』のような作品が、興行収入を次々と塗り替え、日本映画歴代2位の作品となってしまう。日本人はこういう粗雑な描写や構成の作品を大ヒットに導いてしまうのか・・・と思うと若干の悲しみを感じもする。日本以外、中国や韓国でも『君の名は。』はヒットしているようだが。最低点を付けるほど酷い映画ではないけれども、標準レベルの映画ともいえない。普段映画を熱心に観ていない層が観にきているのだろうか。この作品を称賛する感性が分からない。同時期に大ヒットした『シン・ゴジラ』ならそのヒットの理由がよく理解できるのだけれど。

東京の男子高校生と、飛騨の女子高校生との体が入れ替わるSFファンタジーで、最初は入れ替わっていることに気付かず夢だと思っている。それが徐々に、お互いに現実だと認識するようになる。入れ替わることに気付いてからのシーンは小気味良いギャグが盛り込まれていて楽しい。何度か笑わされてしまった。女子高校生の三葉(みつは)は女性的な性格で、絵を描いたり刺繍をしたりすることが得意で、一方、男子高校生の瀧は男性的な性格で、ケンカが弱いのに納得できない相手に喰ってかかることがあり、三葉が入れ替わった当初の瀧の頬にはばんそうこうが貼ってある。こういう正反対の性格の男女が入れ替わることで、笑いが生まれるのだが、効果的に演出されている。例えば、瀧は、バイト先の先輩に憧れていた。そのバイト先で難癖をつけてきた客に、入れ替わった後の瀧が対応するがうまくいかない。先輩が助けてくれたが、彼女は客にスカートを切られてしまう。その後、瀧は先輩のスカートを修理してやるのだが、先輩は瀧の巧みな刺繍に驚くが、女の子のようなかわいらしい刺繍なので笑わせられるのだ。中身は女性的な三葉は、細やかな対応で徐々に先輩の心を掴んでいくまでに至り、最後は先輩とデートの約束を取り付ける。

何度か体の交換を重ねていくうち、徐々に相手のことを愛するようになる瀧と三葉は、瀧が先輩とのデートをする日に、それを意識するのだが、何が一体、こういう状況を生み出すのか、どうもよく分からない。確かに相手のスマートフォンや手帳などにメモを残しているので交流しているのだろうが、それだけで相手を好きになることの理由にはならない。説得力がないのである。だから、私は一体どのようにして瀧と三葉が、相思相愛となるのかが理解できないまま、物語を観続けることとなった。頭の中にずっと疑問符が付いたまま、もしかするとどこかで得心する場面があるのかと思って観ていたが、最後までよく分からないままだった。瀧が念願の先輩とデートをした日の別れ際、先輩から「誰か好きな人がいるんじゃない?」と言われるのだが、スマホで隠し撮りするほど恋焦がれていた先輩よりも、三葉の方が好きになるというその心理がよく分からない。映画だから言葉で説明する必要はないが、セリフなり状況なりエピソードなりを示して、三葉のことが大事な存在なのだということを明らかにして欲しかった。それは、瀧についても同様で、三葉がなぜ瀧を恋するようになったか、分からない。そういったことを全てカッコに入れて恋愛物語を語られてもなぁ・・・この粗雑な描写がどうにも気に入らない。

さて、体の入れ替えは急にできなくなる。その理由は、実は三葉という女子高生は既に死んでいたのだった。現実的には彼女は3年前に隕石の墜落で飛騨にある町ごと吹っ飛んでしまったのである。「そんなバカな?」という設定で、恋愛描写に疑問符が付いたまま観ていた私が、椅子からずり落ちそうになってしまった。SFファンタジーだから何でもアリなのだろうか?

何度も体の入れ替えをしていて、その入れ替えの理由が分からないでいる瀧と三葉に、内心、私も「なんでだろう?」と思いつつ観ていたが、実はもう三葉が死んでいたとは。じゃあ三葉は霊なのか?そうじゃないか・・・入れ替えの時に時空を超えていたという訳か。全く、テレビゲーム的な設定で恐れ入る。このあたりで相当に興ざめしていた。三葉が既に死んでいたことを知った瀧は、何とか3年前の三葉に、隕石落下の前に知らせようとしているのだが、もう、恋愛感情を持っていることに疑問符が付いている状態なので、ここまでする理由が分からず、どこまで進むんだぁ~瀧よ!と、声を掛けたくなるほどだった。最終的には三葉の運命は変わり、死なずに済むようになる。

最後は、三葉、瀧、共に相手のことを忘れたまま数年が経ち、名前が分からなくなる。ただなんとなく、大事な存在だったのではないか、ということだけは覚えている。電車の窓からお互いに何となく気付いて、途中下車して、瀧は階段を上り、三葉らしき人を見かけ、「君に会ったことがあるような?」と言って相手も同調して終わる。この終わり方はどうなのだろうか?なぜ相手のことを覚えていないのか?そんな人間に再会したところで、ああそうですかという程度の感想しか抱けないのだが•••

とりあえず、自然や都会の描写は非常にきれいなので、それを楽しみに観ても良いだろうとは思う。私は映画を観ながら、宮崎駿の『カリオストロ』や『ラピュタ』が観たくなった。

【書評】 山の音 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

 

『山の音』は川端康成の長編小説で、文庫版の解説者である山本健吉によると現代日本文学の最高峰に位置する作品だという。私もその意見には賛成だが、『雪国』と共に、とは書かれていないし『雪国』より『山の音』の方が優位に位置するように書かれる。そこが疑問で、私には『雪国』の方が優れた作品に思えるのである。『雪国』は完成まで10年以上費やされただけあって、文章全体が会話の端々に至るまで精緻で、一見すると人工的な風味を見せるのであるが、その無駄のなさは欠陥がなく、この物語の世界観を映画のようにカメラで写実的に撮影しているようで、人工的というよりもむしろ自然に見える。といっても単なる写実主義ではなく、むしろ川端の観念が『雪国』の世界に広がっているのであるが、それにもかかわらず『雪国』の風景は自然に見えてしまうのだ。こんな文学を私はこれまで読んだことがなかったので、『雪国』の読後は軽いショックを受けた覚えがある。本書にはそこまでのショックは受けなかった。

 

もっとも、『山の音』も極めて優れた作品である。川端のノーベル文学賞受賞後に、川端を囲んで、伊藤整三島由紀夫がTV鼎談した時に、三島が川端文学を評して「これはなかなか手ごわいぞと思うでしょう」と、川端の作品を知らぬ者へ簡潔な解説を施しているのだが、確かに、川端の作品は、殊に長編は、「なかなか手ごわい」作品が多いように見える。YouTubeで動画が掲載されているので引用しておく。


川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整1|3

 

主人公は、尾形信吾という60歳過ぎの会社員の男である。信吾は鎌倉に住み、都心まで電車で通勤している。保子という容貌の冴えない妻、修一という同じ会社に勤務し、第二次戦争で実戦経験者の息子、そしてその妻で美しい菊子と同居している。

 

修一は不倫をしており、戦争未亡人の女・房子と関係していた。修一の不倫は、信吾はおろか保子も、そして修一の妻である菊子さえも知っている。それにもかかわらず修一は不倫を止めることができないし、信吾も止めさせることができないでいる。修一は戦争によって変貌したようで、倫理観が欠如し、不倫を悪いとは全く思っていない。信吾に詰られても平然としている。この倫理観の欠如は、戦争による衝撃が心に打ちつけられたかのようである。菊子は小説の最後まで修一を理解できず、彼を「怖い」というのである。といって本書は反戦小説なのではなく、戦争によって倫理観を欠如させてしまったとはいえ、そのことが問題ではなく、修一の中に存在する心の闇というものの現在性が問われているのである。だからなぜこのように倫理観がなくなってしまったのか?ということは、問題にされていない。

 

信吾は、小説の冒頭で山の音を聞く。そしてこれにより彼は自らの死期を悟るようになるのである。小説中、信吾が死ぬことはないが、彼の周囲の人物を通して、死はいくつも形を変えて、信吾の前へと現れてくる。信吾の死の予感、友人の死、修一の周りの戦死者、菊子が堕胎した胎児の死。胎児の死は、菊子が夫・修一の不倫を知っており、彼との間で宿した命は、不倫が解消されるまでこの世に出せないと思って、堕胎したのである。これには、信吾も衝撃を受けていた。


『山の音』全体を貫くのはこのような強い無常観である。また、信吾は若い頃、保子の姉に恋をしていた。姉は非常に美しかったが、他家へ嫁ぎ、そして若くして死んでしまった。信吾は保子と結婚するも、姉を忘れることはできないでいた。息子の修一は成人して結婚するが、その相手は美しい菊子であった。菊子と保子の姉には血縁関係はないが、信吾はその美しさに姉の面影を見る。


信吾は菊子を内心愛しているのだが、最後まで行動には移さない。菊子は修一の不倫により精神的に追い詰められていくが、信吾は修一夫妻が仲の良い夫婦になることを望み、菊子に信吾たちとの別居を勧める。信吾は菊子を愛しつつも、それを小説の終盤まで認めることができず、象徴的な夢を見てようやく認識する程度だ。


信吾は既に死んだ姉を愛することが叶わず、息子の妻である菊子を愛することができない。信吾は心から愛する者を誰も愛することが叶わないのである。無常観の一つは愛することができぬ虚しさである。これは、非常に強く、厳格に作品全体を貫いている。そしてもう一つは死である。保子の姉の死、信吾自身の死の予感、友人の死、菊子の胎児の死。これらは絶対的な虚しさを感じさせる。取り返しのつかないものである。


姉の死という永遠なるものから始まる愛の系譜は、菊子を愛そうとしても永遠に愛せない虚しさへと繋がる。そして、いくつもの死。これらの虚しさのパターンは、明確に区別されるものではなく密接に繋がり、むしろ混交している。虚しさという言葉に統合されるためにである。

【書評】 春琴抄 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

『春琴抄』は、鵙屋春琴伝という架空の伝記を元に、春琴という盲目で美しい琴の師匠と、その弟子の佐助による愛と献身を描いた物語である。時代は、幕末から明治にかけてである。春琴伝があたかもこの世に存在するかのように仕立てる著者の筆致はさすがで、春琴伝の仔細な引用文、および、春琴と佐助のありし日の姿を知る者による聞きがたりによって、日本の歴史に春琴と佐助が存在したかのように読ませていく。句読点を限りなく付けないように腐心する、あるいは艶麗な熟語の多用と文語的な文体を構築するなど、たおやかな文体は冴え冴えとした魅力を放ち、『少将滋幹の母』と並んで著者が創造した最も流麗な文体といえる。

春琴は、裕福な商家に生まれ、九歳の時に両目を失明した美しい女性である。佐助は丁稚として商家に勤める年上の男で、春琴の失明後は、彼女が琴を習う際に手引きをする役を務めるようになる。佐助は音感が良いようで、耳に聞こえた琴の音色を覚えて、誰にも知られぬよう夜な夜な練習に励んでいた。それが露見してからは春琴と共に琴を習うようになるが、同時に稽古の身の春琴から琴の指導を受けていく。春琴は嗜虐的と思われるほど佐助を虐待し、佐助は春琴の稽古中にしくしく泣くくらいである。撥が飛んで彼の頭を傷つけることもしばしばあり、心理的および肉体的な痛苦を春琴は佐助に与えるのである。ここまでくると読者は、「また谷崎潤一郎マゾヒズムか」と慨嘆するかもしれない。私も途中まで読んでいくとその思いが湧き起こり、少し退屈を覚えるようになったが、最後まで読み進めると、『春琴抄』という小説の狙いはマゾヒズムではないことが分かる。

マゾヒズムは、一方通行の愛と言い換えても良いかもしれない。『痴人の愛』の譲治によるナオミへの愛は、相思相愛という時に使われる愛とは全く異なる。譲治の愛は彼の観念的な愛であって、それゆえにナオミが譲治を振り向かなくても彼は心配するのではなくむしろ、彼の観念通りにナオミが美しく魅力的に、眼前に花を咲かせるためであれば、譲治は裏切られても良いのである。その花は、著者晩年の作である『鍵』や『瘋癲老人日記』にも見られる。あるいは『猫と庄造と二人のおんな』における猫のリリーもまた、庄造による一方的な愛を受ける対象であろう。

しかし『春琴抄』がそれら数多の一方通行の愛を描いた作品と様相を異にしているのは、一見すると佐助による春琴への愛だけを謳ったかのようでいて、春琴が絶対の美貌を誇っていたその顔に、熱湯を浴びせ掛けられ、二目と見られない要望に陥ってしまった時から、著者の狙いが別にあることを知らされるのである。その変貌は、一方通行の愛を描かないということで、春琴は、体の関係までもある佐助のことをどこまでも奉公人として蔑視していた癖に、美貌が消え、醜い容貌へと落ちてしまった春琴の顔を見ないようにするために、佐助が両目を針でついて、自ら失明させることにあり、これを契機として、心身共に、春琴と佐助とは心を通わせることになるからだ。作品では次のように書かれる。

今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めてひしと抱き合い一つに流れて行くのを感じた

春琴は美しい容貌、そして商家に生まれたことによる恩恵などから、驕慢な性格の女性へと育ってしまった。失明による卑屈もあったであろう。それまで彼女は佐助に対し酷い言葉や身体的苦痛を与えてきた。二人の間に子が生まれても春琴は佐助の子ではないという始末であった。こんな女性が熱湯を浴び、失明のため九歳の時から見ていないが恐らく美しく成長したことであろう自らの美貌が全く崩壊したのを知った時、佐助にだけはその顔を見られたくないと思ったのである。そして佐助もその意をくみとって、自らの両目を針でついて、失明させたのであった。春琴は熱湯を浴びて初めて、自分の矜持が揺らいだのかもしれない。拠って立つところのもの(美貌)が、がらがらと崩れ落ちた時、春琴は端的にいって心細くなったのであろう。そしてその時傍にいたのが佐助であり、春琴は彼にだけはこの顔を見せたくないと言う。その時の春琴の心は、これまでの嗜虐性ではなく、師弟の間柄でありながら、自分にとってもはや欠かすことのできない存在となっていた佐助に対する好意的な感情が芽生えたのである。そして佐助が失明した時、二人は抱き合って泣いたのである。心は初めて通じ合ったように、佐助には感じられたのだった。

佐助の献身は宗教性を帯びている。愛する師匠に悪罵され、打擲されても尚、彼は春琴につき従うことを厭わない。佐助が失明した後、彼は春琴の姿を思い出していて、来迎仏のようだとするが、それほどまでに佐助にとり春琴は畏敬の対象であったのだろう。そのような春琴に対して、佐助は、当初は一方的な愛を貫こうとするのである。あたかも神の如き春琴に対して、佐助が礼拝せんばかりに献身的(一方的)な愛を注ごうとするのである。ここに佐助の宗教的な献身の姿があった。しかしその献身は、相互の愛を味わうことができたことによって、畏敬の対象でありながら愛するという、込み入った感情を呈するに至る。男女の愛において、普通は、愛しかないのであるが、佐助の愛には、宗教性が備わる。キリストやマリヤに対するクリスチャンのように、佐助は、春琴を愛し、しかし、畏敬することを片時も忘れない。あの抱擁があっても尚、佐助は変わらず春琴を師匠として遇し、死しても尚、自らの墓は春琴より少し離れて、そして、春琴の墓石より明らかに子ぶりの墓にすることで、春琴は自らにとって恐れ多い存在であることを、身をもって体現したことが明らかに分かるのである。