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【書評】 英雄を謳うまい 著者:レイモンド・カーヴァー 評価☆☆☆★★ (米国)

 

英雄を謳うまい (村上春樹翻訳ライブラリー)

英雄を謳うまい (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 妻が村上春樹の小説が好きで、時折図書館で借りてきてやるのだが(我が家には『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』しかない)、村上春樹の翻訳小説でも良いかと思って借りてきたら、翻訳は嫌だと言う。仕方なく私が読み始めたが、まあまあ良い。初めてカーヴァーの本を読むにしては、本書は特異なセレクトであるが・・・というのも、本書『英雄を謳うまい』は、初期の習作が多くある他、詩、書評や自作に関する短い文章などが収められているからだ。村上が解題で言っているように、「一般の読者にとっては、読み物自体としてそれほど意味がないという種類のものも、中にはあるいは見受けられるかもしれない」という類の本である。

 

文章は、村上のこなれた文章によって、胃の中に言葉を飲み込みながら読めるとでも言い得るほど、味わいのある文章である。しゃれではないが、食事のシーンは特に味覚を感じ易くなるが、村上も、そういえば食事のシーンの描写は上手である。私は村上春樹を、作家としてはあまり評価していないが、彼の文章は良いと思っている。よく言われるように翻訳調といえば翻訳調であるが、難しい言葉を使わず、簡潔で、読みやすい文章である。といっても司馬遼太郎のように無骨な文章ではないので、川が流れるように読める。物語の主人公は日本人であり、舞台も日本なのだが、翻訳調の文章のせいで、外国人が見た日本人および日本という感じがする人物設定と、物語になっている。非常に不自然である。これが私が彼の作品を退屈だと思う点だが、翻訳になると話が変わる。当然、主人公は外国人(多くは米国人)であり、舞台も外国(これも米国)だ。だから違和感がない。

 

村上が解題で言っているように、「自作を語る」はどれも良い文章である。彼の文学の趣味、生活風景、パートナーについての言葉が費やされ、率直に語られていく。何度も読み返したくなる文章が多数収められていた。

オーガスティン・ノートブックより」も、長編小説の序盤として書かれた文章だが、確かに、村上が解題で言っている通りで、ここからどんな物語が始まるのかまるで予想がつかない、期待もできない小説である。だが、ここに書かれている男女のどうでも良いおしゃべり、性的な戯れなどは、私は面白いと思った。

【書評】 美しさと哀しみと 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

美しさと哀しみと (中公文庫)

美しさと哀しみと (中公文庫)

 

 川端康成の長編小説。この小説は図書館で借りて読んだが、気に入ったので、書店で買い求めた。川端の小説は、今年に入って、『雪国』『眠れる美女』『山の音』『初恋小説集』と読んできた。『初恋小説集』は評価しないが、3つの長編、1つの短編(眠れる美女)を読んで作品の質が安定していると思った。私は、日本文学の中では三島が一番で、その次に谷崎を評価していたが、今では川端康成が抜きん出ているように思える。谷崎には感心すべき思想が多くないが、川端には無常感が根底にあってこれが私の心を捉える。

 

主人公は小説家の大木で、妻と国文学者の息子がいる。やや通俗的ながら世に知れた小説家である。『山の音』もそうだったが、息子の存在感は薄い。『山の音』では妻をないがしろにして不倫に走る息子が描かれていたが、本書では女性に疎く、美しい女性に騙されて最後は恐らく命を落としてしまうことになる。「恐らく」というのは、小説では息子の死は明確に書かれていないからだが、登場人物の台詞によると恐らく死んでいる。

 

この小説は、時系列的には、大木と音子という16歳の少女による不倫、それによって音子が妊娠中絶するところから始まる。少女と恋愛した時、大木は31歳で、15歳もの年齢の差がある。既にその頃大木は小説家で妻も子もいたのだが音子と不倫を犯している。これに対して大木には罪悪感はあるものの、24年の時を経てまた会おうと試みるところから、罪悪感よりも己の愛を優先する。今音子に会ったところでどうなるものでもないが、大木は、京都に住み、現在は画家として成功している音子に、会えないかと打診する訳だ。こういう彼の行動に、私は無常感を感じる。大木が音子に会ったところで、今さら妻を離縁して音子と生活ができる訳でもない。それにもかかわらず会う気持ちを抑えられず、行動に移してしまうということ。そこに無常感を感じ取れる。

音子は大木のことを恨みもするが、愛情はまだ大木に対して持っており、美貌の若い女弟子けい子を差し向ける。このけい子というのが、のちに大木の息子を事故で死に至らしめる張本人である。

 

けい子は第二の主人公とでもいうべき強烈な存在感を放っており、ほとんど狂気に取りつかれている。女弟子は音子を恋しており、音子のために大木の家庭を崩壊させようと試みる。大木とホテルに泊まってキスをしたり、大木の息子の官能性を刺激する妖艶な姿態を見せる。息子の事故死という結果によって、家庭崩壊に成功するのであるが、彼女の音子に対する狂気的な執着、大木に慰み物にされた音子のために復讐せんとする異常な行動などによって、恋の対象として崇拝される音子をして恐怖せしめる女性である。こういう狂気的な女性は、『雪国』の葉子や、『山の音』の絹子などにも通じるところで、川端の得意とする女性像なのだろう。そして川端は、これらの女性像に狂気と共に「哀しみ」を付与するが、けい子には「美しさ」をも付与する。美しさと哀しみの題が言い表すのは、音子でもあるが、もう少し中心に据えられるのはこのけい子だろうと思う。

 

けい子の行動は、主人公大木が音子と会おうという気持ちを行動に表すのに似て、無為である。音子の関心は、彼女には向いていないからである。だからどんな行動を取ったところで、彼女は音子に愛されることがない。逆に恐れられ、怖がられる。この無為の行動は、無常であり、もっといえば「哀しみ」である。そういう意味では大木の行動もまた、哀しみなのであるが、彼は音子が妊娠中絶をしても、妻を捨てて音子を引き取れなかった無責任がついてまわるので、哀しみかもしれないが、美しさはみじんも感じられない。ただただ、残酷なのであって、彼の息子が事故死に至ってもさしたる同情の観念は湧いてこないのである。

 

従って本書における「美しさと哀しみ」は、必ずセットになる表現である。音子、そしてけい子は、共に美しく、哀しい存在である。彼女たちには悪を感じられない。たとえけい子が大木の息子を事故死に至らしめても悪だとは感じられない。悪なのは大木であって、けい子は音子の思いを勝手に解釈して行動したとはいっても、音子を思う恋の心がそうさせたのであれば、そしてその恋が成就されることがないのだから、美しく、哀しいが、そこに悪は感じられない。本書を読むとけい子の狂気に疲労させられるが、そこには狂気に陥ってしまう哀しみだけではなく、悪を感じられぬ美しさがあるので、何とも言えぬ感情に捉われることを実感する。これが、美しさと哀しみなのであろうか。

昨日やったこと

たまにはレビューから離れて雑記を書こうか。

 

渋谷へ

 

 

昨日は仕事帰りに数カ月ぶりに渋谷に寄った。渋谷といってもマルイとか西武に行く訳ではなく映画館に行こうと思ったのだった。観たいのはポール・ヴァーホーヴェンの映画『ELLE』である。渋谷にある渋谷シネパレスという映画館は、木曜日はメンズデーをやっていて、1,000円で映画を観られるのだ。

『ELLE』はサスペンス映画である。イザベル・ユペールという女優が主演で、あるゲーム会社の社長・ミシェル役を務める。彼女は家にいる時、突如として乱入してきた男に襲われてしまう。犯人探しをする彼女だが、次第に明かされていくのは犯人よりも恐ろしいミシェルの本性だった。

あらすじを聞いているだけでも面白そうだが、評価も高いらしく、世界中で高く評価されている。ユペールは私の好きなミヒャエル・ハネケの映画に何度か出演していたので、常に注目はしていた。しかも、彼女が主演する『ELLE』がいかにも私好みの物語に仕立ててあり、ぜひ劇場で観たいと思ったのだった。

 

 ↓ イザベル・ユペールは、ハネケの『愛、アムール』では娘役を務めた。

rollikgvice.hatenablog.com

 

昨日は出張先からの帰りで、遅くとも17時前には渋谷に着けそうだった。渋谷シネパレスでの上映開始時間は17:15。ネットでチケットを買えないのが面倒だが、何とか時間に間に合いそうだった。

 

しかし予想外に仕事が長引き、渋谷に着いたのは18時。これから映画館に入る訳にもいかない。その後の時間を調べると20時スタートとある。20時スタートだと終わりは22:20である。終わりが途方もなく先のように感じられ、今夜は映画を観るのをやめることにした。残念ながら、日本ではヒットしそうにない映画なので、早く観ないと公開が終了してしまう懸念はあったが。

 

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せっかく渋谷に来たので何かしようと思ったけれども、あいにくの雨模様だし、あまり遠出したくない。とりあえず南口に降り立ち、食事でもしようか。

渋谷に来るとラーメンが食べたくなる。南口には、好みの店が2軒あるからだ。一つははやしという、シンプルな煮干し味のラーメンを出す店である。私がこの店に初めて来たのはいつだったか。10年以上前だったが、いつ行っても行列ができていて大変客を待たせる店である。しかしそれだけに上質なラーメンを味わえる。

 

上質さというのは抽象的な言葉で、具体的な意味を伝えるには言葉を費やすしかないが、煮干し味のスープをすすると、澄んだような味わいがする。煮干しの味はしっかりと付いているにもかかわらず、清冽な水を飲んだような気持ちになる。それは譬えでしかないが、舌が清められるような錯覚に陥るのだ。

もちろんこれはラーメンのスープで、煮干し、チャーシュー、メンマ、海苔、柚子などによる出汁がスープの奥底に漂っている。従って、当然、これは水ではないし清められる訳はないし、しっかりと味の付いたスープなのだが、このすっきりした味は、舌が清められるという表現がぴったりくる。舌が分かるのだ。これは「清澄な清水のようですね」と、舌が私に語りかけてくるような塩梅。それに私は答えて、「そうであろうそうであろう。お主も味がよく分かるではないか」と言いたくもなるのだ。

またあの上質さを味わいたいなと思ったが、はやしは夜は営業していない。昼だけで勝負する、この潔さもまた、はやしの好きなところなのだが。

 

従って、自然と足はもうひとつの店へと赴く。

それは陸橋を渡ったところにある亜寿伽という店である。ここは坦々麺が美味しい。よく、坦々麺といいながら味が薄かったり辛みが乏しかったりする坦々麺を提供する店があるが、亜寿伽はそんなことがない。あせって麺をすするとむせってしまう。味は濃厚だが、横浜家系ラーメンのようなしつこさはない。ラーメン単体でも満足できる量だが、サービスで茶碗一杯の飯がつく。別に頼まなくても良いが、坦々麺が濃厚なので、つい食べてしまう。これを食べると腹は満腹である。カウンターしかない店なので長居もできないが、つい水をごくりとやって胃を休めてから席を立ちたくなる。

 

亜寿伽は昨日も営業していた。時間は客が混んで来る時間帯だが、空席が目立った。奥には女性連れが二人、ビール片手に坦々麺を食べている。鶏肉を挙げたパイクー坦々麺なるものもあるが、これは少ししつこいので、腹をよほど空かしていないと私は頼まない。この日はおやつを食べてしまっていたので、坦々麺を頼んだ。料金の支払い方法が以前と変わっていて、先払いになっていた。

メニューにもサービスの飯についての表記がなかったが、「あるか?」と武士のような気取った口調で聞いてみると、めがねを掛けた店員は、ドラマ『HERO』の「あるよ」を真似んばかりの威勢の良い言い方で「あります」と答えて直ぐに飯を持って来る。そういえばこの店員は以前も見たことがあるような気がする。

 

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ラーメンを作るのは痩せ形の中年の男性店員でほとんどしゃべらない。めがねの他に、かわいらしい若い女性店員がいた。この女性がめがねとたまに話していて、それがまた客の邪魔にならない程度の頻度で話す。内容からすると大学生のようである。

坦々麺は以前と変わらぬ味と量で大変満足した。飯にはテーブルに備え付けの青菜を付けて食べるとより一層美味しい。私はこの青菜を坦々麺にも入れて食べた。スープも濃厚な辛みが舌を喜ばせ、思わず飲み干してしまいそうであった。

 

私が帰る頃には席は埋まって来たが満席になるほどではない。これが気になった。天候が悪いから客の足が遠のいているのか。

渋谷というと、味の分からない田舎の学生がたまっている印象で、そんなにグルメな街ではないが、何しろ電車の乗降客の人数が多いので料理店も自然と淘汰される場合もある。夕飯時にもかかわらず客が少ないのは少し気になった。亜寿伽は以前と変わらぬ味で私の舌を歓喜させるが、客が少ないとつぶれてしまうのではないかという懸念もある。また亜寿伽に来るのはいつになることやらであるが、次に行ったら店が変わっていたなんてことがないようにしてもらいたい。

 

久しぶりに夕飯を外で済ませた後、私は東急百貨店に行った。もちろん服だの宝飾を買うためではない。7階のジュンク堂に行くためだ。そこで私は本を3冊買った。

 

クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学

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意思決定理論入門

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美しさと哀しみと (中公文庫)

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【映画レビュー】 羅生門 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (1950年 日本)

 

羅生門 デジタル完全版 [DVD]

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羅生門』は、黒澤明の代表作の一つで、1950年公開の映画である。ヴェネチア映画祭において、日本映画初の最高賞を受賞、米アカデミー賞でも名誉賞(現在の外国語映画賞に相当する)を受賞して、敗戦から5年、復興に向けて進む日本人を勇気づけた。黒澤明が1998年に亡くなった時にテレビで放映された本作を観たが、当時は私もガキだったし、内容がよく分からなかった。最近、Amazonプライムで『羅生門 デジタル完全版』が観られるというのを知って、片手間に観てみたら非常に良かった。この映画は、黒澤の代表作に留まらず、日本映画史上に燦然と輝く名作だろう。このブログでの評価は☆5が最高だったが、『羅生門』は最上位を超える評価という意味を込めて☆7とした。

 

映画は、土砂降りの雨が、崩れた羅生門に打ちつけるシーンから始まるが、これが白黒映画ゆえの凄まじさで、墨汁が雨雲から滝のように降ってくるかのようだ。また、当時はタブーであった太陽を直接撮った場面では、林の葉の間から照りつける太陽の強い光が、これから生起する、あるいは既に生起した罪を象徴し、怪しさを増大させていく。

 

この冒頭の雨のシーンを見ると退廃的な美を感じるが、『羅生門』が描こうとするのは美ではない。言葉の持つ危うさだ。本作は、芥川龍之介の小説『藪の中』と『羅生門』を題材にしていて、特に前者を中心的題材としている。

 

平安時代の乱世、多襄丸という盗賊が、武士夫婦を見かけ、妻を強姦した。そして夫が何らかの理由で死んだという事件が起こる。そして検非違使が多譲丸、武士の妻、死んだ武士の3人に事件の内容を聞くと、3人とも全く異なった証言をする。まさに真相は「藪の中」という物語である。

 

多襄丸が武士の妻を強姦したという事実だけは両人とも共通している。問題になっているのは武士はどのようにして死んだのか、という点である。

 

●多襄丸は、強姦後、武士の妻が、決闘して勝った方と一緒になるとそそのかすので、武士と決闘して殺害したと証言する。

●武士の妻は、多襄丸は妻を強姦した後、夫を殺さずに逃げたと証言する。そして妻は、体を汚されたことで彼女を軽蔑的な目で見る夫のために狂乱し、短刀で自分を刺すように言った。だが彼女は夫の侮蔑的な視線に耐え切れなくなり、気絶してしまう。目覚めると夫には短刀が刺さっていた。彼女が殺したものか、夫が自害したものか定かではない。

●武士は、巫女の唇を通して証言する。武士の妻は多襄丸に強姦された後、多襄丸と共に行くと言い、その代わり夫を殺してくれと要求した。しかし多襄丸はそれには答えず去り、妻もいなくなる。絶望した夫は短刀により自ら果てるのであった。

●3人が3人とも違う証言をするが、杣売りも実はこの事件を見ていたのである。杣売りも検非違使に呼ばれながらそれを証言できなかったのは、彼は武士の妻の短刀を盗んでいたからである。

短刀を盗んだことが検非違使にばれたくないと思い、言えずにいた。しかし、羅生門では、彼は僧侶と下人に、意を決して彼が見たそのままを話した。

 

その内容を語る前に多襄丸、武士の妻、そして武士の証言内容を見てみると、彼らはそれぞれ、自分に都合の良いように語っていた。つまりエゴイズムである。そのために真相が隠されていたのだが、杣売りが見たという事件が真相かといえば、そうとも断言できない。杣売りは真実だというが、彼は短刀を盗んだことを隠すために検非違使の前で証言せずに黙っていた人物である。だから杣売りの話にエゴイズムがないとどうして言えようか。

 

●杣売りの証言は、多襄丸が武士の妻を強姦した後、多襄丸は武士の妻を求めたが、彼女は拒否するというものだ。武士は、こんな女のために命を捧げるのは馬鹿げていると言う。武士の妻は、多襄丸に、私が欲しいなら夫を殺せと言い、夫には、男なら妻を強姦した男を殺して私を殺せと言って、2人を挑発する。誘いに乗った2人は間抜けな死闘を繰り広げ、結果的に武士が死ぬ。

 

結局、4人とも違う物語を語り、真相は分からない。ある人間が関わった事件において、その真相を知るには、関与した人間の言葉を聞くことでこそ知れるはずだが、『羅生門』は、人間の言葉が必ずしも真相を語っていないと言っているのである。4人ともエゴイズムに囚われているので誰が真相を語っているか、あるいは全員が嘘を吐いているか、分からないからである。従って真相は、人間の言葉を聞けば聞くほど分からなくなる訳だ。言葉によってしか真相を知り得ないのに、言葉によっては、真相を語り得ないようにも思われる。全員の言葉が疑わしいとなれば、誰を信用したら良いのか。

 

羅生門』はこういった言葉の持つ危うさを、4人の言葉をもって描く。言葉が信用できないなら、誰を信用したら良いのか。その答えを映画は、僧侶による倫理的な言葉で締めくくる。言葉が信用ならないなら、人間が信じることができるのは、感情なのである。映画で出てくる感情は、杣売りによる、捨てられた赤ん坊を引き取る心に表れる。それさえも信用できないとなれば、人間は心底、誰も信用できないであろうとでも言うように、杣売りの小さな愛、あるいは優しさは、言葉を超越するものとして提示され、映画は終わる。

 

 

多襄丸役として三船敏郎が出演しているが、素晴らしい名演で最後まで目が離せない。彼は世界のミフネと呼ばれたが、私は黒澤映画をあまり観ていないから、彼がどれほどの俳優か分からなかった。『羅生門』での多襄丸は、物語をかき乱すキーとなる盗賊で、もし彼がいなければ何も起こらなかった武士夫婦に、人生の分け目となる危機的な状況をもたらす。

 

多襄丸は夏の暑い林の中で、武士の妻を強姦したいという欲望に駆られ、その欲望を抑制しきれず事に及んでしまうのであった。その漲る生のエネルギーを爆発させる多襄丸を演じた三船は、役になり切ることを超えて、役を作り出しているかに見える程である。これほどの名優が日本にいたことを私は誇らしく感じるくらいである。

【書評】 モノの意味 大切な物の心理学 著者:ミハイ・チクセントミハイ、ユージン・ロックバーグ=ハルトン 評価☆☆☆☆★ (米国)

 

モノの意味―大切な物の心理学

モノの意味―大切な物の心理学

 

モノ(場所を含む)を大切にするという心理はどういった意味を表すのか。例えば、家の中にあるモノの中で、あなたが大切だと思うモノを挙げて欲しいといった時、私なら本と答える。妻に聞いてみると家という答えが返ってきた。子のひとり(女児)に聞いてみるとおもちゃであった。

 

モノに対する執着について、私は出来るだけ考えないようにしていた。モノに執着すると物欲に支配されているように感じたからだ。しかしあなたが大切だと思うモノは何か?それを挙げよと言われた時に、そもそも、モノに対して”大切”だと思う感情があることに、今さらながら自覚させられる。すると、モノを大切だと思う感情は、ことさらに物質主義的なものではなく、心の投影のように感じるようになった。モノを大切にする、愛するという思いは、物欲ではなく、モノに対する心の投影であり、モノを通じて人間の性質、思考、感情などが露わにされることになろう。

 

『フロー体験 喜びの現象学』で大いに感心させられたチクセントミハイが、ロックバーグ=ハルトンという社会学者と共に著したのが本書である。私は『フロー体験』の著者が書いたから本書を手に取ったに過ぎないが、思いのほか良い本であった。

 

人間がモノを大切にする心的活動について本書は、涵養という概念を用いる。涵養は、人間がモノの追及に際して注意を選択的に向けることではじめて可能になる心的活動であり、モノとの相互作用である。従って、モノに注意を向けることで、人間の心的活動がどのような内容を表すのかということが問題となるだろう。注意とは心的エネルギーと同意の概念である。私が冒頭で「家の中にあるモノの中で、あなたが大切だと思うモノを挙げよ」と自問した時の「大切だ」という言葉には、注意、心的エネルギーそして涵養そのものが含意されている。

 

モノに対する心的活動を考える上で、著者はモノを単なる無機質なモノとのみ考えない。ハンナ・アレントを引き合いに、人間の環境には2通りあるとする。1つは、自然の力によって作られた「宇宙」、そしてもう1つは人間の努力によって造り上げられた「世界」である。アレントは、「世界(世界とはもちろん上記の意味である)のさまざまな物には人間生活を安定させる機能がある。・・・いつもの椅子、いつものテーブルにかかわることで、同一性すなわちアイデンティティを回復させることができる」と言う。モノは単にそこにあり所有されるだけではなくアイデンティティの回復にまで寄与すると言うのである。つまり、モノと人間との相互作用において、人間の性質が規定される訳である。モノはそこに置かれるだけではなく、人間との相互作用を通じて、それを大切にする人間は何を考えているのか、その性質が規定されるというのだ。それゆえに本書におけるモノは、自然と、家の中に置かれるモノに関心が注がれている訳である。

 

愛する人やかつて訪問したことのある場所に触れているという感覚、自然そのものとふれているという感覚は、人間が重要だと考えているものごとを表現し、あるモノや意味に限定して集中的な注意を注ぐよう、動機づけられている目的を明らかにする。例えばいとしい恋人と行ったことのある思い出深い場所を、再び訪問する時に、何とも言えぬ懐旧の念にひかれることがある。既に恋人とは別れ、自分は他の恋人と交際しているのに、その恋人と訪れた場所の思い出や、その恋人に対するあらゆる感情が呼び起こされる。それを懐旧とひとくちに表現したが、恋人に対する感情は良いものばかりではないし、辛く悲しい、あるいは怒りに満ちた感情であることもあろう。その場所がそういった曖昧模糊とした感情でありながら、喜び喚起させる場所であれば、そこはそういった意味においてその人を規定づけるのである。文章におこしてみれば、モノに対する人間の心的活動とは、当たり前といえば当たり前の概念で何てことはないのだが、モノが単にそこにあるものではなく、人間を規定づけ、アイデンティティを回復させる場所であることを想起すると、人間とモノとの相互交流には人間の心理を解き明かす上での謎が数多く残されていることが分かろう。

 

個人におけるモノの意味だけではなく、家族で所有しているモノについての分析も興味深い。家族はモノと共に生活する。それらのモノは、家庭という感覚を伝える。すなわち家庭とはどんなものなのかが、モノを通じて明らかにされる訳である。家族とモノについては、8章の「家族生活の記号」でより明らかに分析されていた。温かい家族の母親は家を「とてもすてきなうちだ」と表現し、冷たい家族の父親は家を「殺風景で人工的で・・・うちの中は寒々しい」と表現していた。

 

人間とモノの相互交流、それに基づく人間の心的活動について分析されていく本書には詩情が横たわっている。それは、400ページにも及ぶ大きな文章の中で、インタビューされた多くの人物たちが吐露する心の風景に、その人々の様々な感情、歴史などが明らかになっているからであろう。