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【書評】 ランサローテ島 著者:ミシェル・ウエルベック 評価☆☆☆☆★ (フランス)

 

 ミシェル・ウエルベック

 

ランサローテ島』は、フランスの小説家ミシェル・ウエルベックの短編である。単行本で60ページくらいの短い小説。

 

私は最近、野崎歓の著書を何冊か読んだ。野崎のプロフィールにミシェル・ウエルベックの翻訳作品がある。なんとなく面白そう。試しに借りてみた。そうしたら非常に面白かった。

 

ミシェル・ウエルベックは、1957年生まれのフランスの小説家である。今年60歳。長編『素粒子』が世界的ベストセラーとなり30ヶ国に翻訳出版された。『地図と領土』でゴンクール賞を受賞。その他の作品に『プラットフォーム』『闘争領域の拡大』などがあるが、2001年出版の『プラットフォーム』にはイスラム原理主義への攻撃的な描写があるそうで、同時多発テロとの関連でも同作は読まれた。

 

ランサローテ島のはじまり

 

ランサローテ島』は、男が旅行代理店のカウンターに行くところから始まる。「セックスしたいわけじゃないんです」と露骨に代理店の若い女性スタッフに言う男は、セックスについて開放的な予感を与える。実際、男はランサローテ島に行って、バイセクシュアルのドイツ人女性二人と乱行するに至るのだ。

「セックスしたいわけじゃない」って?おい、本当かよ?と、本書を読み終えた後で代理店のシーンを読むとそう言いたくなる。

 

ランサローテ島とは、私はどんな島なのか知らなかったが、モロッコ付近にある島である。スペイン領となっている。特に観光名所らしいものもなく、地震と火山噴火の被害によって文化遺産が失われたような島であるが、そういう乾ききって荒涼とした島ゆえに、男は惹かれるのである。

 

パムとバルバラ

 

ランサローテ島で、男はドイツ人女性のパムとバルバラと出会う。二人はレズビアンだが、レズビアン専門という訳ではない(なんだそりゃ)。パムはダメだけど、バルバラはまだ挿入も可能なのだとか(ばかばかしい!)。こういった滑稽な描写が連綿と続く。女性性器をストレートな言葉で発言したり、愛撫やセックスの露骨な描写などもあるが、その餌食となるのはパムとバルバラである。まるで村上春樹かと見紛うほどに執拗な性描写があるが、村上に対するような嫌悪感を私は抱かなかった。村上春樹のように気取った言葉を吐く田舎者ではないという点もあろうが、やはり、男とパムとバルバラとの性行為には、「滑稽さ」がつきまとって離れないからであろうと思っている。丁寧な性描写を見ても、エロティシズムは感じられずひたすらにファニーなのである。

 

馬鹿丸出しのいい加減な英語を使って会話するフランス人の男と、ドイツ人女性二人。「英語はいつだって少しばかり苦手で、三つも文章を並べるともうお手上げ」の連中。率直に女性の体に触れて、反応を確かめる男。知的でもなければ気の利いたことも言えない、ましてや金持ちですらない男に、なぜか身を任せるバイセクシュアルのドイツ人女性二人。このナンセンスさに、私はページを繰る手を止められなかった。

 

ベルギー人のリュディ

 

ランサローテ島』にはもう一人の登場人物がいる。ベルギー人のリュディである。リュディはランサローテ島で、主人公やドイツ人女性二人と行動を共にするが、女性とはセックスしない。代わりに、カルト宗教の信者となって、のちに逮捕されている。

 

カルト宗教では、信者が自由な性関係を謳歌しており、信者の少女に性的関係を強いたり、近親相姦に至る信者たちもいる。リュディはモロッコ人の少女と性関係を結んだ。彼はかつて、モロッコ人女性と結婚しており子までもうけたが、女性はリュディを捨ててモロッコに子とともに帰国してしまった。

 

リュディは、モロッコ人の女性に対する執着が現在でもあるのだろう。モロッコ人の少女に性関係を強いたかどで訴えられている。

 

野崎歓は解説で、『ランサローテ島』は観光旅行が現代の西欧の人間にとって「どのような欲望の装置」となっているかを描いた作品だと言う。主人公の男、パムとバルバラ、そしてリュディ等は全て、観光旅行をして「欲望の装置」たらしめている。そこには常に滑稽さがつきまとっているのだが、欲望とは果たして、そういうものなのかもしれない。

 

このナンセンスさ、滑稽さ、ばかばかしさ、露骨な性描写等は、魅力的である。

 

【書評】 ジャン・ルノワール 越境する映画 著者:野崎歓 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

 

ジャン・ルノワール 越境する映画

ジャン・ルノワール 越境する映画

 

 ジャン・ルノワールとは?

 

フランスの映画監督ジャン・ルノワールの評伝。著者はフランス文学者で映画研究家の野崎歓である。

 

ジャン・ルノワールといわれても私にはどんな映画監督か分からない。何しろ一度も作品を観たことがないのだ。ではジャン・ルノワールとはどんな映画監督なのか。

ジャン・ルノワールは、1894年にフランスのパリで生まれた。父は印象派の巨匠オーギュスト・ルノワール。さすがに父親の方は私でも知っている。暖かい自然の風景の中にいる女性は、私の理想像でもある。オーギュストの作品『ガブリエルとジャン』の男の子のモデルが、ジャン・ルノワールである。

 

いくつかの恋愛、結婚を経て、ディド・フレールというブラジル出身の女性がルノワールの終生の伴侶となっている。ディドは英語が堪能。本書には英語で書かれたジャン・ルノワールの手紙が収められているが、英訳したのはディド夫人のようだ。尚、ジャン・ルノワールは第二次大戦中にアメリカに渡り、のちに市民権を取得している(フランスとの二重国籍)。

 

ルノワールの映画はヌーヴェルヴァーグにも影響を与え、ゴダール、リヴェット、そしてトリュフォーらがジャン・ルノワールの監督作品を称賛した。特にトリュフォージャン・ルノワールとは親交を深め、終生の親友となっている。

 

ジャン・ルノワールの代表作には、『ピクニック』『大いなる幻影』『河』などがある。特に『大いなる幻影』は評価が高く、多くの傑作映画ランキングでランク入りを果たしている(カイエ・デュ・シネマ、エンパイアなど)。晩年は小説を書き、『ジョルジュ大尉の手帳』『イギリス人の犯罪』などを残した。野崎歓ルノワールの小説を高く評価している。1975年にアカデミー名誉賞受賞。パーキンソン病に悩まされたが84歳まで生きた。

 

多数の手紙

  

本書にはたくさんの手紙が収められている。ジャン・ルノワールが書いたものが多いが、反対にルノワール宛てに書かれた手紙も数多い。手紙から伝わってくるのは、ルノワールという映画監督は明るい人物だということ。映画の黎明期を知っている監督なので、その朗らかさはまるで映画の父のようだ。

 

ロベルト・ロッセリーニと不倫の恋に落ちて社会からバッシングを浴びていたイングリッド・バーグマンに対して、その行為を責めることなく優しい言葉を投げ掛けるルノワール。彼が映画の父でなくて、何であろう?

 

ルノワールは渡米してハリウッドで映画を撮影することができた。しかし必ずしも、ハリウッドで成功したという程ではなかった。それでも意気消沈することなく映画を撮り続け、年若い、気鋭のフランス人監督(ゴダールトリュフォーら)から敬愛されるジャン・ルノワール。特にフランソワ・トリュフォーとは、親密に手紙をやり取りする仲だった。トリュフォーに、ルノワールは死期を感じる最中でも手紙を書いた。いつもながらの優しい手紙。

 

ルノワールは後年、小説を書いた。しかし小説を出版した時期が悪く、前時代的な小説を書いたとみなされてしまう。それでも、アメリカ人作家ヘンリー・ミラーから、その文才を好意的に評価する手紙をもらったルノワールルノワールはその後もいくつかの長編を書き、エッセイ集も出版した。ルノワールの手紙は明るく、幸福に満ちている。

 

 

越境するジャン・ルノワール

本書のタイトルは『ジャン・ルノワール 越境する映画』とある。越境するのはルノワールであるはずだが、タイトルは「映画」が主体となっていた。映画監督であるルノワールには常に映画を伴って歩いている。従ってルノワールが越境しようとも、映画が越境していることと、同じ意味に捉えることができるのだ。だから越境する映画となる。

 

ルノワールはフランスの映画監督だが、第二次大戦中にアメリカに越境した。そして、アメリカで必ずしも成功したとは言い難いながらも、映画を撮り続けることができた。サン=テグジュペリチャップリン、バーグマンなどに出会ったのもアメリカである(サン=テグジュペリとはアメリカに向かう船上で出会った)。『河』『フレンチ・カンカン』などを撮ったのも渡米後の時期である。

 

ルノワールは『捕らえられた伍長』を最後に映画監督を引退する。しかし隠遁はせずに、越境する。すなわち、小説家へと越境するのである。ルノワールは越境後の地(文学)において、『ジョルジュ大尉の手帳』『イギリス人の犯罪』などの小説を書いた。文壇の評価は必ずしも芳しくなかったが、何よりも物語を他者に伝えることが好きだったルノワールは、いくつもの長編を残し、エッセイを書いた。筆まめでもあった。

 

越境後のルノワールは何を思ったか。死の前年、ジャン・ルノワールフランソワ・トリュフォーに向けてこのような手紙を書く。

 

私は恵まれています。私の両親は素晴らしい人たちだったし、自然は私に頑丈な体を与えてくれました。そして今、旅路の終わりにさしかかって、あなたが現れたのです。

 

著者・野崎歓が言うように、「自分は恵まれていた」と心から述べることのできるルノワールの晴朗さは羨むべきものであろう。優しく、温かで、多くの映画関係者に愛されたルノワールであった。父がいなかったトリュフォーにとって文字通りルノワールは父であった。ルノワールの葬儀には、アメリカの映画関係者が集まったが、「単なる通りすがりの人たちまで入りこんでいた」のだそうである。縁もゆかりもない通りすがりの人間が集まってしまう葬式には、ルノワールの寛容な人生を物語るような温かみを感じる。

 

ルノワールトリュフォーにあてて、「私たちの関係にはどこかお伽噺のようなところ」があると書いたが、ルノワールはその死の後にまで、お伽噺を演出したかのような印象を受ける。ルノワールは死の世界に越境しても尚、本質は映画監督なのであろうか。本書は、著者のルノワールに対する深い愛着をつぶさに語り、そして書かれた言葉は優美で、うららかな春の風を頬に感じさせるようだ。

 

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【書評】 谷崎潤一郎と異国の言語 著者:野崎歓 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

谷崎潤一郎と異国の言語 (中公文庫)

谷崎潤一郎と異国の言語 (中公文庫)

 

 谷崎潤一郎の関西移住前の初期作品について

 

フランス文学者で映画研究家の野崎歓による谷崎潤一郎についての評論。著者にとって日本文学は門外漢であるが、谷崎潤一郎について「異国の言語」という切り口でまとめ上げていて読み応えは十分だ。『カミュ『よそもの』きみの友だち』でも感じたが、野崎の評論は評論の対象(『よそもの』とか谷崎潤一郎作品とか)に対する深い熱情があるので、読者は対象に関心がなくても評論単独で読むことができる。

 

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尚、本書は、『卍』を除けば大正時代の谷崎作品について書かれているのが特徴。大正時代の谷崎作品は、後期の作品ほど安定的な評価を確保していないように思われ、私のように谷崎作品を通期に渡って等しく評価する者は特異な存在かもしれない。そもそも谷崎潤一郎は、かつて自作についてこのように語っていた。

 

変わると云えば大正末年私が関西の地に移り住むようになってからの私の作品は明らかにそれ以前のものとは区別されるもので、極端に云えばそれ以前のものは自分の作品として認めたくないものが多い。

 

谷崎本人がこのように語ることによって、関西移住前の初期作品に対して不当とも思える過小評価が下されることもある。上述の通り、私は初期作品も、関西移住後の後期作品もどちらも評価している。ただ、各々から感じ取る感性が違うだけだと言うばかりだ。初期作品には官能的で嗜虐的な味わいがあるし、後期作品にはたおやかな香りがある。二つの時代の個性が異なるだけで、どちらが高い評価を受け、どちらが低い評価を受けるものではないはずだ。

 

 

異国の言語を愛した谷崎

 

本書『谷崎潤一郎と異国の言語』は、独探、鶴唳、ハツサン・カンの妖術、人面疽、卍の5作品について書かれている。

 

それぞれの作品について「異国の言語」が取り上げられている。即ち、独探では「フランス語」、鶴唳では「中国語」、ハツサン・カンの妖術では「魔法の言葉」、人面疽では「映画的言語」、卍では「関西の言葉」が異国の言語である。

 

谷崎潤一郎は、英会話は苦手であったが英語の読解のレベルは高く、スタンダールジェイムズ・ジョイスなどを読みこなしていた。また、本書には谷崎が訳したボードレールの詩(英訳からの翻訳)も収められているのだが、美しい日本語に精通している谷崎ならではの名訳がそこに現れているのだった。

 

関西移住前の谷崎の初期作品から、谷崎の西洋崇拝を読み取れるが、本書を読むと谷崎は西洋に限らず「異国の言語」に高い関心を持っていたことが分かる。異国の言語といっても、ハツサン・カンの妖術では魔法語だし、人面疽では映画的言語、卍では関西の言葉が「異国の言語」扱いされている。要は、谷崎にとっての異国の言語とは、西洋のように、崇拝の対象となる異国の言語なのである。魔法語も、映画的言語も、関西の言葉も谷崎にとっては崇拝の対象であり、自分が話す標準語とは異なる異国の言語なのである。

 

 

北野武監督 私的ランキング10

2017年10月7日は既に過ぎ去った。私は、この日を待ち遠しく思っていた。なぜなら、北野武監督の最新作『アウトレイジ最終章』が公開された日だからだ。

 

私は来週の月曜日に『アウトレイジ最終章』を観に行こうと思うが、その前に私が好きな北野映画のランキングを発表したい。 これを書くことで『アウトレイジ最終章』を観るための心構えができると思ったからだ。それに加えて、『アウトレイジ最終章』を早く観たいが、今観られないので、観たい気持ちを抑えるために書いたという側面もある。

 

では、いこうか。

 

10位 龍三と7人の子分たち(2015年)

 

 北野武が純粋なコメディ映画を描くと退屈だと思ったのは、『みんな~やってるか!』と『菊次郎の夏』を観てからである。ビートたけしとして、テレビで多数のコントを作っていた時とは違って、北野のコメディ映画は人工的な笑いしか出てこない。つまり、強制的に、無理やり笑わされているようなのである。

 

『龍三と7人の子分たち』は、そういう意味では、北野のコメディの中では珍しく自然に笑いを誘う映画となっていると言えるだろう。

 

若かりし頃はヤクザや犯罪者だったかのような老人が多数、画面に出てくる。そして鈴木慶一の間延びした、しかし軽快な音楽と共に、8人の老人は自分のやりたいことをやって暴れる。そこに目的意識は欠如されている。ただ暴れたいがために、自分のやりたい行動を取っているだけである。だがこの徹頭徹尾、自分のためにしか行動を示さない老人たちの暴れ方は、無意味であると同時に、無意味ゆえに素直に笑うことができる。

 

 

 

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9位 その男、凶暴につき(1989年)

 北野武監督初監督作。深作欣二の代役として監督を務めたこと、野沢尚の脚本を北野流にアレンジしたこと、既に北野映画は原点から完成されていたこと(突発的な暴力描写・説明を欠く演出)、ルイ・マル監督の『鬼火』からの影響(エリック・サティの音楽や自殺願望)など、話題には事欠かないが、今さらこのブログでそれらを挙げてみても仕方あるまい。

 

私は、『その男、凶暴につき』における出演者の血が沸き立つような存在感に、圧倒されるし、同時に滑稽さを感じる。ビートたけしが妹の体にいたずらした男を階段から突き落とすシーンや、犯罪者が刑事をバットで殴るシーン、そしてたけしと同じくらいスクリーン上で暴力の限りを尽くす白竜。これらのシーンは迫力ある演出で描かれているが、何度も観ていると笑いがこみ上げてくる。

 

その理由は北野武が散々描いてきた突発的な暴力の原点がここで描かれきっているからだろうか。既視感をそこに感じるからなのだろうか。そうではなくこれらのシーンが単純に面白いからである。まるでビートたけしのコントを観るような感覚だ。

 

 

 

 

8位 アウトレイジ(2010年)

北野が最後にバイオレンス映画を撮ったのは2003年。『座頭市』という時代劇だった。その後北野はバイオレンス映画を撮らなくなる。

 

そして、『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』という、映画観・芸術観をさらけ出す映画を撮った。私はこれらをすべて観たが、『アキレスと亀』以外はよく分からなかった。『監督・ばんざい!』に至っては、当初のタイトルがOpus19/31だったそうで、フェリーニの『81/2』からの影響を受けた作品を作ろうとしたようである。これら3つの作品は、評価も良くなく、迷走している感があった。だが、北野が、そうした、映画の方向性への苦悩を経て、久しぶりに撮ったバイオレンス映画が、『アウトレイジ』だ。

 

アウトレイジ』は北野作品初のシリーズ作品で、セリフが多く、物語性も非常に高いバイオレンス映画である。北野が作品を評して、「死ぬシーンを先に考案した」と言う通り、登場人物は印象的な死に様を見せていく。印象的というのは、ほとんどが残酷な死に方を見せていくというものである。

 

特に、 椎名桔平が演じた水野が殺されるシーンは残酷だ。首をひもで縛られたまま車を発車させ窒息死させられるのだが、水野は首がとれかかってしまうのだ。首がとれかかるシーンはみせないが、「水野の首がとれかかっていたぜ」という台詞から観客に残酷な死に様を想像させる。

 

物語性の高いバイオレンス映画『アウトレイジ』は、単体で観るとそこまで良い映画ではないが、続編の『ビヨンド』とセットで観ると面白い。『ビヨンド』では死んだはずの大友が復活して、木村と手を組んで山王会を壊滅させるのだが、『アウトレイジ』では冷や飯を食わされた両人が『ビヨンド』で復讐していく様が面白く思えるのは、『アウトレイジ』のある種の伏線を回収していくように思えたからである。

 

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7位 3-4X10月 (1990年)

『3-4X10月』は北野武の2番目の監督作。北野が編集長を務めた雑誌『コマネチ!』で、北野は『3-4X10月』をできの悪い子どもと言っていたように記憶する(手元に資料がないので間違っていたら申し訳ない)が、確かにできの悪い子どもだが、できの悪い子どもほどいとおしいように、『3-4x10月』は愛すべき作品である。

 

いわゆる夢落ちの物語で、草野球中にトイレの中で夢見た男の暴力性が発散されている。主人公を演じるのはたけし軍団の柳ユーレイで、馬のような間延びした顔が気持ち悪いが、何を考えているのか分からない表情が巧みで、彼なら確かにヤクザの事務所にタンクローリーで突っ込むだろうと思わせる。

 

物語は東京編と沖縄編の2つで、代表作『ソナチネ』を先取りしたような構成である。主人公はあまり口数が多くなく、沈黙に近い。ヤクザも出てきて、ベンガル演じる武藤や、芸人のガダルカナル・タカが演じる井口という男が鮮烈な印象を放つ。大して演技ができないはずのお笑い芸人であっても、北野の手にかかると俳優としてきちんと画面に収まっているのが見事である。

 

沖縄編で初めてビートたけしが出てくる。懐かしの元ボクサー・渡嘉敷勝男がたけしの部下として出演。渡嘉敷は大して演技力はないが様になっている。組長役で豊川悦司が出演しているがオカマに見える。

ビートたけしは上原という役。ビートたけしは、最後はやっぱり死ぬ。沖縄の乾いた映像が非常に美しく耽美的である。

 

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6位 キッズ・リターン(1996年)

 『キッズ・リターン』は、北野武監督がバイク事故を起こした後の復帰作品。ビートたけしは出演していない。金子賢安藤政信主演作。脇役でやべきょうすけ、そして脚本家で俳優の宮藤官九郎がチョイ役で出ている。

 

構成力に優れた物語で、マサル・シンジ・ヒロシの3人の少年が転落していく様を横断的に描いている。この演出手法は『アウトレイジ』シリーズにも通じるものだ。

3人の少年の転落の原因は全て彼ら自身にある。マサルはヤクザになるが、ヤクザ組織に馴染み切れずに会長に暴言を吐き、組織を追い出された。シンジはボクサーを目指すものの先輩(モロ師岡)の甘言にのって破滅する。ヒロシははかりの会社に就職し彼女とも結婚するが、楽な仕事を目指しタクシードライバーに転職して事故を起こす。

 

3人の少年の転落を描くといっても、主たる対象はマサル・シンジの2人である。彼らは映画の冒頭から自転車に2人乗りをして、無気力な高校生活を送っている。高校を卒業して大人になり、マサルはヤクザ、シンジはボクサーの道に進む。件の通りそれらの道筋は良い実を結ばず、2人は出身高校の校庭に戻ってくるのだ。

 

ラストでシンジはマサルに、「マーちゃん、俺たち終わっちゃったのかな?」と聞く。マサルは笑いながら「馬鹿野郎。まだ始まってもいねえよ」と言って終わる。文字だけを見るとクサイが、リアリティのある2人の人生の失敗を見届けた後なので、マサルとシンジの台詞を聞いて静かな感動が押し寄せた。

 

 

 

 

5位 BROTHER(2001年) 

『BROTHER』は『ソナチネ』の海外版といった印象で、北野映画のファンの中でもあまり上位に位置づける人も多くないんじゃないかと思う。だが私は『BROTHER』が非常に好きで、心の中で北野映画ベストワンにしていた時代もある。その後多くの作品が出てきたのと、『BROTHER』の原点である『ソナチネ』を観返したことでランクは下がった。それでも上位に位置させた。

 

ソナチネ』『3-4X10月』同様に2部構成となっている。上記2作品であれば東京編と沖縄編の2部構成だ。『BROTHE』に至ってはそれが日本編と米国編の2部構成となっている。

 

ソナチネ』で北野映画に初登場した大杉漣は、『HANA-BI』では静謐な演技を見せたが『BROTHER』 では大組織化するヤクザ組織に飲み込まれて自滅する組の幹部を演じた。腹を切って大腸を晒すシーンはグロテスク極まりなく、大杉漣の体当たりの演技であろう。

 

北野武の映画では「日本」という国を象徴することが少ない。それがジャン=リュック・ゴダールも評価した点だった(ように記憶する。これもうろ覚え)。しかし『BROTHER』における北野は日本を意識して撮っているように思えてならない。私は『BROTHER』を観て、大東亜戦争を思い出した。米国に挑み、途中までは善戦するも後は無残に敗北する日本。戦争を美化する訳ではないが、あの当時の日本が米国に挑戦せざるを得なかったこと、そして数多くの無辜の人間の生命を奪ったことは許されないながらも、日本がかつて米国と戦争して戦ったプロセスまでは否定したくない私は、『BROTHER』を観て、先の大戦時の日本を思い起こした。

 

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4位 アウトレイジビヨンド(2012年)

 

アウトレイジビヨンド』 は『アウトレイジ』シリーズの2作目。これで最後と思っていたので『最終章』が発表された時は驚かされた。

 

神である片岡刑事を、大友が殺す映画で、山王会のヤクザたちがバタバタと殺されていく姿は『ソナチネ』以降、一貫して見られる北野映画の敗北シーンの象徴。

 

ビートたけしが一応の主人公ということになっているが、群像劇なのでたけし主演という感じでもない。たけしは演技力が落ちているので、1人で主演を張ることはできないのかもしれないが。『ビヨンド』は、ビートたけし演じる大友、中野英雄演じる木村、そして小日向文世演じる片岡刑事を主軸に、それぞれのキャラクターが強い魅力を発揮していた。

 

私は意外と、山王会幹部役を演じた中尾彬の演技が好きだった。片岡の口車に乗せられて、関西の花菱会に乗り込むも、裏で山王会と花菱会が通じていたので、山王会の舟木に殺されてしまった。彼の演技は存在感が抜群で、「ちょっと待ってくれよ!」と取り乱して命乞いをする最期がまた、非常に哀れで良い。

 

多くの人がネットで言っているが、木村役を演じた中野英雄、花菱会の幹部を演じた西田敏行塩見三省は非常に素晴らしく、彼らなくして『ビヨンド』は成り立たなかっただろう。ゆえに、木村が殺害された時は一抹の口惜しさを覚えたものだった。

 

 

3位 座頭市(2003年)

 

 『座頭市』は勝新太郎主演で有名な『座頭市』シリーズを北野流に翻案した時代劇。時代劇といっても、特に歴史物語ではないので、舞台が江戸時代というだけに過ぎない。

 

この映画におけるビートたけしは完全無欠のヒーローで、『血と骨』の時よりもはるかに凄味があった。ラストのタップダンスは毀誉褒貶あるようだが、躍動するリズム感がカッコよく私は好きである。

 

主人公・市による大量殺戮は、カッコよく演出されているが、彼の行動の意味を考えると何の意味もないので、恐怖以外の何物でもない。市はヒーローといっても、正義の味方ではないのだ。ある姉妹のために戦っている訳ではない。あたかも殺すことを目的としているかのようだ。

 

蓮實重彦は『座頭市』の主人公・市を「宇宙人」と評した。確かに主人公は市と呼ばれ、あるいは按摩さんと呼ばれるものの何者なのか説明されない。そういう意味で宇宙人という名称は、確かに市にふさわしい。市と呼ばれるよりも遥かにふさわしい。

 

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2位 ソナチネ(1993年)

 

 北野映画の中で、特に無常感きわまりない映画が『ソナチネ』である。この映画が北野武の心象風景なら彼は自殺願望があったのだろう。

 

ルイ・マルの映画『鬼火』は1人の男が自殺するまでの2日間をシンプルに描いた映画だが、『ソナチネ』はビートたけしが演じる村川の自殺願望に彼の組員全員が巻き込まれたかのような映画である。

 

とにかく村川はヤクザとして、個人的に絶頂を極めたため、あとはもう死にたくて死にたくて仕方がないという感じである。そんな男の自殺願望に大杉漣演じる片岡や、寺島進演じるケンなどが巻き込まれてしまったとしか思われない。矢島健一演じる高橋はインチキくさいインテリヤクザだが、彼もまた、村川の自殺願望に付き合わされる。

 

仕事の上で絶頂を極めた者には、あとは何が残っているのか。何をしてもそれは、絶頂の繰り返しでしかない。だからあとに残されているのは死しかないのではないか。そんな無常観が手に取るように伝わってくる。

 

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1位 HANA-BI(1998年)

 

 『HANA-BI』は夫婦愛を描いた映画である。男の一方的な愛ではなく、妻との双方向の愛であることが最後に明かされる。だから私は、最後のシーンでいつも泣かされてしまう。この映画は既存の北野映画の集大成のようでいて、テーマが全く異なるために異様な雰囲気を放っている。私にとっては、これが北野の最高傑作!

 

 

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ランク外の作品の中で惜しくも漏れたのが『アキレスと亀』だが、他の作品はあまり好みではなかった。ただし、ランキングに入っていない2作品『Dolls』『あの夏』は、嫌いなのではなく、未だ観ていない。

【書評】 カミュ『よそもの』きみの友だち 著者:野崎歓 評価☆☆☆★★ (日本)

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

異邦人≒よそもの

仏文学者・野崎歓によるアルベール・カミュの『異邦人』論。ただしタイトルは『よそもの』。このタイトルにしたのには理由があって、『異邦人』の原語はエトランジェと言い、英語ではストレンジャー。つまり、日本語訳の異邦人のような難解さはまったくない日常の単語なのである。だから野崎訳では単に『よそもの』とした。なかなかセンスの良い訳ではないか。

ムルソーとは母が死んでも涙一つ流さない

『よそもの』の主人公ムルソーは、母が死んでも涙一つ流さず、翌日に酒を飲み、女とデートするような男である。感情が剥奪されているかのような行動と感性に、読者はムルソーを自分たちとは異なる異質な存在と考える。すなわちよそものである。

母が死んでも涙一つ流さない男というと、漫画家の蛭子能収を思い出してしまうが、彼もよそもの的である。

私が『よそもの』を読んだ時

私が『よそもの』を読んだのは10代の頃で、母親の本棚にあった新潮文庫版を借りたのが初めてだった。母親が若かった頃はカミュサルトルボーボワールがヒットしていた(ヒットナンバーのように)時代で、特に文学部出身でなくてもそれらの本は読まれていた。だから本棚には、カミュの他にもサルトルの『嘔吐』、ボーボワールの『第二の性』などがあったがそれらの作品の衒学的な匂いに馴染めずカミュの『よそもの』を読んだ。

「今日、ママンが死んだ」という印象的な一節で始まる『よそもの』は、少年時代の私の心を捉えた。といっても、三島由紀夫が『ドルジェル伯の舞踏会』に耽溺した程ではなく、一瞬の陶酔のようなものだったが確かに私は『よそもの』に憧れた。理由なく殺人を犯し、それを太陽のせいと言う主人公ムルソー、彼の対象に対する素っ気なさにカッコ良さを感じた。

母を愛していたムルソー

今改めて本書を通して『よそもの』を追うと、ニーチェ的な生の肯定が奥底にあるように感じられて興味は惹かれなかった。野崎歓の文章はシンプルながらもぐいぐいと読者をその対象へと引き込む牽引力に優れていて、読むことの快楽はある。それは対象そのものよりもむしろ野崎歓の文章への快楽である。カミュの『よそもの』に関心を失っても尚、野崎歓の文章は良いと感じられた。

よそものたるムルソーは、本書で明らかにされている通り母を愛していない訳ではないのだ。ムルソーを評して、ムルソーは母を愛していたと言う人があるが、それが全面的に肯定し得るムルソーの姿ではないとしても一側面ではあるだろう。我々が理解し得る形でしか、「母を愛する」行動を考えられないのであれば確かにムルソーは母を愛していないが、よそもの的にムルソーを見てみると確かに母を愛している面は伺える。それが不条理というものの考え方なのだろう。常人には理解できないし、強引に理解する必要もないが、ムルソーのような人間は確かにいるのである。