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【書評】 恋の都 著者:三島由紀夫 評価☆☆★★★ (日本)

恋の都 (ちくま文庫)

恋の都 (ちくま文庫)

ビジネス小説的に女性が活躍する

『恋の都』は三島由紀夫の長編小説でエンターテインメント作品。まゆみというバンドのマネジメントを担う女性の活躍を描く。戦後すぐの日本を舞台に、アメリカ人らを相手に流暢な英語を駆使して仕事をするまゆみは商魂たくましい。

バンドのメンバーが人妻と不倫すれば奔走するなどまゆみの活躍でバンドは維持されている。タイトルが恋愛小説的なので誤解を招くが、本書は、三島によるビジネス小説なのではないかと思った。

美しいまゆみはアメリカ人を翻弄する

まゆみは美しく、男たちは彼女に惹かれていく。しかし相手にされないで終わる。アメリカ人もまゆみを狙うが、彼女はアメリカ人たちを相手にしない。それには理由があって、まゆみにはかつて日本人の恋人があって、第二次大戦で戦死したのだ。だからまゆみはアメリカ人の男を翻弄することで、精神的な復讐を遂げようとした。

戦後すぐの日本を舞台にしているだけに、自身の美をもってアメリカ人を翻弄するまゆみの姿は愛国的にすら見える。彼女は戦争に敗北した日本の復讐を、恋人の戦死と、自分に言い寄るアメリカ人を翻弄することで成し遂げようとした。途中で恋人が実は生きていたということが判明するが、何だかあまり面白くない展開になってしまった。まゆみは、男を空気ほどにも思わない女性であって欲しかったな。

【書評】 いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ 有効需要とイノベーションの経済学 著者:吉川洋 評価☆☆☆☆★ (日本)

ケインズが復活した!

1970年代以降、ケインズ経済学は死んだと思われていた。特にロバート・ルーカスの死の宣告がケインズ経済学に与えた影響は大きい。しかし2008年、米国のサブプライム・ローン問題に始まる世界金融恐慌が起きて、古典派経済学の経済政策では太刀打ちできなくなると、ケインズ経済学は復活した。 

著者の吉川洋東京大学名誉教授。マクロ経済学が専門。ちくま新書で『ケインズ』という本を出している他、マクロ経済学の教科書も出している。そういう経歴の著者が書いたケインズシュンペーターについての本書は、いかにも興味をそそられるではないか。

ケインズシュンペーター、1883年生まれの2人の天才経済学者

本書は以下のように始まる。同じ年に生まれた2人の天才経済学者の誕生が「経済学にとって特別の年」だとして。

一八八三年、この年は経済学にとって特別の年である。二〇世紀を代表する二人の天才経済学者ジョン・メイナード・ケインズとヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは共にこの年に生まれた。

ケインズは英国生まれ、そしてシュンペーターオーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)に生まれた。ケインズは名門ケンブリッジ大卒業後、インド省に入省。主にケンブリッジ大で研究。ケインズは、哲学者ウィトゲンシュタインとも親交があった。対するシュンペーターは大学教授であるが、オーストリア財務大臣を務めたり銀行の頭取に就任したりしている。最後は渡米しハーヴァード大学教授となった。シュンペーターケインズの主著『一般理論』に対して強い批判を行ったことでも知られている。

ケインズシュンペーターの著作に丁寧に言及

本書は両者の処女作に始まって、シュムペーターの主著『経済発展の理論』、そしてケインズの三部作『貨幣改革論』『貨幣論』『雇用・利子・貨幣の一般理論』について解説。この中で私が関心を惹かれたのは『一般理論』で、読んだことはないが『一般理論』によってケインズ経済学(あるいはマクロ経済学)が打ち立てられたと考えると、相当にセンセーショナルな本だったのだろう。ケインズ有効需要については、ロバートソンという経済学者の「需要の飽和」が先駆だと書かれていて、この指摘も面白い。
特にケインズの「有効需要」やシュンペーターの「イノベーション」について、紙幅を割いて丁寧に説明する。発表当時におけるアカデミズムへの受け止められ方、そして現実の経済政策への影響、それぞれの理論に対する批判など、記述は詳細に亘り、経済学史の勉強にもなる。

イノベーションで資本主義経済のダイナミズムをえぐる

シュンペーターはわずか29歳で『経済発展の理論』を書いた。著者によれば、本書によってシュンペーター経済学が完成したというのだから、彼は相当に早熟な天才だったのだ。シュンペーター親日的な学者で、来日までしている。シュンペーターには日本人の弟子までいて、中山伊知郎東畑精一である。中山らは『経済発展の理論』の邦訳を務めた。文字通り愛弟子だった。

『経済発展の理論』にはシュンペーターの重要な概念であるイノベーションが確立されている(当時はイノベーションではなく、新結合という用語だった)。イノベーションという概念で資本主義経済のダイナミズムの本質をついたことは興味深かった。ただ、著者がいうように不況とイノベーションとの関わりを論じたところは、確かに私もよく分からない。不況は、好況の撹乱によって変革された与件に適応した新均衡状態に接近しようとする苦闘なのだとか…不況を必要悪とでもいうべき捉え方もさっぱり分からなかった。しかし、需要不足後の経済(不況)にあって、企業が新しいモノやサービスをイノベーションすることで、不況を脱せよという提言は良いと思った。

ケインズシュンペーターの統合?

著者は本書の最後に、ケインズシュンペーターの統合について触れる。それが本書の骨子ではなかろうが、何やら面白いような気配がする。ケインズの説く有効需要と、シュンペーターの説くイノベーションを合体させ、「需要創出型のイノベーション」という成長モデルをつくったのだそうだ。詳しい説明がなかったのは惜しいところだが、ケインズシュンペーター経済学の統合の試みとしてチャレンジングであろう。

【書評】 人生にゆとりを生み出す 知の整理術 著者:pha 評価☆★★★★ (日本)

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

人生にゆとりを生み出す 知の整理術

著述家のphaの自己啓発本。本書のテーマは知識を獲得したり、整理したりするためにはどうしたら良いか、著者の具体的な考えが披瀝されていた。知識と思考の技術の自己啓発本というところか。

しかし、大抵は私が若い頃に試していたものばかりで、真新しさはなかった。というか、成人で知識欲があって、効率性を考える人なら、著者が本書で書いているようなことは経験済みだろう。
図書館で借りて読めば十分だ。

そもそも、本書は一体誰に向けて書かれた本なのだろうか。phaに対して私はあまり知性を感じたことはなくて、ニートの星みたいにフラフラしている姿が好きだっただけである。大方の読者もそうではないか?彼の経歴や著作を読んでも、ある種蛭子能収のような変人を見るような面白さはあるが、知性は感じにくい。未だに京大卒元ニートという看板も、いい加減飽きてきてしまったのだが…

知識と思考の技術の自己啓発本なら、山口周の『外資系コンサルの知的生産術』を勧める。

【書評】 沈める滝 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

人工的な愛の完成を目指す

『沈める滝』は三島由紀夫の長編小説。1955年刊。女性を愛することのできない男・城所昇は美男子で、ありとあらゆる女性から求愛され、それに応じるが、1人の女性とセックスに応じるのはただの1度だけ、特定の恋愛を継続させることがなかった。昇はダムの設計技師で、ある電力会社に勤めるが、そこは祖父が会長をしていた会社である。資産もあり家柄も良く眉目秀麗で女に求愛される城所昇は、女性を愛せない。ある時、人妻・顕子に出会う。いつもの感覚で顕子の肉体を求めた昇だが、顕子は不感症で性的に全く感じることのない女だったのだ。昇は顕子と、人工的な愛を完成しようと約束する。

三島由紀夫らしい愛の倦怠感

『沈める滝』で描かれている愛の倦怠感は、『音楽』『禁色』などでも描かれた三島の重要なテーマである。『音楽』は露骨な精神分析で退屈な代物だったが、『禁色』ではそれは、主人公・悠一の内面を深く掘り下げ、また、愛の倦怠感と芸術性とが混交する独特さで、三島の手腕が冴え渡る傑作となった。『沈める滝』における愛の倦怠感は、人工的な愛の完成を求めるもので、それを相手の女性と共に成し遂げるところに独特の香りがある。人工的な愛を完成させるため、昇は人妻の顕子と合わずに、手紙や電話などの間接的コミュニケーションのみで愛を完成させようとする。

雪に閉ざされたダム建設現場

ダム設計師である城所昇は、ダム建設のため新潟県のダム建設現場に行く。元会長の息子である昇は、会社に優遇されている立場だったが、昇は自ら志願して現場に赴いたのだった。それには、顕子との人工的な愛の完成のため、物理的に会わない環境を作る必要があると考えた。しかもダム建設現場は豪雪となり、昇は他の社員たちと共に閉じ込められることになってしまう。雪のお陰で、文字通り顕子と会えなくなる環境が作られた。

私は、間接的コミュニケーションや、環境設定は失敗だったと思う。「人工的な愛を完成する」というテーマは面白いが、直接顔を合わせながら、人工的な愛を完成する方が困難だし、それゆえに小説は面白くなっただろう。会わないより、会った方が感情の交流がある分「人工的な愛の完成」が困難になるゆえに、感情をどう制御するかが難しくなり物語性が高まったと思うのだが。

「自然に」男を愛するようになった女の自殺

顕子は徐々に昇を愛するようになってしまい、夫との離婚さえ決断する。しかし昇は同僚に「あの人は感動しないから、好きなんだ」と言っていて、それを聞いた顕子は絶望して自殺する。このエピソード自体は良いものの、上述の通り、それまでの展開が今ひとつなのであまり高い評価にはできない。「人工的な愛の完成」というテーマは良いし、昇に翻弄された顕子が絶望して自殺するというのも良いのだが、そのための材料やレシピが良くなかった。いくら料理人の腕が良くてもレシピや材料を誤っては旨い料理にはなるまい。どうもそういったところが『沈める滝』には感じられ残念だった。もうひとつ、がんばって欲しかったところ。

【書評】 女であること 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

女であること (新潮文庫)

女であること (新潮文庫)

女であることの無限

1956年に連載開始された『女であること』は川端康成の傑作の1つ。新潮文庫版で600頁近い長編小説である。長い物語の中に、弁護士夫人・市子、市子の友人の娘であるさかえ、そして市子の夫が弁護した殺人者の娘・妙子、そして市子の夫である佐山が主な登場人物として出てくる。この4人は、「女であること」の哀しみ、喜び、孤独、美しさにより、アイデンティティ(存在)が揺らぐ。市子は主人公でありながら、「女であること」の感情を自ら引き出し、あるいは他者から引き出されることにより、存在が揺らいでいってしまう。彼女は主人公なのか?とすら疑われるほどに、自分の心を自ら、あるいは他者から引き裂かれていくのである。「女であること」は、人間の存在を無限の姿形に変化させてしまうのではないか?とすら、思えるほどだった。

存在が揺らぐポリフォニー

市子は主人公でありながら存在が揺曳する。彼女は理想的な女性像として、一見すると描かれるが、さかえや妙子、佐山、そしてかつての恋人などによって存在をかき乱される。自分はどういう存在なのか?彼女は一個の独立した登場人物ながら、作者とイコールではない。とすれば、何となくミハイル・バフチンポリフォニーを思い起こす。市子は理想的な女性像のように描かれるが、必ずしもそれは絶対ではない。かつての恋人を見ると彼女は、処女のまま結婚しなかったことの罪悪感に苦しむ。さかえは、市子に対して神のような理想像を抱くが、市子が人間の女性であることを体験していくと、彼女に落胆し、その落胆に市子は不快になる。このように、多くの登場人物により、市子の存在は揺らぐ。しかし、特に市子をかき乱すのはさかえだろう。

さかえによる関係する者たちへの揺らぎ

友人の娘である、大阪生まれのさかえは、『女であること』において強烈な印象を残す。川端康成が創造したキャラクターの中では、『みずうみ』の桃井銀平を凌駕するほど、人の心をかき乱す、唯一無二の存在感を放っていた。さかえは息を飲むほどに美しい女性である。しかし彼女は、どんな人間に対しても、自分の感情をなげうつ。その感情が跳ね返されることを承知でなげうつのだ。承知の割には、その跳ね返されることにさかえは衝撃を受けてしまう。私はさかえの描写を読むと不安になる。彼女の感情のなげうつ様は、必ず相手を不穏な心理に陥れるからだ。だから彼女が出てくる度に私は穏やかでない気持ちになるが、一方で、さかえがもたらす不穏は、ホラー映画を見る時のような「怖いもの見たさ」の感情を味わわせる。

さかえに愛される市子の揺らぎ

市子はさかえに愛されるが、それは市子に理想的な女性像を見るからだ。しかし市子とて、神ではない。人間ゆえに、食事もするし眠るし人を恨んだりするしセックスもするし生理もくる。しかしそれでもさかえは、市子を神のように崇める。体験的に、その行為が無駄で、市子が人間であることを知ったとしても、さかえは市子を愛する。

だが徐々に、さかえは市子に不快さを覚えられるようになっていく。特にさかえは、他の登場人物にうちあけたように、市子の夫・佐山に興味を持つ。市子に対するほどの強い思いとはいえないが、神ではなく女であり、更に市子から不快さを覚えられるようになったさかえは、佐山に愛を抱くようになる。市子を通じて佐山を愛するようになったとさかえは言っているが、どこまで本当なのか。彼女は一貫して、「女であること」の究極の存在である市子を思っていたように思う。しかし、さかえによって、特にその存在が揺らいでいく市子は、神ではなくなってしまう。

殺人者の娘・妙子の激情

さかえと共に、忘れられない女性は妙子である。彼女は、殺人者を父に持つ娘である。人権派死刑廃止論者の佐山に引き取られ、市子に愛されながら生活している妙子は、さかえが佐山の家に来るまで、それなりに幸せな生活を送っていた。だが、市子の登場で、さかえの存在は揺らぐ。自分は殺人者の娘であることを忘れてしまうほどに、満ち足りた生活を送っていたが、所詮は殺人者の娘なのだ。

さかえは妙子の中にある激情を見抜く。さかえは、妙子がさかえを殺そうと思ったことがあるということを看破した。そんなことはないと否定する彼女に、しつこく言及する場面を持ったさかえは不気味だが、穏やかに見える妙子が実は激情があるというのは確かなことだ。確かに彼女は、さかえほどに、感情を相手に差し向けるほどではない。しかし、後半、同棲することになる恋人に執着する様は激情というよりは陰湿な欲望の表現という程度のものだ。だが、妙子は言葉に表さないだけで、行動には激情を持っている。

さかえに見抜かれる妙子の態度、佐山・市子夫婦の家を突然に出奔すること、そして恋人と同棲すること、同棲して佐山の家に戻れないでいることなど、一貫するほどの激情がある。

女であることは不安

『女であること』は、「女であること」の哀しみ、喜び、孤独、美しさにより、4人の登場人物の存在が揺らいでいく物語だ。市子は作者の意思を伝える人形ではない。他の登場人物により、「女であること」の感情を引き出され、自分はどんな存在(アイデンティティ)なのかと苦悩する。だがそれは、市子に限らず、さかえもそうだし、妙子もそうなのだし、佐山という男ですら、そうなのだ。結局、「女であること」とは、この4人にとって、どうなのだろうか。延々と続く不安でしかないことを本書は明らかにしているように見える。