好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 愛の渇き 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

陳腐で退廃的な美を描いた『愛の渇き』

『愛の渇き』というややセンチメンタルなタイトルの小説は、三島由紀夫の作品の中で傑作でもなければ、駄作でもない。とりたてて褒めるべきところも多くないので、凡作というべきなのだが、それでも読後の感想は悪くない。それは悦子という未亡人が舅との性的関係を築くということ、そして未亡人が園丁に恋をするということ、最後に園丁を未亡人が殺害してしまうことなどによる、陳腐だが退廃的な美に快楽を感じるからだろう。

【書評】 郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 著者:東浩紀 評価☆☆☆★★ (日本)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

『郵便的不安たちβ』は東浩紀の90年代の仕事を収めた評論集

評論家・作家である東浩紀の評論集。90年代の主要な文章を収める。東といえば『存在論的、郵便的』が有名だが、最近は何をやっているのかサッパリ分からなかった。本書を概観してみると哲学に関する文章、文芸そして文化、サブカルチャーに関する文章が並ぶが、面白いのは哲学もしくは哲学用語を使った文章である。東は哲学だけではなくアニメも好きなのだろうが、彼が書いたアニメに関する文章を読むと面白いのもあるし、つまらないのもある。つまらないのはアニメに寄り過ぎている文章だ。これは無理しているな…と感じる。

東浩紀は哲学が好きだろうし、哲学と接してこそ良い文章を書ける人だ。今更言っても仕方がないが、大学に籍を置きながら、哲学用語を用いて文化を批評していた方が良かったんじゃないかと感じる。あるいは『存在論的、郵便的』のように哲学だけを論じるとか…私は本書を読んで、改めて、『存在論的、郵便的』のような著作を、彼には再び期待したいと思った。

「郵便的不安たち」

本書には多数の評論もしくは講演、インタビューなどが収められているが、私が一番好きなのは、表題にもなっている「郵便的不安たち」である。これは彼の代表作『存在論的、郵便的』の発刊記念の講演である。それゆえに著者は、『存在論的、郵便的』で使われた概念「コンスタティヴ」「パフォーマティヴ」に言及する。

「コンスタティヴ」は「言葉や文章が文字どおりの意味を指し示す働きを意味」する。だから、例えば私が誰かに対して「君はバカだ」と言ったらそこでは文字どおり、「君はバカだ」という事実がこの文章によって指示されている訳である。一方、「パフォーマティヴ」は「修辞や言い回しの力のこと」である。例えば私が誰かに対して「君のことが好きだ」と言っても、その行為によってその人をバカにすることもできる。

しかし、書かれた文章そのままを受けとってもらうことができず(つまりコンスタティヴ的に読まれない)、違う意味で受けとられてしまう(パフォーマティヴ的に読まれる)という現象が普遍性を持っているかのように書かれると、理論優先で現実を見ていないように感じる。文字や音楽や映像が本来持っている「意味」の力が社会的に保証されないとも言っているが、本当にそうなのか?それこそ、自分の書いた文章に立ち止まって考えて欲しいものだが。

なぜ東は哲学、文芸、あるいはサブカルチャーを横断したのか?

また、この評論では東浩紀がなぜ哲学・文芸・サブカルチャーを横断したのか?が書いてあるように思えるので、大変興味深い。

東は、ラカン象徴界というキーワードを用いた上で、現代社会においては象徴界の力が衰えているという。彼によれば、象徴界というのは、「言語的コミュニケーションを成立させる場」のことで、具体的には「社会的制度や国家」のことを指す。その象徴界の力が衰えている。哲学は、かつて世界全体の上に立つメタ理論で、大衆もそれを求めていた。しかし象徴界の力が衰えたことで、上向きの超越論が難しくなった。つまり哲学が多くの人からの関心を得られなくなった訳だ。

東はそのように現代社会を分析した上で、「象徴界なしのコミュニケーション、上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」を考えるべきだと提案する。これを、実践したのが、著者自身だというのは、哲学に限らず文芸やサブカルチャーにまで手を広げた、彼の活動が物語っているだろう。

後の方で彼は、社会という後ろ盾がない新しい言葉の力を目指すべきだと言っているが、よく分からない。それは横に突き抜けるような言葉の可能性を目指すことだといい、それがまさに東の実践なのだろうが、私が東を「何をやっているのかサッパリ分からない」と言ったように迷走しているように思う。東は哲学研究に活動のスタートを切った。それは成功したが、文芸やサブカルチャーに寄り過ぎた彼の作品は決して面白いものとは言えない。斎藤環みたいに、精神分析や哲学の用語を用いて文化を語りつつ、立ち位置は相変わらず医師のまま、という方が東が言う横に突き抜ける言葉の可能性を実践できたということになるのではないか…?

平野啓一郎作品をオタク作品と同列視

尚、この「郵便的不安たち」では、作家の平野啓一郎のことが悪く書かれていて面白い。平野が芥川賞を受賞して華々しくデビューした頃の評論ゆえに、著者の皮肉が効いている。例えばこんな風に(カッコ書きは私)。

彼(平野啓一郎)はボードレール三島由紀夫を独自のやり方で読み、勝手に答えを出し、しかもそれを公表し恥じることがない。

パフォーマティヴ的に、本当は「平野、お前少しは恥じろよ」とでも言いたげな文章につい笑ってしまう。東浩紀にかかると平野啓一郎は、「形而上学的」志向を持ったオタク作品と同列視されてしまっている。

「棲み分ける批評」を読んで思う横断の虚しさ

「棲み分ける批評」、これは著者の初期の評論。加藤典洋浅田彰福田和也など著名な評論家の名前が出てくるが、言っていることは「郵便的不安たち」と同じ。アカデミズムとジャーナリズムでは話が噛み合わないので、横断する新しい言葉が必要だというもの。加藤典洋が文芸批評の特権性を信じているというのは、加藤ならありそうだな…と思って笑った。文芸批評は、私には非論理的な芸術に読めるので、小説と同様に感覚的に読めばいいので、特権性は剥奪すべきだということ。だから横断する必要もない。

特権性をいまだに信じている加藤のような人には、「文芸批評には特権性はない」と指摘するしかないだろう。

哲学も同様で、もはや特権性はないので、地味に哲学を研究し続けてもらう他にないというだけだろう。経済学や経営学などの実学も、哲学よりは人目を惹くが、その程度の相対的なものである。世の中の上に立つメタ理論は存在しない。それは分かるが、哲学・文芸・サブカルチャーが乱立している現代社会については、それぞれの個性を認めてあげればいいだけのことだったんじゃないか。横断なんてしなくて良かったんじゃないか。そう思う。

【映画レビュー】 ハッピーエンド 監督:ミヒャエル・ハネケ 評価☆☆★★★ (オーストリア)

longride.jp

『ハッピーエンド』は『愛、アムール』の続編的な作品

ミヒャエル・ハネケの新作『ハッピーエンド』は、家族をテーマにした映画だ。裕福で伝統的なフランスの家が舞台。父ジョルジュをジャン=ルイ・トランティニヤン、娘アンヌをイザベル・ユペール、息子トマをマチュー・カソヴィッツが演じる。孫娘エヴ役のファンティーヌ・アルドゥアンは、小柄ながら、人生の悲哀を透徹したような表情が印象的な美少女だった。このまま順調に綺麗になれば将来が楽しみな女優になりそうである。尚、父をトランティニヤン、そして娘をユペールが演じるというのはハネケの前作『愛、アムール』と同じ設定。そして物語が進むと、老父(トランティニヤン)の唇から「病弱の妻を殺した」という告白が漏れる。まるで『愛、アムール』の続編のような台詞に、ハネケファンはゾクゾクさせられることだろう(しかし、ファン以外の人にとっては「どうでも良い」か、「過剰な演出」と思われるかもしれない)。

ユペールはフランスの大女優といった貫禄が凄い。世界3大映画祭の女優賞を全て制覇したり、モスクワ映画祭を受賞したりするなど実績も十分だ。ハネケ作品の常連でもあり、ヴァーホーヴェン監督作『エル』の演技も高く評価されている。トランティニヤンはヌーベルバーグの監督作、そして『Z』などが有名だが、『男と女』の出演が特に印象的だろう。トランティニヤンは画面に出ているだけで、観客の目を一心に集めてしまう、そのたたずまいに圧倒される。

中盤まで退屈ながらもハネケらしい毒気は見られた

『ハッピーエンド』は家族をテーマにした映画である。演出は緩慢なので、中盤までかなり退屈なのだが、エヴが父トマ(カソヴィッツ)に、「トマが不倫しているのを知っている」と告げることから少しずつ面白くなる。ハネケらしい毒気が見えてくるからだ。エヴは物語の序盤で、ハムスターを薬で殺害したり、祖父ジョルジュ(トランティニヤン)との会話の中でも、気に入らない同級生に薬を盛ったことをが判明したりする。彼女はその行為について、笑ってごまかしたり、あるいはひらきなおったりすることなく、淡々と述べる。この淡々さが不気味で、エヴが『ハッピーエンド』という物語の中核的な存在というにふさわしいことが分かるだろう。

もうひとつの毒気としては、ジョルジュ(トランティニヤン)の告白だろうか。ジョルジュは一体、どういうつもりで孫娘のエヴに「妻を殺した」と言ったのだろうか。彼はどうやら、少し痴呆症のように見えるが、告白の時のまなざしは真剣である。「I Love JAPAN」のTシャツを着た孫娘エヴに、ジョルジュは厳しいまなざしを向ける。「なぜ、薬を盗んだのか?」と聞くジョルジュ。エヴは薬を飲んで自殺未遂を図ったからだが、エヴはさらに「気に入らない同級生に薬を盛った」ことを告白する。ここにはジョルジュの痴呆症的な行動は見られない。彼は至って健康に見える。その健康さがかえって、「妻を殺した」とエヴに告げた時の恐ろしさに繋がる。

多面的視点の失敗、そして主人公の不在の物足りなさ

主人公が不在のように見える『ハッピーエンド』は、視点をどこに置いて良いか分からず、物足りない。

『ハッピーエンド』は群像劇的で、複数の登場人物が乱立する。だが視点はさほど多面的ではなく、ジョルジュ、アンヌ、エヴの視点くらいが見られる程度だろうか。といってもアンヌの視点はやや弱く、アンヌの視点が強まるのは彼女の実子ピエールに対する時くらいか。ジョルジュは出演シーンが多いというほどではないのに、行動や台詞が特異で観客の関心を喚起し続ける。エヴは特に行動の印象が強いようだ。

キャストの序列ではイザベル・ユペールが最初にきている。ゆえに、ユペール演じるアンヌが主人公のように見えるが、意外と彼女は重要な役割を担っていない。先にも書いたようにアンヌの印象は弱い。ジョルジュとエヴは強いが、二人は主人公なのか。群像劇であれば主人公がいてもいなくても良いだろうが、それにしてはジョルジュとエヴ以外のキャラクターに課せられた個性が弱い気がする。主人公をジョルジュとして、彼の視点で物語を見ても良かったのではないか?そうなると『愛、アムール』そのままになってしまうのを恐れたのか?エヴが主人公でも良い。アンヌを主人公とするのであれば、彼女の視点で物語を観察する場面が欲しいし、彼女にはもっと重要な役割を担って欲しい。例えば、父ジョルジュのように海に向かって車いすを動かすとか・・・

スマホやPCの扱い方が退屈だ

スマホやパソコンなどの扱い方が退屈だ。冒頭、スマホでアンヌを撮影している者が現れる。だが、誰なのかは分からない。カメラいっぱいにスマホの画面が映っているので、カメラをフェードアウトするのかと思うが、そうはならない。次のシーンに移ってしまうのだ。PCも同じで、誰かと誰かがチャットしているがPCのキーボードを入力しているのは誰なのかが映らない。だが、こういう主体のはく奪は、どれほどの意味があるのか。どうやら、何かしらの意味があるように、撮られているのだけれど、その「意味ありげ」の演出が鼻もちならない。

今回のハネケはどうにも凡庸で中途半端な出来だった。映画のラスト、ジョルジュがエヴの助けを借りて海に車いすごと入ってしまうが、どうでも良い結末だと思う。それをスマホで撮影しているエヴにも、陳腐さしか感じられないが、それはジョルジュにではなく、あるいはエヴにでもなく、監督のハネケに対する陳腐さだ。

【書評】 ケインズとシュンペーター 現代経済学への遺産 評価☆☆☆★★ 著者:根井雅弘 (日本)

ケインズとシュンペーター―現代経済学への遺産

ケインズとシュンペーター―現代経済学への遺産

ケインズシュンペーターについてのエッセンス

20世紀の経済学者・ケインズシュンペーターについての本。著者の根井雅弘は京都大学院教授。ケインズシュンペーターについての一般書は、以前に吉川洋の『いまこそ、ケインズシュンペーターに学べ』で読んで面白かったので、類似の本がないかと探していたら本書に行き当たった。結果、吉川洋の『いまこそ、ケインズシュンペーター』ほど丁寧ではなかったのと、引用が多く読みづらかったので、物足りなかったけれども、本書もなかなかの佳作であった。ケインズシュンペーターについてのエッセンス、そして両者の接点については学べると思う。

rollikgvice.hatenablog.com

吉川洋ケインズシュンペーターの「総合」を評価する

「短期では需要」「長期では供給」という二文法が正統派経済学では重要視されていたが、著者は、吉川洋を引き合いに、イノベーションが成功するか否かは需要面と深く関わっているという事実があると指摘する。ケインズ経済学が「短期理論」でシュンペーター経済学が「長期理論」という区別は的を外しているのでは?と疑問を投げかけるのだ。その上で吉川の「短期では需要」「長期では供給」という二文法(つまり正統派経済学の二文法)を打破しようとする試みを、著者は高く評価する。もっとも、吉川の『いまこそ、ケインズシュンペーター』にも書かれていたように、二人の経済学者の「不況」に対する捉え方が全然異なるので、その点には注意しなければならない訳だが。

著者いわく、「シュンペーターは、三〇年代の大不況のときにも、それを経済システムの「適応過程」として静観するような人だったのである」。

著者のオリジナルの提案も知りたいところ

本書の意図するところは、ケインズシュンペーター、あるいは現代主流のマクロ経済学に代わる、新しい「提案」ではない。ケインズシュンペーターという、20世紀に活躍した天才経済学者について、著書を緩やかに辿りつつ、「マクロ経済学のミクロ的基礎」の如きマクロ経済学の主流だけでいいのか?と、若干の疑問を差し挟む程度に終わっている。「じゃあ、その先は?」というと、吉川のケインズシュンペーターの「総合」のような提案があることには触れたが、著者自身の提案は書かれていない。是非、著者のオリジナルの新しい提案も知りたかったところである。

現代主流のマクロ経済学への違和感

私が今更、20世紀の二人の経済学者についての本を読むのは、著者が本書の最後に述べたように「一世紀に一人か二人しか出ないほどの天才的経済学者の「思想」は、そうたやすく死ぬものではない」から、読んで、知ろうとするのである。また、別の理由もある。吉川洋の本を何冊か読んでいて、現代主流のマクロ経済学について違和感を抱いたからだ。吉川は『デフレーション』という一般向けの本の中で、「現実の経済とは何のかかわりも持たない知的遊戯に変わってしまった」と手厳しく現代マクロ経済学について評していた。尚、著者も、本書で以下のように述べている。

現代の主流派経済学がケインズシュンペーターを乗り越えてしまったと自惚れているとしたら、とんでしっぺ返しを食う恐れがないとはいえない。すでに触れたように、わが国を十年以上も苦しめた平成不況は、ケインズの「有効需要の原理」やシュンペーターの「イノベーション」のような遺産を活用せずには解明し難いものであった。

本書『ケインズシュンペーター』が発刊されたのは2007年。未だ、しっぺ返しは未だ起こっていない。その1年後、リーマンショックが起こった。この年のこの出来事に、著者の不安が的中したように見えた。それでも吉川洋の前掲の『デフレーション』によれば世界中で知的遊戯は、変わらず、主流のようだ。

【映画レビュー】 相棒・劇場版IV 評価☆☆★★★ (日本)

『相棒・劇場版4』は、テレビ朝日のドラマ版で有名な『相棒』シリーズの劇場版。主人公・杉下(水谷豊)と、4人目の相棒である冠城亘(反町隆史)との警察ミステリーである。私は、劇場版を1作目から見ているが、本作がいちばん印象に残らなかった。キャストにはあまり不満はないが、物語が面白くなかったと思う。「国に見捨てられた男」の物語は、戦後から現代に至るまでの悲劇で、悲劇性が弱いのか、共感を覚えなかった。テーマそのものはうまく料理すれば面白くなったはずなのだが…

トリックもいまひとつで、警視庁内部に犯人が入り込んで、犯人が落としたUSBを伊丹刑事が間違ってPCに挿入してウイルスをバラまくとか、「そんなことあるのか!?」という感じ。伊丹刑事は懲戒ものじゃないのか。事情があるとはいえ、杉下が犯人を警察に銃撃させまいと、犯人をかばって警察に撃たれるんだけど…意味がわからない。

えりかという、「国に見捨てられた少女」もいるのだが、えりかも警察の目をうまくかいくぐって脱走しちゃうし…そんなに警察ってアホなのかなぁ…と不思議だった。詰めが甘い脚本なのだろうな。