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【書評】 豊饒の海 第一巻 春の雪 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (日本)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

三島由紀夫最大の作品『豊饒の海

今回紹介する『豊饒の海』は、三島文学の最大の作品であり、しかも最後の作品である。全部で四巻の大著である『豊饒の海』の最後の原稿を書き終えた後、三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自決している。

私は10代の頃から三島由紀夫の死について関心を持ち、彼の芸術よりも一層、三島の死に注目していた。その頃は『金閣寺』『仮面の告白』くらいの作品しか知らなかった。確かに作品も良いが彼の死に様がどうにも人工的で、それゆえに自身の死を芸術作品にさえ見立てるイメージが私につきまとい、三島は私の中で伝説的な存在となっていた。

だが20代になり三島由紀夫の小説を本格的に読み始めると、彼の死の芸術性は現前しながらも、小説に秘める芸術性にこそ私は惹かれるようになった。だから『豊饒の海』を今まで読んでこなかったのは、何か理由があってのことではない。単に大長編だったから読む機会を逸したというに過ぎない。

しかし、『豊饒の海』の第一巻である『春の雪』を読んでみると、これまでずっと読んでこなかったことが悔やまれた。それほどに、三島の研ぎ澄まされた言葉の感性、そして物語のパズルのピースを埋めるかのような構成の論理性に心打たれる思いがした。

『春の雪』はエンターテインメント性に溢れた芸術作品

三島由紀夫は多くの長編小説を書いた。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』『禁色』『鏡子の家』など著名な作品から、『夏子の冒険』『お嬢さん』『命売ります』などのエンターテインメント作品まで幅広い。私は35歳を過ぎるまで三島のエンターテインメント作品には触れてこなかった。その理由は単に三島由紀夫の本領は、非エンターテインメント作品にあると思っていたからだ。

しかし、『春の雪』を読んでみると、作者の漢語の教養が表れる唯美的な文体や、皇族や侯爵などのたおやかな描写、明治大正の青年の凛々しくも儚い心情が描かれる一方で、「許されぬ恋」を魅力的なキャラクターを元に丁寧に描く物語の展開は目が離せない。エンターテインメント作品におけるはっきりとした起承転結が、『春の雪』には強く描かれているのだ。

だから『春の雪』は、芸術作品であることは紛れもない事実でありながらも、頁をめくる手を止められないほどのエンターテインメント性に満ちた魅力あふれる作品なのである。『春の雪』だけでも新潮文庫版で450頁を超える長大な作品で、これがあと三巻も書き継がれたのだから、三島の物語の構成力、展開力には舌を巻く。

潜在的な愛の露見

『春の雪』は、松枝清顕(まつがえ・きよあき)という19歳で侯爵の息子が主人公。清顕は学習院に通っているが、戦前の学習院は皇族や華族、資産家の子息などが通う学校で、清顕の友人も身分の高い者が多い。

副主人公にあたる本多繁邦(ほんだ・しげくに)も裁判官の子で、男性の中では本多が清顕の唯一の理解者にあたっている。清顕には聡子という年上の幼馴染がいて、子どもらしい誤解から彼女を遠ざけていた。聡子の方では清顕を愛しておりそれを彼も自覚しているのだが、それゆえにこそ遠ざけたりする。そんな様子も本多には打ち明けているが、清顕は本多以外の友人には心を打ち明ける素振りを見せない。「唯一の理解者」といえるゆえんである。

ある時、聡子が皇族の宮に見初められ、清顕の父が清顕に「構わないか」と確認に来るが清顕はそれでも構わないと言う。この時まで彼の中では、聡子は運命の女性ではなかったのだが、自分の手を離れて宮の妻になることが分かる(納采の儀を待つだけになる)と、彼女を愛するようになる。

尤も、清顕の聡子に対する愛はおそらく潜在的に存在していただろうが、絶対に届かない存在になる可能性が高まることで、聡子への愛に気づくといったところだろう。聡子への愛は潜在していたが露見したということだ。

豊饒の海』は夢と転生の物語

聡子への愛を自覚した後の展開は「昼ドラ」のようなどろどろした物語の展開を見せる。ふたりは、誰からも知られてはならぬ「許されぬ恋」を演じる。誰にも目につかない場所で逢引きをする聡子と清顕の情交は、エロスをほのめかす表現で留められながらも、むしろ具体的に性愛を描写しないからこそ、ふたりの吐息が感じられる官能的なシーンになっている。

聡子は年上の女性で、宮に見初められた身である。皇族の恩恵を受けて、長年生きてきた家系の娘である。それゆえに宮との結婚を優先し、清顕に諫める立場にありながらも、清顕との情交をやめることができない。

最終的に、聡子は妊娠までして、清顕と聡子の家族は狼狽するのだが、家族は愛よりも体面を重んじて聡子に堕胎させ、宮との結婚を破断にさせまいとする。しかし聡子は立ち寄った奈良の寺院で剃髪してしまい、二度と俗世には姿を見せないことを誓う。すなわち、清顕との愛も諦めるのだ。

最後は、清顕は聡子を追い求めて何度も寺を訪れるが、聡子は頑なに会おうとしない。既に出家した身の上ゆえに会わない訳だが、この徹底した俗世との隔絶が聡子の閉じられた愛の”歪な”完成形であり、聡子の愛の思念の中に、清顕が入る余地はなかった。

最後、本多に遺言をのこして死んでいく清顕は、「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」と言ってのける。本多は本気にしないが、『豊饒の海』は夢と転生の物語であり、清顕との邂逅はおそらく現実のものとなるであろう。それはまた、二巻に任せるとしよう。

存在感に溢れるキャラクター

『春の雪』に登場する人物は、主人公の松枝清顕とヒロインの聡子を中心に、強い存在感を持っている。清顕の友人の本多繁邦、清顕の教育係で書生の飯沼、聡子の召使の蓼科、清顕の父である松枝侯爵、清顕の祖母、シャムの王子などの誰もが強い存在感を持つ。尤も、この存在感は、小説を読む私に真に迫ってくる存在感の強さであって、これらの人物がおしなべて強い個性を有しているという意味ではない。

特に私が気に入ったのは清顕、飯沼、蓼科である。清顕は体を鍛えない代わりに、美青年で周りから「若様」ともてはやされている。聡子を執拗に愛することだけが、彼に託された使命であるかのように、彼は愛を貫徹するために徹底し命を賭す。魔に憑かれたかの如く聡子を求める姿は異様で、学習院の卒業試験を前にして、この男は生き続けることはなかろうと思うと、本当に命が尽きて病死している。

飯沼は『豊饒の海』の第二巻にあたる『奔馬』の主人公の父にあたる人物だ。物語の当初は、陰気で清顕を軽視しているが次第に愛敬の念を抱くようになる。みねという女中と恋愛関係になった科で屋敷を追い出されるが、若様である清顕に対する尊敬は消えることがなかった。朴訥で何を考えているか分からない飯沼が清顕に対する尊敬、そして後に煽情的でジャーナリスズム的行動に移る様などが興味深い。

蓼科は聡子の召使だが、飯沼が女中と恋愛関係にあることを松枝侯爵に密告したり、清顕と聡子の不義の関係を侯爵に報告した末に自殺未遂を企てたり、エピソードには事欠かない人物だ。

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『ボヘミアンラプソディ』を見る

ボヘミアンラプソディ』をうまく語れない

映画『ボヘミアンラプソディ』について、レビューをしようと思ったが、なかなか筆が進まない。その理由はクイーンに評価を付けたくなかったからだろうか。あるいは、『ボヘミアンラプソディ』の熱狂に湧いている現状に水を差したくなかったからだろうか。どちらの理由も間違いではない。しかし、もう少し言葉を付言すると『ボヘミアンラプソディ』は良い映画とは思えなかったが、使われている楽曲すなわちクイーンの曲については相変わらず良かった訳で、そう考えると『ボヘミアンラプソディ』をどう評価して良いか分からなくなってしまったからだ。

ボヘミアンラプソディ』のラミ・マレックの前歯が気になる

ボヘミアンラプソディ』を見ていて思ったが、私はクイーンが相変わらず好きだし、特にボーカルで作詞・作曲を兼ねるフレディ・マーキュリーが好きだということである。

だからこそ、『ボヘミアンラプソディ』でフレディを演じた主演のラミ・マレックは、フレディ・マーキュリーとは似て非なる者であったことが気になった。ブライアン・メイロジャー・テイラーを演じた俳優が、本人とうりふたつとさえ言い得るにもかかわらず、ラミ・マレックだけが似ていないと感じたことが気になった。ジョン・ディーコンを演じた俳優もラミ・マレックよりは本人に似ていた。

フレディ・マーキュリーは前歯が出ていたが、ラミ・マレックはいかにも偽物の歯を付けていて、明石家さんまのモノマネをする原口あきまさを思い出してしまった。この映画はもちろん、ギャグ映画ではないのだが、私にはラミ・マレックがギャグにしか見えなかった。どうしても前歯が気になるのである。

だが、最も気になったのは、ラミ・マレックの歌がフレディ・マーキュリーの吹き替えだったということだ。マレックは劇中で歌わない。これには私はむなしさを覚えた。やっぱりフレディの声は誰にも演じられないものなのか。そう思うとこの映画を見るよりも、YouTubeでクイーンのビデオを見た方がマシにさえ思えた。映画のラストで「ドントストップミーナウ」が動画が流れた時に、ライブエイドのシーンよりも感動したのは、クイーンの本物の姿が見られたからである。

ボヘミアンラプソディ』はフレディの自伝的映画

ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画であるが、照準はボーカルのフレディ・マーキュリーに当てられているのでフレディの自伝的映画といえるだろう。フレディは自分のセクシュアリティや、アーティストとしての感性などが理由でバンドに対して亀裂を生じさせる。ロジャー・テイラーはフレディに突っかかるが、ロジャーの視点でバンドへの亀裂を描くというよりは、フレディの視点にロジャーが入ってくるという描写である。

映画はライブエイドの成功で幕を閉じるが、どうしてもそういう結末にしたいために史実を曲げた。すなわちフレディが、自身がエイズに罹患していることを知るのがライブエイドの後であることが史実なのに、映画はライブエイド前に知っていたことにする。それによってフレディがなかなか声量のある声が出ずにいて苦悩するというシーンが感動的なものになるし、バンドがフレディの病気を軸にして結束するシーンにも繋がる。

映画はフレディを中心に周り、フレディと共に終わる。ライブエイドのライ・マレックはなかなか良かった。原口あきまさを思い出させなかった。前歯が気になるのは、マレックがしゃべったり、口を閉じたりしているシーンが多いので、ライブなら前歯が気にならなかったのである。それと、マレックの力強いパフォーマンスは、彼の小柄な肉体、フレディよりも短く見える脚などの欠点がありながらも、クイーンという力強いバンドのボーカリストを演じる俳優然としていたと思う。それでも、彼の歌声は吹き替えなので、感動するかというとそうでもなかったのだが。

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」だ。クイーンを力強いバンドに仕立て上げているのは、フレディの力があるからである。ブライアン・メイのギターもロジャーのドラムもジョンのベースも、力は感じるが、クイーンはバンドで歌が主役だ。その歌い手がバンドのイメージを決定づける。それは、力だ。フレディを演じたラミ・マレックがフレディと違うなと思うのは、マレックに力を感じなかったせいだ。歌声をマレックが吹き替えたのは、フレディの声を似せるのが困難だったのだろうが、所詮は偽物という印象を持ってしまった。

フレディ・マーキュリーの身長は177センチでそう高くはなかった。バンドメンバーでは一番身長が低い。といっても、ブライアン・メイ以外の身長は似たようなものだが、ギタリストのブライアン・メイは190センチ近くある。明らかにメイの方が大きいのだが、力は身長からもたらされるものではない。クイーンはバンドで歌が主役なので彼の力の源は歌声からもたらされる。

代表曲「ボヘミアンラプソディ」「ショウマストゴーオン」「ウィウィルロックユー」「ドントストップミーナウ」などから感じられるフレディの力強い歌声は感動的である。私は彼らのビデオをいくつか持っているが、なんだか、見ているだけで涙が流れていく。歌は言葉であるが、むしろ、歌は言葉であるよりも音楽である。だから、力強い歌声を聞いていると泣くというのは、音楽の持つ非言語的な力が私を感動させるという意味だ。

音楽の性質は不思議なもので、クイーンの曲を聞いていると、自分がフレディ・マーキュリーの力の源に触れているような感覚になる。クイーンというバンド名や、タイツを履いたフレディのパフォーマンス、フレディがバイセクシュアリティだったことなどから、女性的なイメージをフレディ・マーキュリーに持つかもしれないが、単に歌声だけを聞くと、フレディには強い力を感じる。

音楽は言葉でいくら表現しても、聞いてしまうとそれらの言葉がむなしくなる。どんなに言葉を尽くしても音楽を聞けば、全てが吹き飛んでしまう。クイーンというバンド名やタイツを履いたフレディのパフォーマンスやフレディのバイセクシュアリティなどは雑音となって消えてしまう。音楽は耳で聞く。あるいは目で見る。視覚と聴覚を使っても尚、音楽に付随した様々な雑音は音楽からずれ落ちていく。クイーンの魅力を感じるには聞くしかない。あるいは見るしかない。

クイーンと死

既に『ボヘミアンラプソディ』という映画から話がそれてしまっている。だが、もう少し続ける。フレディ・マーキュリーの魅力は力だといったが、それは即ち、クイーンというバンドの魅力でもある。当たり前のことだが、歌が主役のバンドにおいて歌い手の魅力が力なら、バンドの魅力もそれに伴った表現となる。

だが、なぜだか分からないが、クイーンの曲を聞いていると死を連想する。別に死にたくなる訳ではないし、フレディが45歳という三島由紀夫と同じ年齢で死んだからでもない。クイーンの魅力が力だと言っておきながら、死を連想するとは何たる矛盾かと思う。

クイーンの曲を聞くと生の源に触れた気がして、私は感動する。それと共に、生の対極にある死を連想し、私はむなしくなる。むなしくなるというとクイーンに価値がないようだが、そうではなく、クイーンの曲に死を連想するからこそむなしい訳だ。

フレディの熱量ある声が歌い終わった後の静寂に、私は生き物の限りある命を感じられてならない。クイーンの魅力が力であるゆえに、歌が終わることは力が尽きるような印象を持ってしまう。

ライブエイドをリアルタイムで見た人の話を聞いてから

ボヘミアンラプソディ』について、私はあまりリアルでは語りたくない。なぜかというと、私の周囲では『ボヘミアンラプソディ』を見て低い評価を付ける者がいなかったからだ。といっても、普段なら、映画について意見が違ったら、リアルでも議論したくなるが、『ボヘミアンラプソディ』についてはリアルでは議論できない。私がこのブログで、ここまでに書いたようなことをリアルでは言いたくないのだった。

それは、『ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画だからで、その映画について批判めいたことを言うことが私にはできないからだ。『ボヘミアンラプソディ』はクイーンを語った映画だから、『ボヘミアンラプソディ』への批判的な言葉がクイーンへと繋がるような気がしてしまう。それは錯覚なのだが、私はそこまでクイーンを自分と切り離して捉えることができない。私の中ではクイーンは、あまり客観的に見ることができない存在なのである。

ある人と電話で話した時に、『ボヘミアンラプソディ』の話になった。その時、その人はライブエイドをリアルタイムでTVで見たと言っていた。私よりもだいぶ年上の人なので、見ることはできる。しかし、それは、一瞬のできごとだった。「そうなんだ!すごいね」と私は言った。話はそこで終わった。しかし、電話で話した後に1人になると涙がとめどなく流れた。

私は時折、クイーンのビデオを見て、フレディ・マーキュリーはこの世にいないという感覚にとらわれることがあるが、この時は電話が引き金だった。私はフレディがこの世にいないことへのむなしさを痛感していた。

おわりに

今回の文章は、日記にでも書いて誰にも見せずにおくべき文章のような気がする。書いていて気恥ずかしい思いがした。それだけ、私の人生にとってクイーンは大きな存在だったということが改めて分かったが、『ボヘミアンラプソディ』という映画の最大の魅力は、そこにあると思う。

どれだけラミ・マレックが巧みに演じようとも、声を吹き替えた時点で、私には遠い存在となってしまった。わりと映画を見て泣くことが多い私が、こともあろうにクイーンの映画で泣かなかったというのは本当に意外だった。

The Struts

The Strutsは英国のグラムロックグループらしい。YouTubeでおすすめに入ってきたので「Body Talks」というのを聴いたら・・・すごかった。かっこよかった。もう100回くらい聴いた笑

ボーカルの見た目がフレディ・マーキュリーっぽいのも良い。ジャンルもグラムロックだから似てる。

バカっぽくて狂っていて、そこそこおしゃれで・・・ダサかっこいいというのかな?

良いなぁ。


The Struts - Body Talks ft. Kesha

ストーンズも認める注目の新星グラムロック・バンド「ザ・ストラッツ」とは | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

【映画レビュー】 ヴェノム 監督:ルーベン・フライシャー 評価☆☆☆☆★ (米国)

ヴェノム (字幕版)

ヴェノム (字幕版)

明るいユーモアが楽しい『ヴェノム』

『ヴェノム』はマーベルコミックを原作としたSFアクション。Sony Picturesの作品で、かつ、世界中でヒットしているという程度の理由で鑑賞したが、アクションの激しさと、コミカルさがほどよく調合されたユーモラスな作品で面白かった。

アクションとコミカルさに訴求ポイントがあるが、どちらかというと、『ヴェノム』の魅力は、迫力あるアクションよりも、明るいユーモアにこそあるだろう。ヴェノムというクリーチャーは、最初はヘドロみたいにグロテスクで、人間に危害を与えそうに見える。しかも、人間に憑依すると無数の牙をむき出しにしたエイリアンのようになる。ダークヒーローの映画かと思う。Sony Picturesの日本のキャッチコピーには、「マーベル史上、最も凶悪なダークヒーロー誕生。」とあり、残酷な映画なのかなという印象を持つ。

だが、そんなグロテスクな化物が主人公のエディ・ブロックと漫才を繰り広げてしまうから驚く。腹が減ったと言ってはそこらの食い物を食い漁り、悪い人をも食べてしまう始末。そのギャップが面白く、会場にも笑いが漏れていた。もちろん私も笑わされた。

ヴェノムの圧倒的存在感

ヴェノムのヘドロ的存在感は圧倒的で、一度見たら忘れられない。グロテスクでいながら主人公と漫才を繰り広げるユーモラスさが相まって、非常に気に入った。

ヴェノムは最初、単なるヘドロでしかない。形を持たないが人に憑依しようとする。しかしなかなか相性が合う人間が現れない。相性が合わないと人間は殺されてしまう。だから非常に不気味な存在として立ち現れる。見る者は少々おじけづく。こいつはとんでもない悪党だと。

ヴェノムははぐれ者でユーモラス

ヴェノムは不気味な存在で、見る者を怖がらせる。とんでもない悪党である。しかし、ヴェノムは、主人公のエディには憑依し彼を殺さなかった。その理由は、エディ同様、彼ははぐれ者だからだった。

はぐれ者同士でウマが合ったから、ヴェノムはエディを殺さない。殺さずに憑依し続けることでヴェノムはようやく人格を表す。それが前段のユーモラスさである。ヴェノムはエディと漫才を繰り広げる。また、ヴェノムは食いしん坊なので何でも食べる。エディに憑依できたことでその食いしん坊ぶりが露見する。エディが犬のように食い物にありつく姿はなかなか滑稽で面白く、ユーモアがある。グロテスクでいながらユーモラスであるヴェノムは、エディと表裏一体となることで、ようやくその魅力を表した。

『ヴェノム』はアクションとコミカルさが魅力だ。いかにもハリウッドのアクション映画という、異次元のハードアクションは食傷気味である。だが『ヴェノム』にはコミカルさがあるので、異次元のハードアクションも悪くない。映画を見終わった後に、少々、アクションシーンを思い出させるほどには悪くないだろう。

映画のラストシーン近くの戦闘は、スピードが早すぎて面白さがよく分からなかったけれど、街での戦闘シーンは丁寧な描写だった。戦闘の規模は小さくなるが、ヴェノムが憑依した後のエディと人間との戦闘もしっかり描かれていた。

悪役はミスキャスト

悪役ドレイクを演じるのは、リズ・アーメッドという男優。アーメッドは、パキスタン系のイギリス人で名門オックスフォード大学卒という輝かしい学歴を持つが、悪役を演じるだけの憎たらしさに欠けている。実験と称して殺人を犯すマッドサイエンティストなのだが、どうにもそうは見えない。賢そうには見えるが、科学の力で世界を豊かにしたいとでも考えてそうに見えた。悪役になりきれていなかったのだろう。どう見ても、マッドサイエンティストに殺されてしまう科学者にしか見えない。

窪塚洋介という狂った俳優への賛辞

レトロなゲームの中の窪塚洋介

窪塚洋介という俳優を初めて見たのは、映画ではなかった。セガサターンという古いゲーム機で出た『街』という実写ゲームに、彼は出ていた。『街』での窪塚洋介はテレビのAD役で、上司にこき使われるサギ山勇という、ふざけた役名の若者を演じていた。

実写といっても動画ではなく画像なので、演技といっても映画を見るように動きを捉えることはできない。ゲームの音楽と、テキストによって、ストーリーは展開されていく。窪塚はそこで脇役ながらも光るものを放っていた。それはテレビに映る彼の存在感だった。

SEGA THE BEST 街 ~運命の交差点~ 特別篇 - PSP

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『GO』で批評家からの評価も獲得

窪塚洋介はテレビドラマ『GTO』、そして『池袋ウエストゲートパーク』の怪演を経て、『GO』で批評家の評価も得た。日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞したのだ。日本アカデミー賞の権威がどうのこうのはあるが、とりあえず日本のマスコミの注目を浴びた。確かに、『GO』における、静かな湖水に波紋を呼び起こし続ける彼の演技は、人を惹きつけてやまない。かくして窪塚は、大衆的な人気を得ていく。

GO

GO

GO (角川文庫)

GO (角川文庫)


初期の窪塚は、演技は上手くはなかったが、持って生まれた個性が爆発的である。ゲームの『街』同様、窪塚の存在感は強烈だった。何か、彼がそこにいるだけで、見る者に、狂気を伝染させるかのような病巣的な存在感。これは年数を経て、窪塚の新しい演技を見ても変わらない点である。

さて、『GO』が公開されたのは2001年。その後『Laundry』(2002年)、『ピンポン』(2002年)、『凶器の桜』(2002年)、『魔界転生』(2003年)など、出演作が次々と公開される。しかし2004年、彼に転機が訪れる。例のマンション転落事故。2005年に『鳶がクルリと』で復帰したが、以前のように主演級の映画に出ることは少なくなっていく。

ピンポン

ピンポン

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13年後の表舞台

しかし、窪塚洋介という俳優はここで終わらなかった。久しぶりの表舞台は、事故から13年後。しかしその表舞台は、彼にとっては極めて輝かしい舞台だった。オスカー監督賞を受賞した経験のあるアメリカの巨匠マーティン・スコセッシの映画『沈黙』への出演だったからだ。それも、演じるのは難役・キチジローである。


私は思わずGoogleで「窪塚洋介 沈黙」と打って、Webの記事をたくさん消費した。彼の演技が賞賛されている記事を読むたび、喜んだ。アメリカで窪塚洋介よりもイッセー尾形の方が注目された時、「お前らどこを見てる」とすら思った。この感情をふりかえると私は、窪塚のファンだったのだと改めて感じる。

それから、窪塚洋介は海外映画へのチャレンジをしているようで、まだクランクアップされたのかどうかすら分からないが、とりあえずエリザベス・バンクスという女優が主演する映画への出演が内定しているらしい。しかし、いつ公開されるか分からない映画よりも、Netflixのドラマの方が窪塚の勇姿をいちはやく見られる。

それは『giri/haji』というヤクザ映画のようなタイトルのドラマである(英国ではBBCで放映)。タイトルの野暮ったさは気になるが、彼は英国で暮らす日本人を演じるらしい。兄役を演じるのは平岳大。平はブラウン大卒のエリートなので英語も堪能。窪塚は英語を勉強しているというが、どれほどか。早く見てみたい。2019年にNetflixで見られることを望む。

窪塚洋介の演技は人に不穏さ・不気味さを与える

窪塚洋介の代表作を考えると、何が思い浮かぶか。彼は多くの映画やテレビドラマに出ているが、それほど質の高い作品には出演していない。だから私は、『池袋ウエストゲートパーク』のキング役を挙げることにする。これはB級のミステリードラマだが、窪塚が演じたキングは薬物依存でもしているかのような狂気を帯びたトリッキーな男で、主役のマコトの影が薄くなるほどである。

池袋ウエストゲートパーク DVD-BOX

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ただ、窪塚は質の高い作品には出演していないが、演技は忘れがたい。品川ヒロシの映画『サンブンノイチ』(2014年)はB級映画だけれど、窪塚が演じた川崎の闇のボスは凄みがあった。ヤクザとか犯罪の世界に身を置いている者がスクリーンに出てきてしまったかのような不穏さを感じた。『サンブンノイチ』より2年前に公開された『ヒミズ』でもそれは感じた。

池袋ウエストゲートパーク』のキング役も、確かに見る者を不穏に感じさせる演技だったが、片っ方の足を闇の世界に置きつつ、光の世界=メディアに出演してしまうほどの不気味さは、キングには見えない。やはり13年という時の流れが、窪塚洋介を良い俳優に仕立てたのではないだろうか。

なお、13年後の表舞台『沈黙』は、映画の出来は芳しくなかったが、窪塚洋介の演技はきっちりと、脳裏に焼印を押されたかのように私の中に刻み込まれた。彼が裏切っても裏切ってもなお、神の元へすがろうとするリアリズムには瞠目させられる。

彼の狂気がついに、世界を動かしたのかもしれない。

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