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【書評】 告白 三島由紀夫未公開インタビュー 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

告白 三島由紀夫未公開インタビュー

告白 三島由紀夫未公開インタビュー

『告白』は死の9か月前に収録された三島由紀夫の未公開インタビュー

本書は三島由紀夫の未公開インタビューと、エッセイ「太陽と鉄」を収めたもの。「太陽と鉄」は三島らしい詩的なレトリックに満ちた文章で、ちょっと難解である。

インタビューの方は、1970年2月19日に収録された。このインタビューのテープは、TBSの元記者がTBSの社内倉庫で発見した貴重な資料である。テープが発見されたのは2013年なのだが、報道されたのは2017年。なぜこんなに時間が経過したかというと、専門家や遺族への取材に時間を費やしたからだった。

テープは1時間20分に及ぶもので、三島由紀夫と聞き手であるジョン・ベスターとのやり取りが行われていた。ジョン・ベスターは翻訳家で三島の「太陽と鉄」も訳している人物だ。英語が話せる三島だが、ふたりは日本語を介している。

1970年2月19日。これは何の日か。三島が自決したのはその年の11月25日だから、9か月前のことである。そして三島の最高傑作『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を書き上げた日にあたる。なぜそれが分かったかというと、三島がインタビューでそう話しているからだ。

インタビューの目的は、翻訳家であるベスターが「太陽と鉄」を訳したが、この作品について三島に確認したいことがあって実現したものであった。インタビューの内容を読むと、「太陽と鉄」に関わらず、三島の文学観や死生観などが率直に語られていて興味深い。また、「はっはっは」と豪快に笑う、三島の豪放な振る舞いがセリフのそこかしこに現れ、三島の愉快な一面を見たように思う。

このインタビューを読んで、清冽な感動を受けるとか、芸術家の感性に浸るとか、そういった感覚的な印象は強く持てないので評価は標準的としているが、三島由紀夫の作品が好きな人なら、決して素通りしてはいけないインタビューであろう。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

小説のマテリアルは言葉、そして漢文学の教養の大切さ

インタビューを読んでいて私が思ったのが、小説を書く上で、三島が言葉に強い思いを抱いていることだ。彼は「小説のマテリアルは言葉」だと言い切る。人生や思想は素材に過ぎないと。だが三島は、最近の日本の作家はそう感じていない。そういうところが他の作家と自分とを隔てる点だと言う。

私も三島由紀夫の熱心な読者だが、確かに彼の小説は言葉を大切に扱っている。言葉でしか小説を書き始めることはできないのだから、本来、言葉を大切に扱うことは当然なのだろうが、そのためには教養がなければならない。教養がないと言葉が書けない。そうなると畢竟、言葉を粗雑に扱うことになる。

三島の小説を読むと漢文学の教養があることに気づかされる。彼はインタビューで日本の学校教育の話になり、「漢文学の教養がだんだん衰えてきました。それで日本の文体が非常に弱くなりました」と言っていた。

三島はつまらなくても論語を暗唱させるなどして、日本人の頭の中に漢文を定着させることが大切だと言う。三島の小説の言葉から感ぜられる漢文学の教養の深みを思うと、教育において漢文学を強化することは重要な感じがする。

三島文学の欠点は「劇的すぎること」なのか

聞き手のジョン・ベスターは、大胆にも三島にあなたの文学の欠点は何か?と聞く。三島は「劇的すぎること」だと答えた。三島文学の特徴は、言葉は日本で構成は西洋である。三島が法学部卒の元官僚という背景からしても、論理性を愛したことは想像に難くない。

三島は最初から最後まで物語の構成の見通しを立ててから、小説を書くのであろう。それは、彼の小説の特徴でもあるが、「流れのままに文章になる」ことはできまい。それで三島は欠点だと指摘する。

私は三島から論理的な構成力を奪ったら、彼の文学の魅力はだいぶ乏しいものになると思う。それは彼も分かっていたことだろうが、流れるままに書けないことは彼の文学で「できないこと」なのだからもしかしたら欠点なのかもしれない。読者である私には、論理性は彼の文学の魅力なので、それを奪ってしまっては三島文学たりえないのではないかと思うのだが。

まあ恐らく、ベスターに「欠点は何か?」と尋ねられたから答えたまでのことで、日本文学の構成力の薄弱さを皮肉っているあたり、本気で自覚している訳ではなさそうだ。

三島の行動の意味を知りければ「太陽と鉄」を読め

三島由紀夫の小説は、ストーリーがしっかりしている。『豊饒の海』は謎めいているが、あれは特例で彼の小説の多くは難解なところは多くない。一方、三島の行動についてはつかめないところも多い。なんでこんな行動を取るのか。楯の会しかり、ボディビルしかり、奇妙な洋館しかり、映画出演しかり。そういった行動の意味をさぐるには、「太陽と鉄」を読めば良いのだと言う。

聞き手のジョン・ベスターが「太陽と鉄」を訳したこともあってか、彼は「太陽と鉄」を読めば行動の意味が分かるという。「太陽と鉄」は分かりやすい作品ではないが、三島の行動の意味を知るには良い素材なのだろう。

死生観の変化

『告白』というインタビュー中で最も重要な個所と思われるのは、以下のセリフだろう。

死の位置が肉体の外から中へ入ってきたような気がする。

三島はボディビルをやっていた。そのことで彼は、死が外側にあった。だがボディビル、あるいは武道などを通して肉体を作った。すると三島は、外側にあった死が内側へ入ってくる感覚を覚えたのだという。死生観の大きな変化を読み取ることができる。死を恐れなくなった自覚という気さえ起こる。それは、9か月後に迫る割腹自決を知っているからこその、邪推かもしれないのだが。

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【書評】 ミンツバーグ教授のマネジャーの学校 著者:フィル・レニール、重光直之 評価☆☆☆★★ (カナダ)

ミンツバーグ教授の マネジャーの学校

ミンツバーグ教授の マネジャーの学校

マネジメントの現場こそマネジャーの学校である

ある日突然、自分の会社が買収されたらどうしようか?尊敬している上司が辞めさせられ、そして強烈なリストラが起こり、新しく出向してきた上司は「コストカッター」で、社員の激しいモラルダウンを引き起こしていたら?誰だってどうしたら良いか分からず疲弊してしまうことだろう。著者フィル・レニールはそんな局面に遭遇した。困り果てたレニールは、母の再婚相手に助言を求めた。その再婚相手の名はヘンリー・ミンツバーグ。世界的に名高いカナダの経営学者だった。

義理の息子に、ミンツバーグの出した答えはこれ。「お互いの経験を振り返って語り合い、内省する時間を持つといいだろう。リフレクション、だ」というシンプルなものである。マネジメントの問題を解決するには、内省が必要だということである。

上記のミンツバーグのアドバイスと、ミンツバーグの著書『MBAが会社を滅ぼす』、そしてミンツバーグらが提唱していた国際マネジメント実務修士過程プログラムの資料を元に、レニールは会社のマネジメントを変革しようとする。当初は「マネジメントの勉強会」からはじめたが、遂にはマネジャーのマネジメント力を高めることに成功した。本書ではマネジメントの変革活動を「コーチング・アワセルブズ」という。

本書はケーススタディや経営理論に依存するのではなく、マネジメントの現場からマネジャーが学べる多くのことを教えてくれる。日々、マネジメントに追われているマネジャーには学びが少ないだろう。ミンツバーグがレニールに語った答えのように、一歩立ち止まり内省することこそ重要なのだ。マネジメントの現場こそマネジャーの学校なのである。

著者のフィル・レニールはミンツバーグの義理の息子

著者のフィル・レニールはヘンリー・ミンツバーグの義理の息子にあたる。レニールは、マネジャーとして勤めている会社が買収され、危機的な局面に陥った。誰しも困り果てて疲弊し、現前する難題から逃げたくなるだろう。

レニールは運が良かった。母の再婚相手が世界的な経営学者であるミンツバーグだったのだ。相談しようと思えば相談できる位置にいる。羨ましい限りだ。しかし、本当に「運が良かった」だけなのか?もしレニールが、現前する難題から逃げてしまったらどうなるか?いくら母の再婚相手が経営学者だったと知っても、相談しようと思わなかったかもしれない。

レニールが行動したことが彼の突破口となったのだ。家族にミンツバーグがいたのは幸運で、彼はそのチャンスを逃さず難題を切り開いていった。レニールは、コーチング・アワセルブズを通じてマネジャーが成長していく現状を見た。マネジャーたちの中には、人生を変える者も出てきた。マネジメントに関心がなかった者がマネジメントのキャリアを目指したり、畑違いの職種に進む者も出てきたりした。彼らに共通するのはレニールと同じく行動である。

コーチング・アワセルブズをいくらやったって行動しなければ何も変わらない。レニールもマネジャーも行動が引き金となったのだった。

フィル・レニールのストーリーから分かるマネジメントのあり方

フィル・レイールの実体験から分かるマネジメントのあり方は、マネジメント体験を共有することから始める。最初は愚痴の言い合いでも構わない。感情を共有することが大事だと言う。その上で客観的に見ていく。すると徐々に主体的にマネジメントを捉えることができるようになる。

マネジャーが主体的にマネジメントを捉えることの意義は、マネジャーの現状があるからであろう。マネジャーには大した裁量がない。著者も書いているように、特に大企業ではそうだろう。

コーチング・アワセルブズでは、マネジャーの体験を内省することを大切にする。アクションラーニングの問題解決手法に似ているが、マネジメントの変革に力を入れているところに特徴があって面白い。

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また、共著者の重光直之は、コーチング・アワセルブズの特徴としてマネジャー同士の繋がりが重要だと指摘している。確かにミンツバーグも古くから、『マネジャーの仕事』(1973年刊)でマネジャー同士の繋がりの重要性に触れていた。

マネジャーの仕事

マネジャーの仕事

マネジャー同士の繋がりの重要性については、重光の以下の文章が参考になる(本書87ページ)。

ミドルはトップマネジメントほどの権限はないが、現場を熟知しており、会社の課題と、それをどう変えるべきかを把握している。しかし、同時に一人でやれることも限られている。だから、ミドルマネジャー同士のコミュニティが必要なのだ。

会社はどうなった?

コーチング・アワセルブズはマネジメント変革を目指した人材開発のメソッドである。本書にはマネジャーの変革の積み重ねが職場や会社を巻き込んで変えていくとまで言っている。だが、人材開発だけで会社を変えられるほどの力があるのかは疑問だ。

結局、著者レニールの会社がどうなったのだろうか?組織風土も、職場も会社も変わったのかもしれないが、どうもそこらへんについては文章を多く割いていないのが残念だった。発端はマネジメント変革だったとしても、コストカッターの上司をどう動かしたのか?会社が変わるには社長をも動かさなければならないが、どう動かしたのか?動かしてどうなったのかについては触れられていない。

風が吹けば桶屋が儲かる式に、マネジャーが変われば会社が変わるのだとしても、そこには人事制度や会社の一般的なルール、組織の変革などを経て「会社が変わる」のだろうが、そこらへんは何も触れられていない。人材開発は1つの手段なので、コーチング・アワセルブズだけで上手くいく訳はないはずだ。

だから本書を読み終えて、確かにコーチング・アワセルブズは魅力的な人材開発の手法であることは分かる。しかし人材開発以外に「開発」すべき点に触れないと不誠実な感じがする。コーチング・アワセルブズの魅力は伝わるが、その宣伝本のような印象を持ってしまった。

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【書評】 豊饒の海 第二巻 奔馬 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (日本)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海』第二巻『奔馬』は右翼テロリストの物語

豊饒の海』は夢と転生の物語である。その第二巻は『奔馬』といい、右翼テロリストの飯沼勲(いいぬま・いさお)の物語である。飯沼勲は、第一巻『春の雪』で控え目ながらも読者に印象を残した飯沼茂之(いいぬま・しげゆき)の息子。

時代は第一巻から20年後の日本。物語は裁判官となった本多繁邦(ほんだ・しげくに)の視点で始まる。飯沼勲は剣道に秀でているので、本多が勲が出場する剣道大会を見たことから、ふたりの運命が交錯する。

右翼テロリストというと、昭和初期の血盟団などの右翼テロリストをイメージさせる。しかし読者は三島由紀夫民兵組織楯の会を結成したことを知っている。その後の自殺(三島事件)を知っている。そして、三島事件の後に現れた新右翼の存在も知っている。三島を右翼と切り離して考えることが難しいのだ。

だから本作を、客観的に右翼テロリストを描いているように見えて、三島の周辺の出来事(死後も含めて)と無関係には捉えられない。

右翼テロリストを法律的に、また、倫理的に糾弾することはたやすい。しかし勲が行動や発言からは、彼の天皇に対する忠義は真正のものを感じる。そこにはどうしても、モラルを超えた日本人の血の伝統が流れているのを感じざるを得ない。

奔馬』の飯沼勲は松枝清顕の生まれ変わり

奔馬』は裁判官になった本多繁邦の視点で物語を書き始められている。本多は、第一巻『春の雪』で主人公松枝清顕(まつがえ・きよあき)の唯一の理解者となった人物だった。『春の雪』でも重要な役を演じているが、『春の雪』では主人公の感情や行動を受け入れるのみで、自ら進んで行動してはいなかった。結果的に彼の消極性が清顕を救えなかったと後悔する本多は、『奔馬』では自分の人生を投げ打ってまで行動した。

それは、物語の後半で逮捕された飯沼勲を救おうとして、裁判官の職を投げ打つことである。投げ打って弁護士となった本多は、勲のために奔走する。しかし、なぜ本多は勲のために職を捨ててまで救おうとするのか。確かに、勲の父である茂之と本多は若い頃に面識がある。清顕の教育係だったからである。その程度の理由でここまで行動的になれるのか。

実は、勲は松枝清顕が生まれ変わった姿なのだ。最初は「又、会うぜ。きつと会う。滝の下で」という、清顕が死の間際に本多に言い残した言葉を頼りに、清顕の転生を信じていた。確かに滝の下で本多と勲が会うシーンがあるからだ。それに勲には、清顕と同様、わき腹に三つのほくろがある。

だが、それだけで勲が清顕の転生した姿と考えることはできない。法律家という仕事に就いている本多が、そんな非合理的根拠で納得させられようもないからだ。

本多は清顕が残した夢日記を読む。夢日記を勲が体現する場面があり、そこで遂に本多は、勲が清顕の生まれ変わりだと確信するようになったのだ。それゆえにこそ、本多は飯沼勲の裁判に関わり彼を弁護しようとする。

神風連に憧れた右翼テロリスト

飯沼勲は多くの若者を引き連れて右翼集団を結成した。地方から出てきた若者もいる。勲は神風連を扱った書物を座右の書としていた。彼はその書を本多繁邦に見せたり、宮にまで見せたりしていた。

勲と右翼集団を結成した若者たちは、昭和の神風連たらんとしていた。彼らは政権を天皇に引き戻すべく、テロリズムを厭わない。蔵原武介などの著名な財界人を殺すことで、世を清めようとする。世を清めたことが直ちに天皇に政治の主権が移行することを意味しないが、既に右翼的行動に熱狂している彼らには、自覚することはできない。

奔馬』では女が美しい死の邪魔をする

奔馬』には鬼頭槇子という女性が出てくる。年の頃32、3歳の出戻りの女性。彼女は軍人の娘にして歌人である。槇子は美しく聡明な女性であり、勲の恋人でもある。勲がテロを決行することを誓って、この世の別れのために会いに行った時、ふたりは初めて抱き合いキスをする。清顕と聡子のような性愛はないが、この世の別れに槇子に会いに来た清顕の純粋さが美しい。

最初、清顕は槇子の家を尋ねた理由を明らかにしない。しかし槇子は、清顕が何しに自宅を訪れたかを知っていた。この世の別れに来たのでしょうと聞く槇子。そしてふたりは抱き合ってキスをして、最後の別れをする。

だが、槇子は勲を失うつもりはなかったのだ。彼女は、勲が「美しい死」を選ぼうとしているのにそれを妨げようとしていたのだ。

テロ決行の直前、あっけなく飯沼勲たち右翼は逮捕されてしまう。警察に密告したのは勲の父・茂之であることが分かるが、茂之に告げた人物がいたのだ。それが鬼頭槇子だった。

美しく死のうとしている勲を邪魔するのは、ほかならぬ槇子だったのだ。

飯沼勲の自決

飯沼勲は、1年間に亘る裁判を経て出所する。まだ控訴される可能性はあるが、とりあえずは出所できた。勲は警察に密告したのが父親であり、しかも父親に知らせたのが鬼頭槇子であることを知った。

勲は元より、テロを実行するつもりだった。槇子という恋人がいても彼女と思いを遂げることなく、テロを実行して割腹自殺しようとする。しかしテロは槇子と父親の手により失敗してしまう。槇子の父親への知らせは勲に衝撃を与えた。いずれテロを実行するつもりの勲だが、槇子の密告はテロの遂行を早まらせる結果となる。

彼は出所後の安定を選ぶことなく、ひとりで、蔵原武介を殺害して自決した。彼は本多に、「ずっと南だ。ずっと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……」という言葉を残して死んだ。この台詞は次の転生の行方を示唆するものだろう。

愚かで、ばかばかしくも、美しい飯沼勲の死

勲の死は見事なものだ。私は勲が突如として逮捕されてから、物語がどのように進展するのか、はらはらしながら本書を読んだ。結果的に勲はひとりで思いを遂げることになる訳だが、勲の死を迎えて、私は安心した。

私は勲の思いに共感して、美しい死を迎えてもらいたいと願った。そこには殺人というテロを認めなければならないが、倫理よりも法よりも、『奔馬』では美が勝る。そのためにはどうしても、勲は殺人を犯してでも死んでもらわねばならなかった。

勲の死は個人的な目的に貫かれていて、たやすく共感を呼ぶものではないだろう。殺人は許されることではないし、彼の死は愚かである。だが彼の天皇に対する忠義の深さが真に迫ってくることは、清冽な感動を与える。彼の行為は愚かで、ばかばかしいものであるが、それでもなお彼の死は美しい。三島由紀夫の唯美的な感性が、絢爛たる文体とひきしまった論理的構成とともに、勲の行動と死を通して、私の心に染み入ってくる。

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【書評】 豊饒の海 第一巻 春の雪 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (日本)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

三島由紀夫最大の作品『豊饒の海

今回紹介する『豊饒の海』は、三島文学の最大の作品であり、しかも最後の作品である。全部で四巻の大著である『豊饒の海』の最後の原稿を書き終えた後、三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自決している。

私は10代の頃から三島由紀夫の死について関心を持ち、彼の芸術よりも一層、三島の死に注目していた。その頃は『金閣寺』『仮面の告白』くらいの作品しか知らなかった。確かに作品も良いが彼の死に様がどうにも人工的で、それゆえに自身の死を芸術作品にさえ見立てるイメージが私につきまとい、三島は私の中で伝説的な存在となっていた。

だが20代になり三島由紀夫の小説を本格的に読み始めると、彼の死の芸術性は現前しながらも、小説に秘める芸術性にこそ私は惹かれるようになった。だから『豊饒の海』を今まで読んでこなかったのは、何か理由があってのことではない。単に大長編だったから読む機会を逸したというに過ぎない。

しかし、『豊饒の海』の第一巻である『春の雪』を読んでみると、これまでずっと読んでこなかったことが悔やまれた。それほどに、三島の研ぎ澄まされた言葉の感性、そして物語のパズルのピースを埋めるかのような構成の論理性に心打たれる思いがした。

『春の雪』はエンターテインメント性に溢れた芸術作品

三島由紀夫は多くの長編小説を書いた。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』『禁色』『鏡子の家』など著名な作品から、『夏子の冒険』『お嬢さん』『命売ります』などのエンターテインメント作品まで幅広い。私は35歳を過ぎるまで三島のエンターテインメント作品には触れてこなかった。その理由は単に三島由紀夫の本領は、非エンターテインメント作品にあると思っていたからだ。

しかし、『春の雪』を読んでみると、作者の漢語の教養が表れる唯美的な文体や、皇族や侯爵などのたおやかな描写、明治大正の青年の凛々しくも儚い心情が描かれる一方で、「許されぬ恋」を魅力的なキャラクターを元に丁寧に描く物語の展開は目が離せない。エンターテインメント作品におけるはっきりとした起承転結が、『春の雪』には強く描かれているのだ。

だから『春の雪』は、芸術作品であることは紛れもない事実でありながらも、頁をめくる手を止められないほどのエンターテインメント性に満ちた魅力あふれる作品なのである。『春の雪』だけでも新潮文庫版で450頁を超える長大な作品で、これがあと三巻も書き継がれたのだから、三島の物語の構成力、展開力には舌を巻く。

潜在的な愛の露見

『春の雪』は、松枝清顕(まつがえ・きよあき)という19歳で侯爵の息子が主人公。清顕は学習院に通っているが、戦前の学習院は皇族や華族、資産家の子息などが通う学校で、清顕の友人も身分の高い者が多い。

副主人公にあたる本多繁邦(ほんだ・しげくに)も裁判官の子で、男性の中では本多が清顕の唯一の理解者にあたっている。清顕には聡子という年上の幼馴染がいて、子どもらしい誤解から彼女を遠ざけていた。聡子の方では清顕を愛しておりそれを彼も自覚しているのだが、それゆえにこそ遠ざけたりする。そんな様子も本多には打ち明けているが、清顕は本多以外の友人には心を打ち明ける素振りを見せない。「唯一の理解者」といえるゆえんである。

ある時、聡子が皇族の宮に見初められ、清顕の父が清顕に「構わないか」と確認に来るが清顕はそれでも構わないと言う。この時まで彼の中では、聡子は運命の女性ではなかったのだが、自分の手を離れて宮の妻になることが分かる(納采の儀を待つだけになる)と、彼女を愛するようになる。

尤も、清顕の聡子に対する愛はおそらく潜在的に存在していただろうが、絶対に届かない存在になる可能性が高まることで、聡子への愛に気づくといったところだろう。聡子への愛は潜在していたが露見したということだ。

豊饒の海』は夢と転生の物語

聡子への愛を自覚した後の展開は「昼ドラ」のようなどろどろした物語の展開を見せる。ふたりは、誰からも知られてはならぬ「許されぬ恋」を演じる。誰にも目につかない場所で逢引きをする聡子と清顕の情交は、エロスをほのめかす表現で留められながらも、むしろ具体的に性愛を描写しないからこそ、ふたりの吐息が感じられる官能的なシーンになっている。

聡子は年上の女性で、宮に見初められた身である。皇族の恩恵を受けて、長年生きてきた家系の娘である。それゆえに宮との結婚を優先し、清顕に諫める立場にありながらも、清顕との情交をやめることができない。

最終的に、聡子は妊娠までして、清顕と聡子の家族は狼狽するのだが、家族は愛よりも体面を重んじて聡子に堕胎させ、宮との結婚を破断にさせまいとする。しかし聡子は立ち寄った奈良の寺院で剃髪してしまい、二度と俗世には姿を見せないことを誓う。すなわち、清顕との愛も諦めるのだ。

最後は、清顕は聡子を追い求めて何度も寺を訪れるが、聡子は頑なに会おうとしない。既に出家した身の上ゆえに会わない訳だが、この徹底した俗世との隔絶が聡子の閉じられた愛の”歪な”完成形であり、聡子の愛の思念の中に、清顕が入る余地はなかった。

最後、本多に遺言をのこして死んでいく清顕は、「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」と言ってのける。本多は本気にしないが、『豊饒の海』は夢と転生の物語であり、清顕との邂逅はおそらく現実のものとなるであろう。それはまた、二巻に任せるとしよう。

存在感に溢れるキャラクター

『春の雪』に登場する人物は、主人公の松枝清顕とヒロインの聡子を中心に、強い存在感を持っている。清顕の友人の本多繁邦、清顕の教育係で書生の飯沼、聡子の召使の蓼科、清顕の父である松枝侯爵、清顕の祖母、シャムの王子などの誰もが強い存在感を持つ。尤も、この存在感は、小説を読む私に真に迫ってくる存在感の強さであって、これらの人物がおしなべて強い個性を有しているという意味ではない。

特に私が気に入ったのは清顕、飯沼、蓼科である。清顕は体を鍛えない代わりに、美青年で周りから「若様」ともてはやされている。聡子を執拗に愛することだけが、彼に託された使命であるかのように、彼は愛を貫徹するために徹底し命を賭す。魔に憑かれたかの如く聡子を求める姿は異様で、学習院の卒業試験を前にして、この男は生き続けることはなかろうと思うと、本当に命が尽きて病死している。

飯沼は『豊饒の海』の第二巻にあたる『奔馬』の主人公の父にあたる人物だ。物語の当初は、陰気で清顕を軽視しているが次第に愛敬の念を抱くようになる。みねという女中と恋愛関係になった科で屋敷を追い出されるが、若様である清顕に対する尊敬は消えることがなかった。朴訥で何を考えているか分からない飯沼が清顕に対する尊敬、そして後に煽情的でジャーナリスズム的行動に移る様などが興味深い。

蓼科は聡子の召使だが、飯沼が女中と恋愛関係にあることを松枝侯爵に密告したり、清顕と聡子の不義の関係を侯爵に報告した末に自殺未遂を企てたり、エピソードには事欠かない人物だ。

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『ボヘミアンラプソディ』を見る

ボヘミアンラプソディ』をうまく語れない

映画『ボヘミアンラプソディ』について、レビューをしようと思ったが、なかなか筆が進まない。その理由はクイーンに評価を付けたくなかったからだろうか。あるいは、『ボヘミアンラプソディ』の熱狂に湧いている現状に水を差したくなかったからだろうか。どちらの理由も間違いではない。しかし、もう少し言葉を付言すると『ボヘミアンラプソディ』は良い映画とは思えなかったが、使われている楽曲すなわちクイーンの曲については相変わらず良かった訳で、そう考えると『ボヘミアンラプソディ』をどう評価して良いか分からなくなってしまったからだ。

ボヘミアンラプソディ』のラミ・マレックの前歯が気になる

ボヘミアンラプソディ』を見ていて思ったが、私はクイーンが相変わらず好きだし、特にボーカルで作詞・作曲を兼ねるフレディ・マーキュリーが好きだということである。

だからこそ、『ボヘミアンラプソディ』でフレディを演じた主演のラミ・マレックは、フレディ・マーキュリーとは似て非なる者であったことが気になった。ブライアン・メイロジャー・テイラーを演じた俳優が、本人とうりふたつとさえ言い得るにもかかわらず、ラミ・マレックだけが似ていないと感じたことが気になった。ジョン・ディーコンを演じた俳優もラミ・マレックよりは本人に似ていた。

フレディ・マーキュリーは前歯が出ていたが、ラミ・マレックはいかにも偽物の歯を付けていて、明石家さんまのモノマネをする原口あきまさを思い出してしまった。この映画はもちろん、ギャグ映画ではないのだが、私にはラミ・マレックがギャグにしか見えなかった。どうしても前歯が気になるのである。

だが、最も気になったのは、ラミ・マレックの歌がフレディ・マーキュリーの吹き替えだったということだ。マレックは劇中で歌わない。これには私はむなしさを覚えた。やっぱりフレディの声は誰にも演じられないものなのか。そう思うとこの映画を見るよりも、YouTubeでクイーンのビデオを見た方がマシにさえ思えた。映画のラストで「ドントストップミーナウ」が動画が流れた時に、ライブエイドのシーンよりも感動したのは、クイーンの本物の姿が見られたからである。

ボヘミアンラプソディ』はフレディの自伝的映画

ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画であるが、照準はボーカルのフレディ・マーキュリーに当てられているのでフレディの自伝的映画といえるだろう。フレディは自分のセクシュアリティや、アーティストとしての感性などが理由でバンドに対して亀裂を生じさせる。ロジャー・テイラーはフレディに突っかかるが、ロジャーの視点でバンドへの亀裂を描くというよりは、フレディの視点にロジャーが入ってくるという描写である。

映画はライブエイドの成功で幕を閉じるが、どうしてもそういう結末にしたいために史実を曲げた。すなわちフレディが、自身がエイズに罹患していることを知るのがライブエイドの後であることが史実なのに、映画はライブエイド前に知っていたことにする。それによってフレディがなかなか声量のある声が出ずにいて苦悩するというシーンが感動的なものになるし、バンドがフレディの病気を軸にして結束するシーンにも繋がる。

映画はフレディを中心に周り、フレディと共に終わる。ライブエイドのライ・マレックはなかなか良かった。原口あきまさを思い出させなかった。前歯が気になるのは、マレックがしゃべったり、口を閉じたりしているシーンが多いので、ライブなら前歯が気にならなかったのである。それと、マレックの力強いパフォーマンスは、彼の小柄な肉体、フレディよりも短く見える脚などの欠点がありながらも、クイーンという力強いバンドのボーカリストを演じる俳優然としていたと思う。それでも、彼の歌声は吹き替えなので、感動するかというとそうでもなかったのだが。

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」だ。クイーンを力強いバンドに仕立て上げているのは、フレディの力があるからである。ブライアン・メイのギターもロジャーのドラムもジョンのベースも、力は感じるが、クイーンはバンドで歌が主役だ。その歌い手がバンドのイメージを決定づける。それは、力だ。フレディを演じたラミ・マレックがフレディと違うなと思うのは、マレックに力を感じなかったせいだ。歌声をマレックが吹き替えたのは、フレディの声を似せるのが困難だったのだろうが、所詮は偽物という印象を持ってしまった。

フレディ・マーキュリーの身長は177センチでそう高くはなかった。バンドメンバーでは一番身長が低い。といっても、ブライアン・メイ以外の身長は似たようなものだが、ギタリストのブライアン・メイは190センチ近くある。明らかにメイの方が大きいのだが、力は身長からもたらされるものではない。クイーンはバンドで歌が主役なので彼の力の源は歌声からもたらされる。

代表曲「ボヘミアンラプソディ」「ショウマストゴーオン」「ウィウィルロックユー」「ドントストップミーナウ」などから感じられるフレディの力強い歌声は感動的である。私は彼らのビデオをいくつか持っているが、なんだか、見ているだけで涙が流れていく。歌は言葉であるが、むしろ、歌は言葉であるよりも音楽である。だから、力強い歌声を聞いていると泣くというのは、音楽の持つ非言語的な力が私を感動させるという意味だ。

音楽の性質は不思議なもので、クイーンの曲を聞いていると、自分がフレディ・マーキュリーの力の源に触れているような感覚になる。クイーンというバンド名や、タイツを履いたフレディのパフォーマンス、フレディがバイセクシュアリティだったことなどから、女性的なイメージをフレディ・マーキュリーに持つかもしれないが、単に歌声だけを聞くと、フレディには強い力を感じる。

音楽は言葉でいくら表現しても、聞いてしまうとそれらの言葉がむなしくなる。どんなに言葉を尽くしても音楽を聞けば、全てが吹き飛んでしまう。クイーンというバンド名やタイツを履いたフレディのパフォーマンスやフレディのバイセクシュアリティなどは雑音となって消えてしまう。音楽は耳で聞く。あるいは目で見る。視覚と聴覚を使っても尚、音楽に付随した様々な雑音は音楽からずれ落ちていく。クイーンの魅力を感じるには聞くしかない。あるいは見るしかない。

クイーンと死

既に『ボヘミアンラプソディ』という映画から話がそれてしまっている。だが、もう少し続ける。フレディ・マーキュリーの魅力は力だといったが、それは即ち、クイーンというバンドの魅力でもある。当たり前のことだが、歌が主役のバンドにおいて歌い手の魅力が力なら、バンドの魅力もそれに伴った表現となる。

だが、なぜだか分からないが、クイーンの曲を聞いていると死を連想する。別に死にたくなる訳ではないし、フレディが45歳という三島由紀夫と同じ年齢で死んだからでもない。クイーンの魅力が力だと言っておきながら、死を連想するとは何たる矛盾かと思う。

クイーンの曲を聞くと生の源に触れた気がして、私は感動する。それと共に、生の対極にある死を連想し、私はむなしくなる。むなしくなるというとクイーンに価値がないようだが、そうではなく、クイーンの曲に死を連想するからこそむなしい訳だ。

フレディの熱量ある声が歌い終わった後の静寂に、私は生き物の限りある命を感じられてならない。クイーンの魅力が力であるゆえに、歌が終わることは力が尽きるような印象を持ってしまう。

ライブエイドをリアルタイムで見た人の話を聞いてから

ボヘミアンラプソディ』について、私はあまりリアルでは語りたくない。なぜかというと、私の周囲では『ボヘミアンラプソディ』を見て低い評価を付ける者がいなかったからだ。といっても、普段なら、映画について意見が違ったら、リアルでも議論したくなるが、『ボヘミアンラプソディ』についてはリアルでは議論できない。私がこのブログで、ここまでに書いたようなことをリアルでは言いたくないのだった。

それは、『ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画だからで、その映画について批判めいたことを言うことが私にはできないからだ。『ボヘミアンラプソディ』はクイーンを語った映画だから、『ボヘミアンラプソディ』への批判的な言葉がクイーンへと繋がるような気がしてしまう。それは錯覚なのだが、私はそこまでクイーンを自分と切り離して捉えることができない。私の中ではクイーンは、あまり客観的に見ることができない存在なのである。

ある人と電話で話した時に、『ボヘミアンラプソディ』の話になった。その時、その人はライブエイドをリアルタイムでTVで見たと言っていた。私よりもだいぶ年上の人なので、見ることはできる。しかし、それは、一瞬のできごとだった。「そうなんだ!すごいね」と私は言った。話はそこで終わった。しかし、電話で話した後に1人になると涙がとめどなく流れた。

私は時折、クイーンのビデオを見て、フレディ・マーキュリーはこの世にいないという感覚にとらわれることがあるが、この時は電話が引き金だった。私はフレディがこの世にいないことへのむなしさを痛感していた。

おわりに

今回の文章は、日記にでも書いて誰にも見せずにおくべき文章のような気がする。書いていて気恥ずかしい思いがした。それだけ、私の人生にとってクイーンは大きな存在だったということが改めて分かったが、『ボヘミアンラプソディ』という映画の最大の魅力は、そこにあると思う。

どれだけラミ・マレックが巧みに演じようとも、声を吹き替えた時点で、私には遠い存在となってしまった。わりと映画を見て泣くことが多い私が、こともあろうにクイーンの映画で泣かなかったというのは本当に意外だった。