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【映画レビュー】 ビッグ・リトル・ライズ シーズン1 監督:ジャン=マルク・ヴァレ 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (米国)

『ビッグ・リトル・ライズ シーズン1』は米国のテレビドラマである。『セックス・アンド・ザ・シティ』『ゲーム・オブ・スローンズ』を手掛けたHBOが贈るサスペンス。シーズン2は製作中で、米国では2019年に放送される模様。日本での放送日は2019年7月31日(水)ということが決まっている。シーズン2にはメリル・ストリープがキャストに入っている。

待望の最新シーズン!『ビッグ・リトル・ライズ2』7月31日(水)日本最速放送決定 | サスペンス | ニュース | 海外ドラマNAVI

本作はドラマなので、映画レビューで紹介すべき作品ではないのだが、傑作だったので紹介していこう。

作品のプロフィール

『ビッグ・リトル・ライズ』の監督を務めたのはジャン=マルク・ヴァレというカナダの映画監督だ。彼が監督した映画には『ヴィクトリア女王世紀の愛』『わたしに会うまでの1600キロ』などがあるそうだが、私はどれも知らない。『ビッグ・リトル・ライズ』が傑作で、同作をヴァレ監督が最初から最後まで監督しているので、彼の監督作には注目していきたくなるほどだ。

『ビッグ・リトル・ライズ』の製作総指揮には、主演でもあるリース・ウィザースプーンニコール・キッドマンが名を連ねた。どちらもアカデミー主演女優賞の栄誉を受けている。ちなみにウィザースプーンはヴァレ監督の『わたしに会うまでの1600キロ』にて主演、アカデミー主演女優賞にノミネート。

ウィザースプーンははっきりとした価値観を持ち、その観点に合わない者には攻撃的になる女性を演じた。キッドマンは美しく聡明な元弁護士を演じている。双子を設け、美形で高身長で仕事ができる弁護士を夫に持つ。幸せな女性に見え、友だちにも幸せな生活を送っているように演じるが、実態は夫に虐待されていた。本作では上半身ヌードをさらしている。

その他のキャストでは、シェイリーン・ウッドリーローラ・ダーンアレクサンダー・スカルスガルドなど。ウィザースプーン、キッドマン、ウッドリー、ダーン、スカルスガルドの演技はおしなべて素晴らしかった。なおダーンはウィザースプーン同様に『わたしに会うまでの1600キロ』に出演している。

『ビッグ・リトル・ライズ』は第75回ゴールデングローブ賞・テレビムービー部門(2018年)にて4部門(作品賞・主演女優賞・助演女優賞助演男優賞)で受賞した。原作はリアーン・モリアーティという作家の小説。創元推理文庫で『ささやかで大きな嘘』というタイトルで発売されている。原作の方が良いタイトルだ。

誰かが殺された!しかしその誰かが誰なのかは、最後まで分からない

『ビッグ・リトル・ライズ』では、1話にて誰かが殺された事実が明かされている。しかし殺された誰かとは何者かについて、また、殺人者については一切触れられていない。しかも、事実を語るのはパーティの出席者であり、警察への質問に応える形で語っているのだ。一体誰が、誰に、殺されたというのか?この謎は最終話まで語られることがなかった。

パーティの出席者が語るのは、誰かが殺されたことについてだけではない。ストーリーが進むにつれて、主要キャストについてエピソードを語っていく。彼ら彼女らが警察の質問に応える形でしゃべっているのは、噂話である。だが、パーティの出席者が語る噂話という構図は、『ビッグ・リトル・ライズ』の世界観が噂話で成り立っていることを象徴する。

『ビッグ・リトル・ライズ』の舞台は、アメリカ・カリフォルニア州モントレーにある高級住宅街。マデリン、セレステ、レナータはセレブ女性である。マデリンもセレステもレナータも、一見、幸せそうに見える。だが、噂話に象徴されるように彼女らには裏の顔がある。徐々に剥がされていく幸せの仮面。「幸せ以外は、ぜんぶある。」という本作のキャッチコピー(公式HP)をなぞるように、セレブ女性の裏の顔が見えてくる。そんなセレブな住宅街に引っ越してきたのはジギー。「幸せ以外は、ぜんぶある。」というキャッチコピー。新参者のジギーも例外ではない。

噂話や登場人物の行動によって、徐々に明らかになる人間の深い闇。誰かが殺され、その誰かが誰であり、殺人者が誰であるかという、メインのストーリーを追いつつも、登場人物たちの陰鬱な過去の出来事や心理状態などがエピソードとして描かれることによって、マデリン・セレステ・ジギー・レナータ等を取り巻く闇は、いっそう深くなる。

映像の美しさに心惹かれていく

『ビッグ・リトル・ライズ』を見ていて、映像の美しさに感嘆した。モントレーは海沿いにあるのか、浜辺のシーンが出てきたり登場人物の邸宅の目の前が海だったりする。マデリン、セレステ、レナータ等の邸宅が瀟洒である。また、マデリンがセレステやジギーと一緒にお茶をしに行くカフェの雰囲気が良い。マデリンを演じるのはリース・ウィザースプーンなのだが、存在感が抜群である。強い自論を持っていて、思考が合わない人は徹底的にののしる。だが、マデリンはあまり下品にならずに、セレブ妻の矜持を保っていた。彼女を演じたウィザースプーンの演技力が高かった。仲の悪いレナータ(ローラ・ダーン)のことを愚痴っているだけで絵になるのである。

あとはセレステを演じたニコール・キッドマンは、元弁護士で、今は専業主婦に収まっている知的な美人を演じた。彼女は夫のペリー(アレクサンダー・スカルスガルド)に虐待されているのだが、精神科医以外には言えないでいる。親友であるはずのマデリンにさえも、仲の良い夫婦と目されているくらいだ。理想と現実に懊悩し、誰にも言えないでいる美人をキッドマンは演じる。キッドマンが出てくるだけで溜息が出るほど、美しかった。

闇が人の心の奥底に落ちていく

『ビッグ・リトル・ライズ』はミステリーを題材にしているが、トリックがある訳でもないし、どんでん返しがある訳でもない。最終話を見れば誰が殺されて、誰が殺人者なのかは、直ぐに分かる。だからミステリーを題材にしているけれども、ミステリーとしての価値が高い訳ではない。むしろ本作は、人の心をじっくりと描いた作品と言った方が良いだろう。それゆえに、本作は再見に耐える。

不倫、DV、子ども同士のいじめ、他者への悪口(マウンティング)など、家庭生活を送っていれば、ありふれた出来事が次から次へと降ってくる。だが、それら、ありふれた出来事によって人の心は闇に蝕まれる。出来事を契機として、闇が人の心を食んでいくのだ。それは、被害者も加害者も同じである。例えばセレステを殴っているペリーの顔には悲しみが漂っている。ペリーには暴力を振るうことへの快楽は微塵も感じられない。ペリーは、暗く、淀んだ生を生きているかのようだ。

だが、だからといって『ビッグ・リトル・ライズ』に描かれた登場人物がおしなべて暗い訳では決してない。明るくしゃべったりするし、バカ騒ぎをしたりもする。しょっちゅう闇に蝕まれている訳ではないのが人間であろう。ただし、ペリーとセレステだけはちょっと別だが。

『ビッグ・リトル・ライズ』には子どもも出てくる。突然キレてしまうジギーの息子。ジギーにいじめられたと訴えるレナータの娘。早熟なマデリンの娘。本作の子どもはステレオタイプ的な子どものイメージから離れて、心の赴く先があっちへ行ったりこっちへ行ったりと揺れ動いている。だが、本来、子どもというのはそういうものだ。「子どもは残酷だ」「子どもは純粋だ」というようなステレオタイプから離れて、残酷になったり純粋になったりするのが子どもだ。つまり、大人とそう変わりないということ。

闇が人の心の奥底に落ちていく過程を丹念に描いた『ビッグ・リトル・ライズ』。登場人物のそれぞれが、善と悪が混交した複雑な人物像になっている。それゆえに、映像でありながら彼ら彼女らの立ち振る舞いは現実的であり、どこか自分の知己の物語を見ているような気にさえ、なってくる。

【書評】 悪の教典 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆☆ (日本)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

究極の悪人を描いた傑作

人間の心には、必ず、善もあり悪もある。そのどちらかしかない、ということはあり得ない。ただ、普通の人間なら善と悪の割合はバランスを保っている。例えば、善人と呼ばれる人の善悪の割合が70:30程度なら、悪人と呼ばれる人のそれは30:70程度だろうか。それゆえに人間はたとえ悪人といえども、悪人のことを理解できる。例えば悪人となったことの理由を知れば、「確かに、悪行は許されるべきことではないが、悪を犯してしまった行為の原因は理解することができる」といえる。

だが、世の中には理解できない悪人というものがいる。その人間の心の構成要素のほとんどを悪が占めるような人間。善悪の割合でいえば0.1:99.9のような人間である。それが私たちにとって理解できない悪人である。つまり悪を犯した行為の原因を聞いても何ら理解することができないのが、こうした悪人に対する評価だ。これを究極の悪人と呼ぶなら、『悪の教典』はまさにそうした悪人を描いた作品だと思う。

究極の悪人を描くことは容易いことではない。読者に共感を持たせなければ読み続けてもらえないと感じる作家は、悪人のどこかに読者の肯定的な感情を誘うエピソードを挿入してしまう。そうすることでその小説に対して読者は共感を持って読み続けてもらえるが、一方で究極の悪人を描くことには失敗するだろう。心の構成要素の99.9%が悪で占められてしまうような悪人を描くことに作家の方が挫折するのだ。

その点、『悪の教典』は徹底している。イケメンで高学歴、海外の投資銀行出身の高校教師・蓮見聖司を描いた本作に対して、読者はピカレスクロマンのようなものを感じるかもしれない。しかし、自分を無条件に慕う生徒を次々と殺害していくシーンを前にして、そうした親しみは消え失せる。蓮見聖司に対して、作者の貴志祐介は読者の同情を誘おうとしない。親に虐待されていたとか、クラスメイトにいじめられていたとか、そういった哀感を誘うエピソードを挿入しない。だから読者は蓮見に対しては、嫌悪しかない。それは何ゆえか。99.9の究極の悪人を描ききったからだ。読者の嫌悪は、すなわち、本作への賛辞へと繋がる。『悪の教典』は究極の悪人を描いた傑作であった。

全体性が欠けた超個人主義的教師

究極の悪人を描いた『悪の教典』から一体、何を読み取るか。究極の悪人である蓮見聖司は、勤務先の高校の生徒たち、そして同僚の教師や上司に至るまで、ありとあらゆる他者から親しみを持たれていた。蓮見は外見や経歴などのパーソナルな面が人より優れていることに加えて、他者の心理を手に取るように知ることができる能力を持っていた。だから、他者の行動の背景にはこうした心理があるということが分かるし、目の前の人間が何を考えているか手に取るように分かるのだ。

他者の心理を理解できるのだから他者を思いやったり、優しくしたりすれば良いのだが、蓮見の場合はそうではない。高校教師としての蓮見が、自分の思い通りに事を進めるために、障害となる人間を首尾よく殺害するために、彼ら彼女らの心理を利用するに過ぎないのだ。蓮見は殺すことに特別の執着がない。蓮見は高校教師として仕事を全うしようとする。その全うしようとする気持ちには、真正なものがあるような気もしてしまうが、それは誤解である。なぜなら彼がクラスを組織しようとしたり、生徒を指導したりしようとすることの背景に、私たち読者が共感できる全体性がどこにもないからだ。

蓮見は一見、生徒のためにモラルを説いたり専門の英語を教えたりしているように見える。しかし、ひとたび生徒らが障害になると平気で殺してしまうのだ。それは、蓮見を男として愛した女子生徒に対してもそうだ。自分の犯罪が露見しそうになると殺害を試みる。蓮見は、モラル・勉強・恋愛のために、クラスを組織したり生徒を指導したりコミュニケーションを取ったりしない。結局蓮見がやりたいのは自分の本意だけだ。その本意が彼の歪んだ超個人主義にある以上、共感し得る全体性がどこにもないゆえに、私たちは相変わらず、蓮見聖司を理解することができない。ただ、ひたすら、不気味で、捉え難い存在として、彼は作品の中に巣食っている。

【書評】 一の悲劇 著者:法月綸太郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

一の悲劇 (ノン・ポシェット)

一の悲劇 (ノン・ポシェット)

初の法月綸太郎作品

『一の悲劇』は法月綸太郎のミステリー小説。明晰なストーリー展開と陰鬱なラストの悲劇が特徴的な良作である。

私が法月綸太郎の名を知ったのは東浩紀の著書『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか?』による。私は、人文系ではない癖に分かったような振りで東浩紀の著作に憧れていた。理解が及ばないにもかかわらず、東の本を読んで現代思想の英知に触れた気になっていた。しかし彼が小説に手を出したり雑なエッセイなどを書いたりしたために、私は彼の魅力を感じなくなっていた。だが、私の中で東は過去の著述家ではなかった。『ゲンロン』を読むことでもう一度度東浩紀の良さを思い出したからだ。

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さて、『サイバースペース』は私が憧れた時代の若き東浩紀の文章だ。『ゲンロン』が良かったので東の初期の文章を読み返したくなった。その中に、法月綸太郎東浩紀の対談があった。ミステリーに興味を持ちつつ、初期の江戸川乱歩谷崎潤一郎やポーのいくかの佳作を除けば今ひとつミステリーに溶け込めなかった。東浩紀と対談するくらいだから面白いかもしれないと思い、『一の悲劇』を手に取った。

法月綸太郎作品を手に取ったのはそういう次第である。

誘拐犯に取り違えられた子ども

『一の悲劇』は誘拐をテーマとする。企業の幹部の娘を妻とした主人公・山倉史朗は、妻の実家に気を使いながらも安定した日常生活を送っていた。しかしある時、子どもを誘拐したという連絡が入る。驚く史朗だったが、実は、その子どもとは主人公の子どもではなく、近所の子どもだった。

つまり犯人は、誘拐すべき子どもを取り違えてしまったのである。しかも、近所の子どもの母親・冨沢路子と史朗とは、かつて不倫関係にあり、子どもというのは史朗の実子なのである。また、主人公の妻・山倉和美は子どもを産めない体である。従って山倉史朗の子ども・隆史は、和美の妹・次美の息子で、次美が難産のために死去したことにより姉が隆史を引き取ったのである。

どろどろした、複雑な人間関係がストーリーに興を添える。隆史は史朗が血を分けた子どもではないが、養子として迎えている。一方、史朗が血を分けた子どもである茂は、路子との不倫関係の末に生まれた。しかも史朗は路子の前から姿を消してしまったのである。路子は嫌がらせのために、史朗の家の近所に居を構えた。しかも、茂を史朗と同じ学校に通わせているのだ。

茂は、結果的に犯人に殺害されてしまうが、路子は史朗に逆恨みする。読者は、茂を殺害され、悲しみのどん底に追いやられる路子に同情する。同時に、人間として不甲斐ない行動を取る史朗にイライラさせられていく。史朗が不倫の清算をきちんとしておけば、路子が史朗の近所に転居してくることもなかっただろう。転居しなければ、誘拐犯に茂を取り違えられることもなかったに違いない。

しかし、事件は意外な方向へと発展する。

陰鬱なラストが強いカタルシスを生む

路子は隆史を誘拐してしまう。そこで和美に対しても、茂が史朗の子どもであることを暴露する。武器で攻撃してくる路子に史朗はケガを負わされてしまうが、酷いケガではなく入院するも直ぐに退院することができた。史朗は真犯人が和美の父・門脇了壱であると見抜き、了壱に迫る。だが、了壱は犯人ではなかった。帰宅した史朗を待っていたのは妻・和美が真犯人であるという事実であった。

誘拐犯は山倉史朗の妻・和美である。和美は茂の父親が史朗であることを知っていた。ゆえに、誘拐して身代金をもらうことが目的ではなく、茂殺害が目的だったのだ。そして和美は、まるで史朗へのあてつけのように自宅で首を吊って自殺している。

陰鬱なラストである。史朗は、本当に愛していたのは和美であった。だから退院後は、性急に和美の元へと戻ろうとしていた。しかし和美は夫を許してはいなかったし、夫の元愛人を憎んでいた。それゆえに、和美は史朗が唯一血を分けた子である隆史を殺害したのだ。そして、罪を償うことなく首吊り自殺をしてしまった。

史朗の愛を和美は拒む。史朗の弁明を、謝罪を、和美は認めない。隆史を殺害して自らは自殺したことに、史朗への絶対的な拒絶が浮かんでくる。和美の狂気に私は慄然としたが、同時に、史朗の悪を糾弾するためには和美の殺人罪と自殺とが必要だったようにも思う。陰鬱なラストは不気味で不快だが、同時に強いカタルシスを生む。

【書評】 火花 著者:又吉直樹 評価☆☆★★★ (日本)

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

やっと読めた『火花』

ふだんテレビをほとんど見ない私が、お笑い芸人の又吉直樹の名を知ったのが2015年。彼の著作が芥川賞を受賞したからだ。その著作が本書『火花』。お笑い芸人が書いた小説で、登場人物もお笑い芸人であるという。

何となく気にはなったものの、お笑い芸人出身ということと、芥川賞受賞作ということにバイアスがかかってお金を出して買う気にはなれなかった。従って図書館で借りて読もうと思ったのだが、なにしろ200万部のベストセラーである。借りたい人は山のようにいる。だから人気が沈静化するのを待った。待つこと4年。ようやく2019年5月になって図書館で予約したら直ぐに借りることができた。

やっと読めたという感じだったが、案の定面白くなかった。芥川賞受賞作品ということなら、青山七恵の『ひとり日和』よりは良いが、村田沙耶香の『コンビニ人間』には遠く及ばない。『コンビニ人間』は本書と同じくミリオンセラー(100万部なので『火花』の半分だが)。

オチが下らない

テレビでたくさんのお笑い芸人が出ているが、ほとんど面白くない。面白くはないが、お笑い自体は好きだった。北野ファンクラブ時代のビートたけしは面白かった。面白かったのでDVDボックスを購入した。ツービート時代のたけしもYouTubeで見ると面白いのだが、彼らの漫才はDVD化されないようで残念だ。差別ネタ、ブスネタ、老人いじめネタが多いからダメなのかもしれない。

また、明石家さんまも昔は面白かったのだが、今はどうも笑えない。ミスタービーンも偶にAmazonプライムで見て笑っている。そして、映画のジャンルでもコメディが好きである。だから笑うという行為は欲しているのだ。でも、今はたけしさんまも含めて面白いと思えることが少ない。今年のR1グランプリのこがけんは面白かったが、あれは特異な例なのだろうと思う(彼がなぜR1の決勝戦に出られなかったのか不明だ)。

本書の主人公は売れないお笑い芸人。そして、彼が師匠と仰ぐ男もお笑い芸人。小説中に漫才のシーンが出てくるが、何も面白いことがない。又吉直樹はお笑い芸人なのだろうが、面白い芸人ではないのだろう。私は、特に師匠の漫才が面白くないので、主人公がなぜ彼に心酔しているのかずっと分からなかった。

聴衆に嫌われても自分の本音を言えることに心酔しているのだが、嫌われても本音を言えるって、それは笑いなのだろうか?例えば漫才師としてのやり取りや、漫才中に師匠が吐くセリフが「言葉」として面白いものでないと、笑いにならない気がするのだが。主人公は、漫才の相方がお笑いを辞めるというので解散ライブをやるのだが、そこで師匠のマネをして、嫌われても本音を言う。でも、それがどうしたのだろう。「死ね死ね」とか漫才で言っていて、観客は落胆していたし、何よりも、『火花』を読んでいる私が一番興ざめしていた。

オチもひどい。1年以上借金取りから逃げ回っていた師匠が、久しぶりに主人公の前に姿を現す。すると胸のあたりが大きい。何だろうと思っていると、豊胸手術をしたんだとか。それで笑えるだろうという師匠。なんだそりゃ。B級小説を読んじゃったなあという感想しか出てこない。

破天荒な人生はどうだ?

芸人というと、横山やすしみたいに破天荒な生き様を見せる芸人もいる。芸人じゃないけれど、漫画家の青木雄二なんかも、40歳くらいまで職を転々としていて、デビューはしていたが売れない漫画家だった。突如として『ナニワ金融道』で売れて、50代半ばで早死にした。ありふれているかもしれないが、『火花』の師匠みたいに、中途半端な芸人よりは、やすしとか青木みたいに破天荒な人生を生きた人の方が面白いし、そういう人を師匠と呼ぶなら、『火花』の主人公も「良い目」をしているじゃないのと言いたくなるが、芸はつまらないし、最後は豊胸で終わるってねえ・・・。

最低点をつけたくなる小説だが、☆2に留めた。その理由は、エピソードが良かったのと、文章が標準的だったことだ。エピソードというのは主人公が師匠に姉の話をするくだり。貧乏な家庭に育った主人公は、姉の話をする。姉はエレクトーンが買えないので、紙に書いたピアノでエレクトーンの練習をするのだ。そして、人前でエレクトーンの腕前を披露する時に、うまく弾けない。なぜなら、エレクトーンは電子楽器で電源を入れないと音が出ないことを知らなかったからだ。姉の情けない姿に、主人公は泣いた。なんで泣いているんだと尋ねる母親も、目が赤かった。そして母は父に内緒で姉のためにエレクトーンを買ってやる。姉はエレクトーンを弾き、弟はそれに合わせて歌い続ける。

これはなかなか忘れがたい、良いエピソードである。あと、文章は標準的で、冒頭の「大地を震わす和太鼓の律動」云々を読んだ時は頭を抱えたが、後の文章はフラットな文体に変わった。この方が読みやすいとは思う。思うけれど、ストーリー展開が全然面白くないので、次回作以降はストーリーの構成を組み立てておきたい。著者は太宰治好きだそうなので関心はないだろうが、三島由紀夫が参考になるかも。

【映画レビュー】 22年目の告白 私が殺人犯です 監督:入江悠 評価☆☆★★★ (日本)

藤原竜也が全て

『22年目の告白 私が殺人犯です』は藤原竜也主演のスリラー映画。22年前に5人の連続殺人事件が起こる。事件は時効となっていた。ところが、連続殺人事件の真犯人・曾根崎(藤原竜也)が突如、マスコミの前に姿を現す。「私が殺人犯です」という22年前の殺人事件を赤裸々に語った書物を手にして。曾根崎はホテルで記者会見を開き、圧倒的に派手なパフォーマンスを行ってメディアの前に姿を現した。彼は容姿端麗で落ち着いていて、知的なしゃべり方をする。殺人犯にしては、ちょっと外見が良い。

そしてメディアやネット上では、曾根崎をアイコンのように持ち上げる。22年前の事件で尊敬する上司を殺害された牧村(伊藤英明)は、大衆にも、そして曾根崎自身に対して怒りに震えていた。曾根崎はなぜ、22年目のタイミングで告白本を書いたのか?「名を売りたかった」というが、彼の真意は何なのか?

曾根崎を演じた藤原竜也は圧倒的な存在感。彼は人をイライラさせるのが上手い。大衆の面前で牧村に近づき、ニヤニヤしながら口に手をあてて何事かをささやく曾根崎は憎たらしかった。人を5人も殺した癖にミディアムレアのステーキを食べているところなんか、殴りたくなるほどだ。それだけ演技力に長けているのだろう。しかし後半、曾根崎が実は犯人じゃなくて、仲村トオルが演じた仙堂が真犯人だと知った時の絶望感・・・。「仲村トオル、お前じゃ藤原竜也にかなわないよ」と思わず口に出してしまった笑

本作は、藤原竜也による、藤原竜也のための映画なのだろう。彼の演技さえ見ていれば後はどうでも良い。藤原の他には夏帆が良い演技をしていたが、そのくらいだった。

仲村トオルの演技がひどい

仲村トオルの演技がひどかった。一見してシリアスな演技ができる人ではない、ということが露見するひどさだ。不動産業の社会派コメディドラマ『家売るオンナ』での仲村の演技を思い出してしまった。というか、『家売るオンナ』の八代課長そのものの演技だった。戦場を渡り合った経験を持つフリージャーナリストという役柄だが、とてもそんな過酷な環境に忍耐した男とは思えない。そして、人を殺しているように見えない。こんな大根役者に殺人犯を演じさせるのは到底無理な話なのだ。

終盤での藤原竜也との対決シーンがひどい。鬼気迫る迫真の演技を見せる藤原竜也と対峙する仲村トオルは、そこら辺のちょっと見てくれの良いオヤジを間違えて連れて来たかのように思えた。それくらい、仲村トオルは、藤原竜也との演技の落差があり過ぎた。

真犯人は、戦場で、親しいドイツ人ジャーナリストを目の前で殺害された。しかし自分だけは生き残った。そこで真犯人は心にトラウマを抱えて殺人者になっていく。これが動機なのだが、かなり複雑な動機で説明も物足りないのだが、やっぱり仲村トオルが下手過ぎるのが問題だ。彼はシリアスな役を演じる、ということができない。1から演技の勉強をし直した方が良い。

演出がひどい

仲村トオルが演じた真犯人は、藤原竜也演じる曾根崎に出刃包丁で腹を深く刺される。しかし、曾根崎に力で勝って曾根崎を殴ったり蹴ったりと、強烈なアクションを見せる。ありえないだろう。しかも曾根崎は真犯人に恋人を殺されて怒り狂っている。強い殺意を持って、相当に深く、腹を刺しているはずだ。このまま死んでもおかしくない。でも、動いちゃう。こんな演出はギャグである。

22年前の事件のことで、現職刑事がテレビに出る。無理だ。もし、万が一テレビに出るとしても録画だが、生放送という設定。しかも、テレビ出演後も何らのお咎めなし。民間企業でさえ許されない暴挙を警察が認めるはずもないだろう。

こんな映画でも褒めたいところもある。何度か言及したように藤原竜也だ。彼の演技は良い。存在感があるし、この映画自体を全て支配している。あとは、殺人シーンにリアリティがあったこと。本当に殺しているように見えた。この2点で本作は最低評価を免れた。