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【映画レビュー】 ジョーカー 監督:トッド・フィリップス 評価☆☆☆☆☆ (米国)

映画『ジョーカー』の概要

映画『ジョーカー』はアメリカの映画監督トッド・フィリップスの作品。フィリップスは主にコメディ映画を監督してきた人で、『ハング・オーバー』シリーズのヒットで一躍有名になっている。『ジョーカー』の前作『ウォー・ドッグス』(日本では劇場未公開)もコメディ映画であった。そのフィリップスがホアキン・フェニックスを主演に迎えて作ったシリアスな映画が本作だ。『バットマン』の悪役ジョーカーをモデルにしながらも、全編を通じてシリアスなストーリーで笑えるシーンは1つもない。

フィリップスはジョーカーの誕生秘話として、オリジナルのストーリーを作った。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)はフリーの大道芸人でその日暮らしをしている。『ジョーカー』は、経済的困窮の中にありながらも親思いで優しかったアーサーが、いかにして『バットマン』シリーズの最強の敵ジョーカーになったかを描いた作品である。批評家に評価され、第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

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世界中で大ヒットを記録

『ジョーカー』は『バットマン』シリーズのジョーカーをモチーフに描いたアメコミ映画である。アメコミ映画はヒットする。今年に入って、『アベンジャーズ/エンドゲーム』が世界興行収入1位の座を10年ぶりに塗り替えたことが記憶に新しい。しかし『ジョーカー』はR指定作品だ。いくらアメコミ映画といえどもR指定映画がどこまで記録を伸ばせるのか。直接的な暴力描写もある。しかもヴェネチアで最高賞を受賞したことからも、エンタメというよりはアート系映画の印象を持たれる。アメコミ映画だからといって、ヒットするのか。しかし『ジョーカー』は、世界興行収入が10億ドルを突破する記録を打ち立てたのだ。

R指定映画の全世界興行収入ランキングは、1位の座に『デッドプール2』(2018)が7億8,500万ドルで輝いていた。『ジョーカー』は公開3週目にしてあっさりと『デッドプール2』から首位の座を奪った。しかも『ジョーカー』は、2019年11月には10億ドルの興行収入を叩き出す。これはR指定映画として初の快挙となる。しかも中国では未公開。にもかかわらず『ジョーカー』は世界中で大ヒットを記録しているのである。

ホアキン・フェニックスの圧倒されるほどの名演

『ジョーカー』はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。金獅子賞の選考結果について、映画祭の選考委員は主演のホアキン・フェニックスを高く評価した。例えば審査員のメアリー・ハロン(映画監督)は、「金獅子賞を授賞したため、(ホアキンによる)その演技に賞を贈ることはでき」なかったが、圧倒されるほど素晴らしい演技だと絶賛している。それほどまでにフェニックスの演技は素晴らしかったのだが、一体どれほどのものだったというのだろうか。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の孤独

フェニックスが演じたアーサーは、大道芸人スタンドアップ・コメディアンとして成功したいと夢見ている。彼はTV司会者のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に憧れていた。アーサーは経済的には困窮を極め、認知症気味の母と2人で暮らす。NYにそっくりのゴッサムシティで生きる彼は、貧困・差別・病気・福祉からの排除等といった抑圧にさらされていた。そしてアーサーは徐々に狂気を帯びていく。その狂気が外部に発露したのは職場の同僚からもらった銃である。アーサーは、地下鉄の車内で自分を嘲笑した裕福な乗客3人を射殺するのだ。貧困・差別・病気、そして福祉からの排除といった抑圧により、アーサーは孤独に陥った。

道端に落ちている石がある。その石は踏みつけられる。そして蹴られる。通行の邪魔であるとして、あるいは通行中の暇つぶしとして、もしくは子どもの遊び道具として。いずれにしても取るに足らない存在である。だが、貧困・差別・病気・福祉からの排除といった抑圧にされされた孤独なアーサーとは、まさに路傍の石ではなかろうか。そして、アーサーを演じたホアキン・フェニックス路傍の石を体現しているのだ。

アーサーがピエロの恰好をしてゴッサムシティに立ちサンドイッチマンをしている時、若者が看板を奪う。看板を追いかけるアーサー。だが、それは若者に壊されてしまった。看板がなければサンドイッチマンになれない。上司に叱責されるアーサーのうなだれた姿。また、ゴッサムシティが財政難であることから、アーサーは福祉センターからのカウンセリングを受けられなくなる。それをカウンセラーから通告された時、煙草を燻らせながら嘆息するアーサーの哀しい顔。また、アーサーはトゥレット症候群を患い、他者から気味悪がられている。電車の中でつい笑いが止まらなくなる彼に乗客は奇異の目を向ける。笑いつつも、この笑いを誰かに止めて欲しいという苦悶が聞こえてきそうな、アーサーの声。

アーサーは路傍の石である。つまらない、取るに足らない石ころだ。通行の邪魔になれば蹴られ、踏みつけられる存在だ。戯れに面白がられて子どもに蹴られて遊ばれることもあるが、それも一時のこと。誰かに愛される訳でもなく、粉々に砕かれたとしても、たかが路傍の石のことを誰にも気に留めることはないだろう。その孤独な路傍の石を真正面から受け止めて演じ切ったホアキン・フェニックスには称賛を惜しまない。確かに彼の演技は圧倒的であり彼がいなければ『ジョーカー』は成り立たなかったと言えるだろう。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の狂気

『ジョーカー』の主人公アーサーは、孤独であるが銃を手にしてウェイン証券のエリートサラリーマンを3人殺害したことから、不気味な自信を持ち始める。そして、メディアを通じてアーサーの凶行を知った貧困者たちは、殺害されたのがエリートだったという情報から犯人を称え彼のようにならんとする。犯人がピエロの恰好をしていたことから、彼の真似をしてピエロの恰好をしてデモンストレーションを行っていく。貧しい大衆が立ち上がり、いつの間にかアーサーは、正体を明かさぬまま、反権力の象徴となった。

アーサーは路傍の石である。路傍の石は取るに足らない存在である。蹴られて踏みつけられる存在である。しかし、その石ころが狂気を持って「銃とメディア」を武器にした時、大いなる岩となった。アーサーの持つ狂気とは内に秘めた狂気ではなく、行動そのものである。エリートを殺害し、同僚を殺害し、実母をも殺害するほどの彼の行動にこそ狂気が宿っていた。そして最後に彼がテレビカメラの前で殺したのは、敬愛する司会者のフランクリンである。彼が1人殺す度に狂気の階段を一歩ずつ歩み、最後にテレビカメラの前で殺害することで彼の狂気は大衆に伝播した。彼と同様に抑圧された孤独な者たちに。アーサーの行動に影響を受けた大衆の1人は、バットマンの父であるウェイン夫妻を殺害した。

言葉による狂気だけでなく、殺人という行動を示すことで狂気を体現していくアーサーに、アーサー同様に孤独な者たちは影響されていく。テレビを通じた狂気の行動が孤独な者たちに伝播されることで、アーサーは路傍の石から大いなる岩へと変貌を遂げる。そして、その変貌を演じきったホアキン・フェニックスには、またも、称賛を惜しむことができない。

抑圧される者の存在証明はどこにも見つからなかった

『ジョーカー』の主人公アーサーは、自らを路傍の石だと分かっていた。貧困・差別・病気・福祉からの排除によって抑圧された彼は、自分は取るに足らない人間だと思っている。しかし、どこかに、自分は「意味のある人間」なのではないかという思いがあった。その思いを繋ぎとめているのは、母の存在だ。母はかつて資産家トーマス・ウェイン(バットマンの父)の家で家政婦として働いていたのだが、母によるとアーサーはウェインの子どもだというのだ。

その希望を頼りにアーサーはウェイン家に行き、トーマスの息子ブルース・ウェインに会い、そしてトーマスにも会って自分が彼らの一員であることに期待する。しかし、アーサーが母親が入院していた病院から無理やり奪った診断書を見てみると、アーサーは母親の養子でありトーマス・ウェインとも血縁関係がないことが判明する。結局、トーマス・ウェインの息子という期待は廃棄せざるを得ず、母親の実子でもないことが分かったアーサーには、絶望しかなかった。抑圧される者の生きる意味などなかった。彼は意味のある人間ではなく、ナンセンスで、路傍の石でしかなかったのである。

彼が「意味のある人間」であることを求めたのは、彼が抑圧された者だからである。不自由ない収入を得て、家庭や自宅を持っている人間にとっては、別段、自分が「意味のある人間」であることを求める必要もない。「意味のある人間」であることを期待しなくても、不満を感じることがないからだ。それは、彼ら彼女らが抑圧されず、孤独でもないからだ。しかしアーサーのように、貧しく、差別され、病気を持ち、福祉から排除された人間にとって、「意味のある人間」であることは、彼の存在証明だった。にもかかわらず、その希望が潰えた時、彼はジョーカーとならざるを得なかったのではあるまいか?

『ジョーカー』の持つ共感力の怖さ

『ジョーカー』は抑圧される者の孤独と狂気を描いている。誰しもが共感できる孤独ではないし、狂気ではないだろう。しかし『ジョーカー』は、アーサーの孤独と狂気に大衆からの支持があるように描写した。ここに映画『ジョーカー』の持つ不気味さ、恐ろしさ、怖さがある。アーサーを必ずしもネガティブに描いていない『ジョーカー』。本作は、アーサーに共感し彼を仰ぎ見る大衆も描いていた。本作がアーサーを仰ぐ大衆を描いたことで、観客が大衆と接続されて、アーサーに共感する人も出てくる。

なぜ観客が大衆と接続されるのかというと、既に、アーサーを支持する大衆を描く前に、アーサーの持つ孤独に共感させているからだ。アーサーのように貧困に陥る者、差別される者、病気に罹った者、福祉に排除された者は、『ジョーカー』が丁寧に描くアーサーの孤独に共感する。あるいは、抑圧された経験を持つ者も共感するかもしれない。あるいは、抑圧者を助けている者も共感するかもしれない。あらゆる観客が『ジョーカー』に共感することはない。だが、本作が描いたような孤独に関わる人たちに対して共感させる力を、本作は持っている。本作は、アーサーの持つ孤独が行動する狂気に繋がり、そして大衆の支持を取り付けたプロセスを描いたことで、映画が持つ共感力の怖さを示してくれる。

【映画レビュー】 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 監督:クエンティン・タランティーノ 評価☆☆☆☆☆ (米国)

クエンティン・タランティーノについてのおさらい

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、アメリカの映画監督クエンティン・タランティーノの9作目の作品。タランティーノは、1992年、『レザボア・ドッグス』でデビュー以来、『パルプ・フィクション』でオムニバス形式を用いて物語を解体する映画を作り、『イングロリアス・バスターズ』で反歴史的映画を作った。彼の監督作は批評家の評価も高く、『パルプ・フィクション』でカンヌ映画祭パルムドール、米アカデミー賞脚本賞、『ジャンゴ』で2度目の米アカデミー賞脚本賞を受賞している。

タランティーノは自身が映画マニアを自称しているだけあって、彼の監督作品にはオタク的な映画の知識が散りばめられている。作品も一般大衆に受けるというよりはマニア向けの作品という印象を観客に抱かせるだろう。とはいえ彼の作品はマニア向けといいながらヒット作も生まれていて、『ジャンゴ』で4億2千万ドル、『イングロリアス・バスターズ』で3億2千万ドルの興行収入を挙げている。

尚、タランティーノは、かねてより映画を10本撮ったら引退すると公言しており、その公言通りならあと1本で引退することになる。

タランティーノによる映画に関するおとぎ話

タイトルの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とは、「昔々ハリウッドで・・・」という意味。おとぎ話でいうところの「昔々あるところに・・・」の語り口のようであるが、その通りで、本作はタランティーノによる映画に関するおとぎ話である。本作は1969年に発生したハリウッド女優シャロン・テート殺害事件を題材として、テレビ俳優リック・ダルトンと、彼のスタントマンであるクリフ・ブースという2人の架空の人物を主軸にした物語。「昔々ハリウッドで・・・」語られるおとぎ話とは、過ぎし日のハリウッド映画界に対するタランティーノ流の賛歌である。

シャロン・テート殺害事件とは?

シャロン・テートは、米テキサス州出身のハリウッド女優。非常に美人でセクシーな魅力を持っていた。1968年、『ローズマリーの赤ちゃん』『テス』『戦場のピアニスト』等で知られるロマン・ポランスキー監督と結婚した。彼女は1969年に、カルト指導者チャールズ・マンソンの信奉者たちによって殺害された。当時、彼女は妊娠8カ月であり、ポランスキー監督の子どもを宿していたがお腹の子どもと共に殺害されてしまった。このことを知ったポランスキー監督は、滞在中の英国で泣き崩れたという。

本作ではシャロン・テート殺害事件という悲劇を題材としており、この事件を知っていることを前提として作られている。もしシャロン・テート殺害事件を知らないまま映画を見ると、単なるスリラー映画としてしか受け止められず、タランティーノがタイトルに込めた「昔々ハリウッドで・・・」というおとぎ話の意味合いは薄れてしまうことだろう。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のキャスト紹介

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には多くのキャストが出演している。主演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの2人、シャロン・テート役にマーゴット・ロビー。ディカプリオとピットは映画初共演。

レオナルド・ディカプリオ

レオナルド・ディカプリオはテレビ俳優リック・ダルトン役で出演。彼がタランティーノの映画に出演するのは『ジャンゴ』以来2度目である。本作では、落ち目の俳優リック・ダルトンを余裕たっぷりに演じる。ダルトンは架空の人物。

ダルトンはテレビ俳優から映画俳優への移行がうまくできずに悩んでいた。仕事がうまくいかないことからアルコール中毒躁鬱病に悩む。撮影時に台詞を忘れたり、控室の車内で鏡に映る自分に向けて大声で怒鳴ったり、そうかと思えばハイテンションになったりと精神的に不安定であった。ダルトンは落ち目の中、イタリア映画に出演することを勧められ「イタリア映画なんかに!」と落胆する。しかし共演した子役との会話を通じて演技への情熱をふるいたたせたダルトンは、悪役として凄絶な演技を見せ監督から絶賛される。そしてイタリアへと旅立つのであった。

ブラッド・ピット

2人目の主人公クリフ・ブースを演じるのはブラッド・ピットである。ブースは架空の人物。ピットがタランティーノの映画に出演するのは『イングロリアス・バスターズ』以来2度目である。

ブースは精神的にタフな男である。ブースは常にヘラヘラと笑っていて穏やかそうだが、妻殺しのエピソードや、ブルース・リーを叩きのめしたシーンなどから、彼には不気味な暴力性を感じる。ブースの役柄は『イングロリアス・バスターズ』のレイン中尉よりももう少し凶暴である。むしろブラッド・ピットが過去に演じた、ガイ・リッチー監督作『スナッチ』のミッキー・オニールの方が似ている。クリフ・ブースが、映画のラストで活躍する犬を飼っているのも、『スナッチ』の犬を思い出させた。

ブースは俳優ダルトンのスタントマンで、時にはドライバーや雑用係などを務める。ダルトンにとってブースは親友である。ブースは、普段はキャンピングカーに住んでいてそこで犬を飼っている。犬は凶暴だがブースに忠実である。ダルトンの動と対照的にブースは静である。妻殺しを理由に相手から罵倒されても意に介さない。チャールズ・マンソンのカルト集団を訪れて、メンバーの不気味なたたずまいを見ても動じない。見ている私たちはハラハラしているのだが、彼はカルト集団の中をずんずんと歩いていく。この精神面のタフさがブースという男の柱である。

マーゴット・ロビー

3人目の主人公といっても良いシャロン・テートを演じるのは、マーゴット・ロビーというオーストラリア出身の女優。キャリアの初期に、マーティン・スコセッシ監督作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でディカプリオと共演した経験がある。ロビーがタランティーノの映画に出演するのは初めて。シャロン・テートは実在の人物で、ハリウッド女優であった。美しい女優でロビーの美貌はテートに劣らない。身長もロビーとテートはほぼ同じである。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の物語はシャロン・テート殺害事件を題材としている。映画を見る者は、シャロン・テートがいつ死ぬのか、どのようにして殺されるのかを気にかけながら見ることだろう。

テートは映画の中で、映画の女神のような存在として描かれている。街を闊歩する姿、パーティで楽しく踊る姿、そして、シャネルのカバンを持って自身の映画を見に行き「出演者なんだけど割引になる?」と聞く姿、劇場の観客の反応を聞いて喜ぶ姿など、彼女のかわいらしさは際立っている。こんなに魅力的な女性がマンソン・ファミリーによって惨殺される結末が待っているかと思うと、見る者としてはやりきれない気持ちにもなる。

アル・パチーノ

私が好きな俳優の1人、アル・パチーノタランティーノ監督初参戦。御年79歳とは思えぬ渋さで潤いでプロデューサー役を演じた。

ラファル・ザビエルチャ

ロマン・ポランスキーは映画監督でシャロン・テートの夫。テートはポランスキー以前に婚約していた男がおり、彼もポランスキーも小柄だったことから、テートの好みは知的で小柄な男と評される。作中では、ポランスキーは重要な人物としては描かれない。

マーガレット・クアリー

カルト集団の1人で、クリフ・ブースをリクルートしようとするかわいい女性。ヒッチハイクのために何度かブースの車にジェスチャーした。数度の失敗の果てにヒッチハイクに成功し、ブースにフェラチオをしようとするが「子どもと性的行為をして逮捕されたくない」と軽くあしらわれる。プッシー・キャットを演じたのはマーガレット・クアリー。

ダコタ・ファニング

赤毛の女と呼ばれる女性で、カルト集団の1人。クリフ・ブースの旧友であるジョージの愛人のような女性。リネット・フラムを演じたのは名子役として知られたダコタ・ファニングである。ファニングは、ショーン・ペンの娘役で出演した『アイ・アム・サム』での演技が評価された女優であった。子どもの頃のかわいらしい顔つきと違って、カルト集団の1人として存在しても違和感のない風貌に変わっている。威圧的な存在感は流石であった。

ジュリア・バターズ

最後はトルーディという、リック・ダルトンの共演者を演じたジュリア・バターズについて語ろう。彼女はリック・ダルトンに演技者としての誇りを思い出させる8歳児の天才子役である。トルーディを演じるジュリア・バターズの演技力が破壊的で、役者論を語ったり、ディズニーの伝記を読みながらダルトンに解説してみせたりする。彼女との会話で、ダルトンは演技者としてどうあるべきかを悟った訳なので、トルーディは重要な人物だ。

その他のキャスト

その他、タランティーノ作品の常連であるティム・ロスマイケル・マドセンカート・ラッセルが出演しているが、私はマドセンにしか気付かなかった。さらにタランティーノ監督自身もカメオ出演しているようだが、全く気付かなかった。

虚構が現実を虚構にさせること

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、テレビ俳優リック・ダルトンと彼のスタントマンであるクリフ・ブースの2人を軸に描かれる。シャロン・テートの自宅の隣がダルトンの自宅という設定で、テートとポランスキー夫妻は、映画俳優への移行に失敗するダルトンとは対照的に、明るく、これからの時代を象徴するかのように描かれていた。

ダルトンとブースはいつも一緒にいる。ダルトンはアル中と躁鬱病に悩み、仕事があるのに酒をたくさん飲んでしまって台詞が飛び、後悔するあまり控室で鏡の中に写る自分を徹底的に罵倒する。彼は映画俳優への移行がうまくできない現状を憂い、理想的な俳優像を描いている。イタリア映画には出たくないと嘆くが、子役のトルーディとの会話によって演技者としての誇りを取り戻し凄みのある演技を見せる。

ブースはダルトンのスタントマンで、精神的にタフな男だ。妻殺しの噂がある男で、ヘラヘラ笑って穏やかそうに見える中にも狂気が垣間見える不気味な男である。だから、彼はチャールズ・マンソン率いるカルト集団の中に入っていっても動じることがない。旧友のジョージに会いたいというが、カルト集団たちは寝ているからダメだというのに無視して会いに行こうとする。「寝ているから」という言葉の裏には、ブースにジョージには会わせたくない意図があるのは明白なのに、ブースは意に介さない。この傲岸不遜の態度は恐ろしく、ブースの周りで何かしらの出来事が起こる予感を感じさせた。

ダルトンとブースの物語は虚構である。彼ら2人が架空の人物なのだから。しかし、虚構の2人がいることで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中の”映画史”を塗り替える。彼らの存在こそが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』において現実を虚構にしてしまう魔術が行われる引き金になる。

映画史を塗り替えるタランティーノ監督の魔術

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、実在の事件を題材にしている。それも、シャロン・テート殺害事件という痛ましい事件を題材にした。シャロン・テートロマン・ポランスキー監督の妻で、お腹の子もろとも、カルト集団に惨殺されてしまうのだ。

私たちはその事実を知った前提で、本作を見ている。2時間40分という長さの中で、いつ、どこでシャロン・テートが殺害されるのかが気にかかっているのだ。リック・ダルトンの俳優としての苦しいキャリアも、クリフ・ブースの不気味な笑顔も、シャロン・テートの艶やかな姿態も、全てがシャロン・テート殺害事件に行き着くことを予想する。問題は、いつ・どこでテート殺害事件が発生するのかである。

しかし、私たちは予想を覆されてしまう。シャロン・テートは殺されないのだ。現実の世界でシャロン・テートを殺したカルト集団たちは、リック・ダルトンの家に押し入るのである。現実の世界では、カルト集団はシャロン・テートの家に押し入るのだが、映画ではダルトンの家に押し入る。そして、カルト集団がダルトン、ブースを殺してテートを殺すのかと思いきや、クリフ・ブースとの激闘を経て返り討ちに遭うのだ。

映画のラスト、リック・ダルトンシャロン・テートの家を訪れる。テートの元婚約者が「何かあったのか?」とダルトンに聞いたからだ。ダルトンは紳士的に元婚約者とテートに接する。今まで隣人同士、一度も顔を合わせたことがなかったテートとダルトンは、ここで初めて顔を合わせた。いつ・どこで殺されるのか?と思っていた私たちの予想を覆し、これからの時代を象徴するテートと古い時代を象徴するダルトンが邂逅する。タランティーノは古い時代も新しい時代も、双方の映画史を愛する。そのためには、誰にも新しい時代を象徴するテートを殺させない訳だ。私は、タランティーノ監督の映画の魔術が、ここに表現されていると感じた。

もし、リック・ダルトンとクリフ・ブースがいなかったら?シャロン・テートは殺されていただろう。カルト集団が押し入った家がダルトン家であったとはいえ、これまで抑制していたクリフ・ブースの暴力性が開花することで、カルト集団は無残にも返り討ちにあったのだから。映画史では、シャロン・テートは殺される。それは映画史にとってむごたらしい現実だ。しかしタランティーノ監督が2人の男を想像することで、映画史は塗り替えられる。この結末はタランティーノ作品の中では異色で、ほのぼのと暖かみのあるエンディングであった。

【映画レビュー】 ビッグ・リトル・ライズ シーズン1 監督:ジャン=マルク・ヴァレ 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (米国)

『ビッグ・リトル・ライズ シーズン1』は米国のテレビドラマである。『セックス・アンド・ザ・シティ』『ゲーム・オブ・スローンズ』を手掛けたHBOが贈るサスペンス。シーズン2は製作中で、米国では2019年に放送される模様。日本での放送日は2019年7月31日(水)ということが決まっている。シーズン2にはメリル・ストリープがキャストに入っている。

待望の最新シーズン!『ビッグ・リトル・ライズ2』7月31日(水)日本最速放送決定 | サスペンス | ニュース | 海外ドラマNAVI

本作はドラマなので、映画レビューで紹介すべき作品ではないのだが、傑作だったので紹介していこう。

作品のプロフィール

『ビッグ・リトル・ライズ』の監督を務めたのはジャン=マルク・ヴァレというカナダの映画監督だ。彼が監督した映画には『ヴィクトリア女王世紀の愛』『わたしに会うまでの1600キロ』などがあるそうだが、私はどれも知らない。『ビッグ・リトル・ライズ』が傑作で、同作をヴァレ監督が最初から最後まで監督しているので、彼の監督作には注目していきたくなるほどだ。

『ビッグ・リトル・ライズ』の製作総指揮には、主演でもあるリース・ウィザースプーンニコール・キッドマンが名を連ねた。どちらもアカデミー主演女優賞の栄誉を受けている。ちなみにウィザースプーンはヴァレ監督の『わたしに会うまでの1600キロ』にて主演、アカデミー主演女優賞にノミネート。

ウィザースプーンははっきりとした価値観を持ち、その観点に合わない者には攻撃的になる女性を演じた。キッドマンは美しく聡明な元弁護士を演じている。双子を設け、美形で高身長で仕事ができる弁護士を夫に持つ。幸せな女性に見え、友だちにも幸せな生活を送っているように演じるが、実態は夫に虐待されていた。本作では上半身ヌードをさらしている。

その他のキャストでは、シェイリーン・ウッドリーローラ・ダーンアレクサンダー・スカルスガルドなど。ウィザースプーン、キッドマン、ウッドリー、ダーン、スカルスガルドの演技はおしなべて素晴らしかった。なおダーンはウィザースプーン同様に『わたしに会うまでの1600キロ』に出演している。

『ビッグ・リトル・ライズ』は第75回ゴールデングローブ賞・テレビムービー部門(2018年)にて4部門(作品賞・主演女優賞・助演女優賞助演男優賞)で受賞した。原作はリアーン・モリアーティという作家の小説。創元推理文庫で『ささやかで大きな嘘』というタイトルで発売されている。原作の方が良いタイトルだ。

誰かが殺された!しかしその誰かが誰なのかは、最後まで分からない

『ビッグ・リトル・ライズ』では、1話にて誰かが殺された事実が明かされている。しかし殺された誰かとは何者かについて、また、殺人者については一切触れられていない。しかも、事実を語るのはパーティの出席者であり、警察への質問に応える形で語っているのだ。一体誰が、誰に、殺されたというのか?この謎は最終話まで語られることがなかった。

パーティの出席者が語るのは、誰かが殺されたことについてだけではない。ストーリーが進むにつれて、主要キャストについてエピソードを語っていく。彼ら彼女らが警察の質問に応える形でしゃべっているのは、噂話である。だが、パーティの出席者が語る噂話という構図は、『ビッグ・リトル・ライズ』の世界観が噂話で成り立っていることを象徴する。

『ビッグ・リトル・ライズ』の舞台は、アメリカ・カリフォルニア州モントレーにある高級住宅街。マデリン、セレステ、レナータはセレブ女性である。マデリンもセレステもレナータも、一見、幸せそうに見える。だが、噂話に象徴されるように彼女らには裏の顔がある。徐々に剥がされていく幸せの仮面。「幸せ以外は、ぜんぶある。」という本作のキャッチコピー(公式HP)をなぞるように、セレブ女性の裏の顔が見えてくる。そんなセレブな住宅街に引っ越してきたのはジギー。「幸せ以外は、ぜんぶある。」というキャッチコピー。新参者のジギーも例外ではない。

噂話や登場人物の行動によって、徐々に明らかになる人間の深い闇。誰かが殺され、その誰かが誰であり、殺人者が誰であるかという、メインのストーリーを追いつつも、登場人物たちの陰鬱な過去の出来事や心理状態などがエピソードとして描かれることによって、マデリン・セレステ・ジギー・レナータ等を取り巻く闇は、いっそう深くなる。

映像の美しさに心惹かれていく

『ビッグ・リトル・ライズ』を見ていて、映像の美しさに感嘆した。モントレーは海沿いにあるのか、浜辺のシーンが出てきたり登場人物の邸宅の目の前が海だったりする。マデリン、セレステ、レナータ等の邸宅が瀟洒である。また、マデリンがセレステやジギーと一緒にお茶をしに行くカフェの雰囲気が良い。マデリンを演じるのはリース・ウィザースプーンなのだが、存在感が抜群である。強い自論を持っていて、思考が合わない人は徹底的にののしる。だが、マデリンはあまり下品にならずに、セレブ妻の矜持を保っていた。彼女を演じたウィザースプーンの演技力が高かった。仲の悪いレナータ(ローラ・ダーン)のことを愚痴っているだけで絵になるのである。

あとはセレステを演じたニコール・キッドマンは、元弁護士で、今は専業主婦に収まっている知的な美人を演じた。彼女は夫のペリー(アレクサンダー・スカルスガルド)に虐待されているのだが、精神科医以外には言えないでいる。親友であるはずのマデリンにさえも、仲の良い夫婦と目されているくらいだ。理想と現実に懊悩し、誰にも言えないでいる美人をキッドマンは演じる。キッドマンが出てくるだけで溜息が出るほど、美しかった。

闇が人の心の奥底に落ちていく

『ビッグ・リトル・ライズ』はミステリーを題材にしているが、トリックがある訳でもないし、どんでん返しがある訳でもない。最終話を見れば誰が殺されて、誰が殺人者なのかは、直ぐに分かる。だからミステリーを題材にしているけれども、ミステリーとしての価値が高い訳ではない。むしろ本作は、人の心をじっくりと描いた作品と言った方が良いだろう。それゆえに、本作は再見に耐える。

不倫、DV、子ども同士のいじめ、他者への悪口(マウンティング)など、家庭生活を送っていれば、ありふれた出来事が次から次へと降ってくる。だが、それら、ありふれた出来事によって人の心は闇に蝕まれる。出来事を契機として、闇が人の心を食んでいくのだ。それは、被害者も加害者も同じである。例えばセレステを殴っているペリーの顔には悲しみが漂っている。ペリーには暴力を振るうことへの快楽は微塵も感じられない。ペリーは、暗く、淀んだ生を生きているかのようだ。

だが、だからといって『ビッグ・リトル・ライズ』に描かれた登場人物がおしなべて暗い訳では決してない。明るくしゃべったりするし、バカ騒ぎをしたりもする。しょっちゅう闇に蝕まれている訳ではないのが人間であろう。ただし、ペリーとセレステだけはちょっと別だが。

『ビッグ・リトル・ライズ』には子どもも出てくる。突然キレてしまうジギーの息子。ジギーにいじめられたと訴えるレナータの娘。早熟なマデリンの娘。本作の子どもはステレオタイプ的な子どものイメージから離れて、心の赴く先があっちへ行ったりこっちへ行ったりと揺れ動いている。だが、本来、子どもというのはそういうものだ。「子どもは残酷だ」「子どもは純粋だ」というようなステレオタイプから離れて、残酷になったり純粋になったりするのが子どもだ。つまり、大人とそう変わりないということ。

闇が人の心の奥底に落ちていく過程を丹念に描いた『ビッグ・リトル・ライズ』。登場人物のそれぞれが、善と悪が混交した複雑な人物像になっている。それゆえに、映像でありながら彼ら彼女らの立ち振る舞いは現実的であり、どこか自分の知己の物語を見ているような気にさえ、なってくる。

【映画レビュー】 22年目の告白 私が殺人犯です 監督:入江悠 評価☆☆★★★ (日本)

藤原竜也が全て

『22年目の告白 私が殺人犯です』は藤原竜也主演のスリラー映画。22年前に5人の連続殺人事件が起こる。事件は時効となっていた。ところが、連続殺人事件の真犯人・曾根崎(藤原竜也)が突如、マスコミの前に姿を現す。「私が殺人犯です」という22年前の殺人事件を赤裸々に語った書物を手にして。曾根崎はホテルで記者会見を開き、圧倒的に派手なパフォーマンスを行ってメディアの前に姿を現した。彼は容姿端麗で落ち着いていて、知的なしゃべり方をする。殺人犯にしては、ちょっと外見が良い。

そしてメディアやネット上では、曾根崎をアイコンのように持ち上げる。22年前の事件で尊敬する上司を殺害された牧村(伊藤英明)は、大衆にも、そして曾根崎自身に対して怒りに震えていた。曾根崎はなぜ、22年目のタイミングで告白本を書いたのか?「名を売りたかった」というが、彼の真意は何なのか?

曾根崎を演じた藤原竜也は圧倒的な存在感。彼は人をイライラさせるのが上手い。大衆の面前で牧村に近づき、ニヤニヤしながら口に手をあてて何事かをささやく曾根崎は憎たらしかった。人を5人も殺した癖にミディアムレアのステーキを食べているところなんか、殴りたくなるほどだ。それだけ演技力に長けているのだろう。しかし後半、曾根崎が実は犯人じゃなくて、仲村トオルが演じた仙堂が真犯人だと知った時の絶望感・・・。「仲村トオル、お前じゃ藤原竜也にかなわないよ」と思わず口に出してしまった笑

本作は、藤原竜也による、藤原竜也のための映画なのだろう。彼の演技さえ見ていれば後はどうでも良い。藤原の他には夏帆が良い演技をしていたが、そのくらいだった。

仲村トオルの演技がひどい

仲村トオルの演技がひどかった。一見してシリアスな演技ができる人ではない、ということが露見するひどさだ。不動産業の社会派コメディドラマ『家売るオンナ』での仲村の演技を思い出してしまった。というか、『家売るオンナ』の八代課長そのものの演技だった。戦場を渡り合った経験を持つフリージャーナリストという役柄だが、とてもそんな過酷な環境に忍耐した男とは思えない。そして、人を殺しているように見えない。こんな大根役者に殺人犯を演じさせるのは到底無理な話なのだ。

終盤での藤原竜也との対決シーンがひどい。鬼気迫る迫真の演技を見せる藤原竜也と対峙する仲村トオルは、そこら辺のちょっと見てくれの良いオヤジを間違えて連れて来たかのように思えた。それくらい、仲村トオルは、藤原竜也との演技の落差があり過ぎた。

真犯人は、戦場で、親しいドイツ人ジャーナリストを目の前で殺害された。しかし自分だけは生き残った。そこで真犯人は心にトラウマを抱えて殺人者になっていく。これが動機なのだが、かなり複雑な動機で説明も物足りないのだが、やっぱり仲村トオルが下手過ぎるのが問題だ。彼はシリアスな役を演じる、ということができない。1から演技の勉強をし直した方が良い。

演出がひどい

仲村トオルが演じた真犯人は、藤原竜也演じる曾根崎に出刃包丁で腹を深く刺される。しかし、曾根崎に力で勝って曾根崎を殴ったり蹴ったりと、強烈なアクションを見せる。ありえないだろう。しかも曾根崎は真犯人に恋人を殺されて怒り狂っている。強い殺意を持って、相当に深く、腹を刺しているはずだ。このまま死んでもおかしくない。でも、動いちゃう。こんな演出はギャグである。

22年前の事件のことで、現職刑事がテレビに出る。無理だ。もし、万が一テレビに出るとしても録画だが、生放送という設定。しかも、テレビ出演後も何らのお咎めなし。民間企業でさえ許されない暴挙を警察が認めるはずもないだろう。

こんな映画でも褒めたいところもある。何度か言及したように藤原竜也だ。彼の演技は良い。存在感があるし、この映画自体を全て支配している。あとは、殺人シーンにリアリティがあったこと。本当に殺しているように見えた。この2点で本作は最低評価を免れた。

【映画レビュー】 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 評価☆☆★★★ (日本)

あらすじ

同名のライトノベルが原作の恋愛映画。福士蒼汰主演。他のキャストに小松菜奈東出昌大。京都の美術大学に通う男子学生・南山高寿(みなみやま・たかとし)は、通学中の電車で、若い女性に一目惚れをする。この機会を逃してはならないと、思わず声をかけ「一目惚れをしました」と告げて笑顔をもらう。携帯を持っていないという女性に、「また、会えるかな」と尋ねた高寿。女性は「また、会えるよ」と答えるが目には涙が光っていた。

ダサい男がカッコよくなるべきだった

高寿は奥手で、女性と付き合うのも初めて。対する女性の福寿愛美(ふくじゅえみ)の方も初めての恋愛。高寿を演じるのが福士蒼汰。私は彼の演技を見るのが初めて。ネットでは演技が下手だと叩かれているが、そんなに悪くなかった。反対にヒロイン役の小松菜奈は、かなりかわいらしい雰囲気であるが、感情を抑制した演技をしてしまっていて、役になりきれていなかった。福士はクールな役柄ながら、バスの中で嗚咽したり、愛美と心が通じ合えず茫然としたりする場面など良い味を出して演じている。

ただ、この映画は演出が下手くそ。高寿は当初、眼鏡をかけたダサい男という設定なのだが、高寿の見た目があまりダサくないのだ。眼鏡をかけて、ちょっと変な服装をするだけでは物足りない。思いきって、『電車男』の山田孝之みたいにリュックをしょって、長髪でオタクっぽいダサさがないと、女性に出会ってカッコよくなっていくプロセスが見えない。福士は何とかダサい男を演じようとしていたが、彼の美男ぶりが透けて見えるほど見た目が悪くないのである。

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高寿は途中で愛美に髪をカットしてもらうのだが、元々さほど酷い髪形でないので、カットしてもらっても変化を感じなかった。眼鏡男子という言葉が昔流行ったが、あんな感じで「ちょっと服装が変だけど良い男だよね」と思われる見た目だ。こういう重要な設定に手を抜いてしまう映画なのだ。

肝心のパラレルワールドの設定が意味不明である

ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という恋愛映画には、ファンタジー要素が入っている。時間軸が混乱しているようなタイトルなのは、そのためだ。ねたばらしをすると、女性の愛美はパラレルワールドの世界に生きている。しかもパラレルワールドの時間軸は、高寿とは逆である。男性の高寿の時間は過去→現在→未来という時間軸に生きるが、愛美は未来→現在→過去に生きているのだ。

パラレルワールドは5年ごとに交差し、2人は会えるようになるという。高寿と愛美は共に20歳。時間軸を逆に生きているので、高寿が25歳になると、次に愛美に会った時に彼女の年齢は15歳になってしまう。更に高寿が30歳、35歳を迎えていくと愛美は10歳、5歳となる。5歳の次は0歳なので2人が出会えるのは、高寿35歳、愛美5歳までということになる。次に高寿が愛美に出会う時、彼女の年齢は15歳なので、もはや恋愛はできない。したがって、恋愛ができるのは20歳であるこの時間、しかもわずか30日間だけというのが、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のテーマ。

このパラレルワールドの設定が映画の肝なのだが、意味が良く分からなかった。単に未来の人で良いんじゃないかと思ったのに、わざわざ分かりにくい設定にしている。パラレルワールドなのに2人が出会える理由は、高寿が35歳の時に5歳の愛美を助け、愛美が35歳の時に5歳の高寿を助けたからというもの。その設定自体はおかしくないけれど、パラレルワールドにした意味が分からない。

20歳の時、30日間だけ愛し合える恋愛というアイディアを先行して、作られたストーリーなのだろうが理解しにくい。高寿は私たちと同じ時間軸を生きているので過去の記憶があるが、愛美は高寿からいえば未来から始まっているので、同じ過去を共有した記憶を持たない。その切なさを描きたいなら、若年性認知症の女性を愛する男性の物語にすれば、まだしも理解しやすかった。そうなるともはやファンタジーではなくなるし、本作のような個性はなくなるが、映画を見る人にとってはよほど分かりやすいはず。

フィクションだからこそリアリティを追及せよ

フィクションだからこそリアリティを追及して欲しいものだ。特に『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のように、分かりにくいパラレルワールドの設定にするなら、相当に設定を細かく決めないと見ている方は感情移入できない。

一番分からないのは、高寿の世界にいる間、愛美はどのように過ごしているのかということ。家族と一緒にパラレルワールドから高寿の世界に来ているのか?それにしては、家族の姿が一切描かれないのはどうした訳か。彼女だけ来ているのか?そうすると自宅の電話番号はなぜ繋がるのか?パラレルワールドでしか使えない番号なのか?そこらへんの説明が全くない。

愛美にとっては、彼女は時間をさかのぼっていくので、高寿との経験を全然共有できていない。そんな男と、そもそも、愛をはぐくもうと思うだろうか。この点は高寿にとっても同様である。なお時間をさかのぼる愛美は、高寿が生きている時間を生きていないのでいわば記憶がない。それゆえに、高寿が教えてくれたメモを頼りにデートをするのだが、そんなことをしてどうするのだろうか。どう感情が交流するのだろうか。もっとリアリティを追及してもらいたい。