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【書評】 トラペジウム 著者:高山一実 評価★★★★★ (日本)

トラペジウム

トラペジウム

いやぁキツかった。通勤中に読もうと思っていたのだが、全て読み切ることが叶わなかった。タレントが書いた小説で感心したことはないが、本作に比べれば又吉直樹の『火花』は良い。『火花』は文章になっていて最後まで読むことができたからだ。しかし『トラペジウム』は無理だった。

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セリフも地の文もこなれておらず、ゲラの状態で出版してしまったかのようだ。高1の女子の一人称の小説なのに、「榊原郁恵のようだ」とか「お蝶夫人」とかいう比喩が出てくる。アラフォーの私でさえ、榊原郁恵を思い出すのに時間がかかるのに、16歳の女子が比喩として使うタレントとしてどうなんだろうか。まあ、私がほとんどテレビを見ないせいもあるが、16歳の女子にとって榊原郁恵はメジャーなタレントなのだろうか。

『暗黒ハローワーク』もひどい文章だったが、あれは最後まで読ませてくれた。なぜなら、『暗黒ハローワーク』の文章はブログのような文章だったからだ。ブログの文章は、細部まで読むかどうか分からないが、とりあえずざっと最後までは読ませてくれる勢いがある。しかし本作にはそれが見当たらない。Amazonの批判的レビューを読むと、本書を「ラノベ」だと言って批判している人がいたが、『暗黒ハローワーク』を読んだ後ではラノベの方がまだマシかもと思える。少なくとも『暗黒ハローワーク』は、小説の設定に面白さを感じたからだ。

著者は乃木坂46のメンバーだそうだ。乃木坂はAKBよりはかわいい女の子がいると思う。だから私もひいき目に見て本書を図書館から借りたのだが・・・。危なかった。もしお金を出して買っていたら破り捨てていただろう。それにしても、本書の帯に名前を載せている中村文則羽田圭介はどういうつもりで帯を書いたんだろう。どっちも私の嫌いな作家だからどうでも良いんだが。

ということで、『官能小説を書く女の子はキライですか?』と並んで本作を歴代最下位に推す。

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【書評】 暗黒ハローワーク 俺と聖母とバカとロリは勇者の職にありつきたい 著者:久慈マサムネ 評価☆☆★★★ (日本)

文章は酷い

『暗黒ハローワーク』という奇異なタイトルに興味を持って読んでみた。ライトノベルらしく文章は退屈。ネットに転がっているブログ記事みたいで素人が書いたような文章だ。
文章を読んでも情景をイメージすることが難しいし、平板なセリフの数々からはキャラクターの魅力を捉えにくい。文章を読んで何かをイメージしたり感興を引き起こされるというよりも、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていく感じだ。これでは小説の意味を成さない。小説として世に出す意味が分からないのだ。

『暗黒ハローワーク』はアニメのシナリオである

小説の意味を成さないのに、小説として世に出ている本作は、いったい何なのか。小説としては存在する価値はないが、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていくという、本作の消費のされ方から考えると、小説ではなくアニメのシナリオとして考えれば良い。小説は、文章を読むことで情景をイメージしたり感情を刺激されたりする。だが『暗黒ハローワーク』の文章は、生起した事実を無味乾燥な文章で書き連ねているため、情景のイメージや感情への刺激はほとんど起こらない。

もしこの文章がアニメで描かれるとするなら、キャラクターの台詞は声優がしゃべり、BGMが付いたりするので、小説として存在する価値がない『暗黒ハローワーク』も、多少は面白みを帯びるかもしれない。しかしなぜわざわざ私は小説として価値がない小説に、別の価値を見出そうとしたのか。答えは『暗黒ハローワーク』の設定に多少の興味をそそられたからである。

ファンタジーのノリで就活を描く

本作は小説としては面白くないが、設定が興味深い。主人公たちは就活中の学生。しかし目指すべきは大手企業ではなく、勇者。そして勇者としてホワイトなファンタジー世界へ送り込まれたいと思っている。ホワイトなファンタジー世界というのが、現実でいえばホワイトな大手企業なのだろう。

主人公たちは東京ビッグサイトに行って、説明会に行く。そこは会社説明会ではなく勇者説明会なのである。そこでいかに自分達が勇者として優れているかをアピールし、ホワイトなファンタジー世界へ行こうとするのだ。誰しも一度は通る、就活の道。現実の就活をファンタジーに置き換えることで、読者の興味を引きながら本作の世界観へ浸からせていく。ファンタジーのノリで就活を描いているのだ。

だから、設定の価値を優先的に考えれば、小説としては紙くずのような本作も蘇生する余地があるように思えた。それは、アニメである。アニメとして「転生」できれば、『暗黒ハローワーク』は設定を活かして世に羽ばたくことも不可能ではない。本作は、そういう奇妙な期待を抱かせる作品である。

【書評】 黒い家 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆★ (日本)

黒い家 (角川ホラー文庫)

黒い家 (角川ホラー文庫)

『黒い家』はホラー小説の良作

『黒い家』は貴志佑介のホラー小説。1997年発表。1999年に森田芳光によって映画化され、2008年に韓国でも映画化されている。貴志佑介の後の傑作『悪の教典』同様に、共感性が欠落した人物をテーマとしている。犯人の菰田幸子が主人公を追跡してくるシーンが強烈な印象を残し、ホラー小説として良作と言える。デビュー後、最初の長編小説がこのレベルなのだから、貴志佑介は期待された作家だったのだろう。実際、貴志は『悪の教典』という傑作を発表したのだから、その期待に大いに答えた作家であろう。

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あらすじを簡単に述べる。

主人公の若槻慎二は、大手生命保険会社「昭和生命」京都支社で働いている。有能だが、現在の仕事にはそれほどやりがいを感じておらず、なんとなく日常を過ごしている。恵という院生の恋人がいるが、セックスしようと思っても萎えてしまってできないでいた。ある時、菰田重徳という不気味な男から自宅に来るように言われた慎二は、自宅で重徳の子どもの首吊り死体を発見してしまう。事件性を感じる慎二だったが警察は自殺と断定する。しかし慎二は、重徳の犯行であると睨んでいた。

ただそこに座っているだけで恐怖を与える男

『黒い家』は、菰田重徳という男の家に、主人公の若槻慎二が訪れるところから恐怖が始まる。重徳の家は黒い家と称したくなるほど深い闇に捉われていた。慎二はそこで重徳の子どもの首吊り死体を発見する。重徳による殺人だと察した慎二は、警察による逮捕を望んでいた。

一方、重徳は、子どもに昭和生命の生命保険をかけていた。しかし警察が重徳の子どもの死因を断定しないために、なかなか保険金は支払われない。重徳は昭和生命に毎日のように赴き、昭和生命のスタッフに心理的なプレッシャーを掛け続けていく。特に慎二は重徳の保険金の担当者なので、重徳の陰湿なプレッシャーに苛まれていった。重徳が慎二に与えるプレッシャーは、動的なものではなく静的である。ただ、昭和生命の京都支社の客用の椅子に座っているだけで、怒ったり恫喝したりすることがないのだ。落ち着いた対応で「保険金はまだか」と聞くのみである。しかし、毎日のように来る。そして死体のように死んだ目をしていて、客観的に見て不気味である。

重徳の心理的なプレッシャーは怖かった。私は本書を読んでいて、菰田重徳なら保険金のために子どもを殺しかねないとすら思った。それくらい彼の慎二に与える心理的な抑圧は異常だ。ただ会社の椅子に座っているだけで恐怖を与える存在は稀有であろう。それは、慎二がいくら、殺人を犯した容疑者が重徳だと思っても、犯罪が明確でない以上は「お客様」なのである。だから当然無碍にもできないし「警察の判断が未だなんです」と言い続けるしかない。重徳の戦法は、保険会社にポジティブなアクションを取らせないということである。ここで、重徳が攻撃性を見せてくれれば、慎二は彼を別室に案内してなだめるという行動を取れる。しかし「保険金はまだか」と聞くだけなら、「警察の判断が未だだ」という他にないだろう。何らのポジティブな行動を取らせないことで、相手の心理をじわじわと追い詰める重徳の恐怖は一級品であった。

前半は菰田重徳が不気味で、終盤で菰田幸子の狂気が開花する

実は、真犯人は重徳ではなく妻の幸子である。『黒い家』の悪の焦点は幸子ではなく重徳に合ったので、菰田幸子が犯人だと知った時、私は少し面喰った。ずっと菰田重徳の不気味な行動に恐怖感を味わっていたかったと思ったので、幸子が犯人として出てくるのがもったいなく感じた。子ども時代の文集を見ても、重徳の意味不明な作文は慄然とさせられる。菰田幸子は重徳と違って暴力性を発揮するので、悪人として分かりやすく、重徳ほどの恐怖を感じなかった。私は重徳が懐かしく思えた。

だが、終盤、菰田幸子が誰もいない保険会社に潜入し、若槻慎二を追い詰める展開には驚愕した。重徳の陰湿な不気味さと同じくらいの恐怖を味わった。もっとも、静的な恐怖の重徳と、動的な恐怖の幸子とでは、恐怖の質が違うことは付言しておく。

特に幸子の狂気的な恐怖が開花したのは、エレベーターでの慎二との対決であろう。慎二は推理力を巡らしてエレベーターを使って階下に降りるのだが、その判断が間違っていたことに、エレーベーターに乗りながら気付いてしまう。このタイミングで気付かせる作者の嫌らしさは、新人作家らしくなく、筆が冴えていた。そして慎二がエレベーターのドアを開け、即座にエレベーターのドアを閉めようとするが、幸子が刃物を使って閉めかかるドアをこじ開けた。

この辺りの描写は非常に怖い。菰田幸子は人間であるが、金のためにいくらでも人を殺せる異常性を有する。他者に対する共感性を全く有しない人物なのだ。心が欠如していると言っても良い。それゆえに、相手に対する同情など一切せず、容易に殺してしまうのだ。だからこそエレベーターのドアを幸子がこじ開けた時、慎二が死の淵に瀕しているように思って、読者は恐怖するのだ。なお共感性の欠如は著者が好むテーマらしく、『悪の教典』でも使われている。『悪の教典』で完成度が最高に達したのでもう使わないような気もするが。

女性の描き方が画一的なのが残念

本書『黒い家』においては女性の描写が画一的である。その画一的な女性の描写とは、主人公の恋人である黒沢恵について感じるのである。彼女は、いかにもな女性言葉を使い、女性らしく控え目であるが、内面がほとんど描かれていない。恵はステレオタイプな女性像を著者に押し付けられているようで、どうにも窮屈だった。主人公の若槻慎二の脇に寄り添っているだけの存在である。

もっとも、恵がいることで『黒い家』は菰田幸子の悪夢から解放された後の癒しとなるのだが。とはいえ、恵は慎二の恋人であり重要な人物なのだから、画一的な描写は気になるところである。

とはいえ、『黒い家』は菰田幸子・重徳夫妻の行動による恐怖が強烈である。そもそも恋愛小説ではないから、女性描写の画一性をもって大きく評価を下げることはしまい。

【書評】 悪の教典 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆☆ (日本)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

究極の悪人を描いた傑作

人間の心には、必ず、善もあり悪もある。そのどちらかしかない、ということはあり得ない。ただ、普通の人間なら善と悪の割合はバランスを保っている。例えば、善人と呼ばれる人の善悪の割合が70:30程度なら、悪人と呼ばれる人のそれは30:70程度だろうか。それゆえに人間はたとえ悪人といえども、悪人のことを理解できる。例えば悪人となったことの理由を知れば、「確かに、悪行は許されるべきことではないが、悪を犯してしまった行為の原因は理解することができる」といえる。

だが、世の中には理解できない悪人というものがいる。その人間の心の構成要素のほとんどを悪が占めるような人間。善悪の割合でいえば0.1:99.9のような人間である。それが私たちにとって理解できない悪人である。つまり悪を犯した行為の原因を聞いても何ら理解することができないのが、こうした悪人に対する評価だ。これを究極の悪人と呼ぶなら、『悪の教典』はまさにそうした悪人を描いた作品だと思う。

究極の悪人を描くことは容易いことではない。読者に共感を持たせなければ読み続けてもらえないと感じる作家は、悪人のどこかに読者の肯定的な感情を誘うエピソードを挿入してしまう。そうすることでその小説に対して読者は共感を持って読み続けてもらえるが、一方で究極の悪人を描くことには失敗するだろう。心の構成要素の99.9%が悪で占められてしまうような悪人を描くことに作家の方が挫折するのだ。

その点、『悪の教典』は徹底している。イケメンで高学歴、海外の投資銀行出身の高校教師・蓮見聖司を描いた本作に対して、読者はピカレスクロマンのようなものを感じるかもしれない。しかし、自分を無条件に慕う生徒を次々と殺害していくシーンを前にして、そうした親しみは消え失せる。蓮見聖司に対して、作者の貴志祐介は読者の同情を誘おうとしない。親に虐待されていたとか、クラスメイトにいじめられていたとか、そういった哀感を誘うエピソードを挿入しない。だから読者は蓮見に対しては、嫌悪しかない。それは何ゆえか。99.9の究極の悪人を描ききったからだ。読者の嫌悪は、すなわち、本作への賛辞へと繋がる。『悪の教典』は究極の悪人を描いた傑作であった。

全体性が欠けた超個人主義的教師

究極の悪人を描いた『悪の教典』から一体、何を読み取るか。究極の悪人である蓮見聖司は、勤務先の高校の生徒たち、そして同僚の教師や上司に至るまで、ありとあらゆる他者から親しみを持たれていた。蓮見は外見や経歴などのパーソナルな面が人より優れていることに加えて、他者の心理を手に取るように知ることができる能力を持っていた。だから、他者の行動の背景にはこうした心理があるということが分かるし、目の前の人間が何を考えているか手に取るように分かるのだ。

他者の心理を理解できるのだから他者を思いやったり、優しくしたりすれば良いのだが、蓮見の場合はそうではない。高校教師としての蓮見が、自分の思い通りに事を進めるために、障害となる人間を首尾よく殺害するために、彼ら彼女らの心理を利用するに過ぎないのだ。蓮見は殺すことに特別の執着がない。蓮見は高校教師として仕事を全うしようとする。その全うしようとする気持ちには、真正なものがあるような気もしてしまうが、それは誤解である。なぜなら彼がクラスを組織しようとしたり、生徒を指導したりしようとすることの背景に、私たち読者が共感できる全体性がどこにもないからだ。

蓮見は一見、生徒のためにモラルを説いたり専門の英語を教えたりしているように見える。しかし、ひとたび生徒らが障害になると平気で殺してしまうのだ。それは、蓮見を男として愛した女子生徒に対してもそうだ。自分の犯罪が露見しそうになると殺害を試みる。蓮見は、モラル・勉強・恋愛のために、クラスを組織したり生徒を指導したりコミュニケーションを取ったりしない。結局蓮見がやりたいのは自分の本意だけだ。その本意が彼の歪んだ超個人主義にある以上、共感し得る全体性がどこにもないゆえに、私たちは相変わらず、蓮見聖司を理解することができない。ただ、ひたすら、不気味で、捉え難い存在として、彼は作品の中に巣食っている。

【書評】 一の悲劇 著者:法月綸太郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

一の悲劇 (ノン・ポシェット)

一の悲劇 (ノン・ポシェット)

初の法月綸太郎作品

『一の悲劇』は法月綸太郎のミステリー小説。明晰なストーリー展開と陰鬱なラストの悲劇が特徴的な良作である。

私が法月綸太郎の名を知ったのは東浩紀の著書『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか?』による。私は、人文系ではない癖に分かったような振りで東浩紀の著作に憧れていた。理解が及ばないにもかかわらず、東の本を読んで現代思想の英知に触れた気になっていた。しかし彼が小説に手を出したり雑なエッセイなどを書いたりしたために、私は彼の魅力を感じなくなっていた。だが、私の中で東は過去の著述家ではなかった。『ゲンロン』を読むことでもう一度度東浩紀の良さを思い出したからだ。

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さて、『サイバースペース』は私が憧れた時代の若き東浩紀の文章だ。『ゲンロン』が良かったので東の初期の文章を読み返したくなった。その中に、法月綸太郎東浩紀の対談があった。ミステリーに興味を持ちつつ、初期の江戸川乱歩谷崎潤一郎やポーのいくかの佳作を除けば今ひとつミステリーに溶け込めなかった。東浩紀と対談するくらいだから面白いかもしれないと思い、『一の悲劇』を手に取った。

法月綸太郎作品を手に取ったのはそういう次第である。

誘拐犯に取り違えられた子ども

『一の悲劇』は誘拐をテーマとする。企業の幹部の娘を妻とした主人公・山倉史朗は、妻の実家に気を使いながらも安定した日常生活を送っていた。しかしある時、子どもを誘拐したという連絡が入る。驚く史朗だったが、実は、その子どもとは主人公の子どもではなく、近所の子どもだった。

つまり犯人は、誘拐すべき子どもを取り違えてしまったのである。しかも、近所の子どもの母親・冨沢路子と史朗とは、かつて不倫関係にあり、子どもというのは史朗の実子なのである。また、主人公の妻・山倉和美は子どもを産めない体である。従って山倉史朗の子ども・隆史は、和美の妹・次美の息子で、次美が難産のために死去したことにより姉が隆史を引き取ったのである。

どろどろした、複雑な人間関係がストーリーに興を添える。隆史は史朗が血を分けた子どもではないが、養子として迎えている。一方、史朗が血を分けた子どもである茂は、路子との不倫関係の末に生まれた。しかも史朗は路子の前から姿を消してしまったのである。路子は嫌がらせのために、史朗の家の近所に居を構えた。しかも、茂を史朗と同じ学校に通わせているのだ。

茂は、結果的に犯人に殺害されてしまうが、路子は史朗に逆恨みする。読者は、茂を殺害され、悲しみのどん底に追いやられる路子に同情する。同時に、人間として不甲斐ない行動を取る史朗にイライラさせられていく。史朗が不倫の清算をきちんとしておけば、路子が史朗の近所に転居してくることもなかっただろう。転居しなければ、誘拐犯に茂を取り違えられることもなかったに違いない。

しかし、事件は意外な方向へと発展する。

陰鬱なラストが強いカタルシスを生む

路子は隆史を誘拐してしまう。そこで和美に対しても、茂が史朗の子どもであることを暴露する。武器で攻撃してくる路子に史朗はケガを負わされてしまうが、酷いケガではなく入院するも直ぐに退院することができた。史朗は真犯人が和美の父・門脇了壱であると見抜き、了壱に迫る。だが、了壱は犯人ではなかった。帰宅した史朗を待っていたのは妻・和美が真犯人であるという事実であった。

誘拐犯は山倉史朗の妻・和美である。和美は茂の父親が史朗であることを知っていた。ゆえに、誘拐して身代金をもらうことが目的ではなく、茂殺害が目的だったのだ。そして和美は、まるで史朗へのあてつけのように自宅で首を吊って自殺している。

陰鬱なラストである。史朗は、本当に愛していたのは和美であった。だから退院後は、性急に和美の元へと戻ろうとしていた。しかし和美は夫を許してはいなかったし、夫の元愛人を憎んでいた。それゆえに、和美は史朗が唯一血を分けた子である隆史を殺害したのだ。そして、罪を償うことなく首吊り自殺をしてしまった。

史朗の愛を和美は拒む。史朗の弁明を、謝罪を、和美は認めない。隆史を殺害して自らは自殺したことに、史朗への絶対的な拒絶が浮かんでくる。和美の狂気に私は慄然としたが、同時に、史朗の悪を糾弾するためには和美の殺人罪と自殺とが必要だったようにも思う。陰鬱なラストは不気味で不快だが、同時に強いカタルシスを生む。