好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 美徳のよろめき 著者:三島由紀夫 評価☆★★★★ (日本)

美徳のよろめき (新潮文庫)

美徳のよろめき (新潮文庫)

三島由紀夫の『美徳のよろめき』は、人妻節子の不倫物語である。通俗的なタイトル通り、軽いタッチで描かれている。エンターテインメントに属するものだろう。三島由紀夫は『美徳のよろめき』に限らずエンターテインメントをいくつか著しているが、純文学の傑作群と比べると完成度が低い。純文学の傑作群とは『金閣寺』『仮面の告白』『禁色』『宴のあと』等だが、これらに比肩し得るエンターテインメントには、今のところ出会えていない。『夏子の冒険』『命売ります』などが標準レベルだろうが純文学の傑作群には及ばなかった。だが、それらの作品も『美徳のよろめき』に比べればまだ良い作品なのだろう。

節子の夫だけは面白かったが…

【書評】 官能小説を書く女の子はキライですか? 著者:辰川光彦 評価★★★★★ (日本)

官能小説を書く女の子はキライですか? (電撃文庫)

官能小説を書く女の子はキライですか? (電撃文庫)

私が今まで読んできた中で最低の小説。太宰治の『斜陽』や、鹿島田真希中原昌也の駄本も本作よりはマシである。

設定がおぞましく、処女の癖に官能小説を書きたいとのたまう女子高生、そして彼女と同居する男子高生の物語。亡き母が官能小説家だったらしいが、だからってセックスの経験もない癖に官能小説家になりたいなんて思うか?思ったにしても、官能小説の執筆のために主人公とエッチっぽい体験をする(といってもセックスはしない笑)。エッチっぽい体験に、読者の緊張感を煽ろうとしているのか・・・?
しかも、この女子高生は実父と賭けをしていて、主人公と一緒に通う高校で、男装していて他人から男と見破られないようにしないといけないのだそうだ。

なんなんだ、この設定は。全く理解できない。この設定を許す編集者が理解不能だ。

こんなものがシリーズ化されているとは・・・

ということで、評価は最低の0点(つまり★★★★★)。

【書評】 人口と日本経済 著者:吉川洋 評価☆☆★★★ (日本)

読者に親しみをもってもらうための雑音が邪魔だ

日本経済における人口の問題を取り上げた経済評論。著者は東京大学名誉教授の吉川洋。著者には、経済評論といえども割りと経済学の理論を丁寧に押さえつつ語るイメージがある。私が読んだ著者の本で『今こそケインズシュンペーターに学べ』『デフレーション』のいずれにも共通するのは丁寧な説明である。

しかし本書は全体的に「読者に親しみをもってもらおうとする意図」が感じられる。つまり、ケインズシュンペーターマルサスリカード、ヴィクセルなどの経済学者の理論を引用するに留まらず、夏目漱石シェイクスピア、東洋思想にまで触れているのだ。経済学以外の情報を採り入れることで、読者の歓心を引きたかったのだろうが、雑音のように感じられて野暮ったい印象さえも与える。新書という枠が著者に合わないのか分からないが、いつもの丁寧な説明も物足りないようだ。『デフレーション』みたいな分量で説明する訳にはいかないだろうけど、もうちょいなんとかならなかったかな。

経済成長を決めるのは人口ではない

日本経済における人口問題と聞くと、人口減少が経済の衰退を招くという命題を予想するだろう。実際、著者もそういう文脈を仮定している。しかし本書の主張は、そのような文脈だけでは経済の衰退を捉えきれないということと、人口が減少しても日本経済が経済力を保持することができるということだ。

これは『デフレーション』でも、小泉政権構造改革を論じた『構造改革と日本経済』でも一貫している。もっとも、人口減少が経済に与える影響を無視する訳ではなく、人口減少ペシミズムとでもいうべき悲観論が行き過ぎていることが問題であると断じる。はしがきでタネが明かされている通り、「先進国の経済成長を決めるのは、イノベーション」なのである。

第2章で論じられている通り、「経済成長を決めるのは人口ではない」のである。著者は「日本の人口と経済成長」をグラフを用いて明確に説明してしまう。1870年から1990年までのグラフだが、これを見ると経済成長と人口との相関関係が弱いことが明らかだ。では、何が経済成長を決めるのかというとイノベーションである。

イノベーション労働生産性の上昇をもたらすのか?

イノベーション労働生産性の上昇をもたらす最大の要因である。だから、経済成長を決めるのはイノベーションというより労働生産性であろう。また、イノベーションとは、ハードな技術に留まらずソフトな技術のことも指す。例えば世界を席巻したスターバックスを例に引き次のように書く。

スターバックスのコーヒーそのものに、特別優れたハードな「技術」があるとは思えない。成功の秘密は、日本では「喫茶店」、ヨーロッパで「カフェ」と言ってきた店舗空間についての新しい「コンセプト」、「マニュアル」、そして「ブランド」といった総合的なソフト・パワーにある。

スターバックスのビジネスは、イノベーションというには陳腐な例えのようだと思う人は、アップルのiPhoneiMacでもイメージすれば良い。人口が経済成長を決めないという、人口と経済成長の相関図をグラフで明確に見せられてしまうと、確かに、人口減少したからといって経済成長が鈍化するとは言えないよね、と考えはするんだけど…

でも、イノベーションなのか?というと、本書を読んでも、分かったような、分からないような印象がある。労働生産性という概念があり、これが経済成長を決めるというなら、私にも分かる。その上昇をもたらす要因がイノベーションというと、そういう側面もあろうが、それが最大か?というと、今ひとつピンとこないのだった。毎度毎度、企業がスターバックス的なイノベーションを生み出せる訳もない。

そもそも、業界によってイノベーションがなくても成長していける業界もあるのではないか?新規な商品とかスターバックス的な新しい空間が要らないけれど、成長していける業界はないか?明確にこれとは言えないが、イノベーションありきで経済成長を捉えたくない気がして仕方ない。

【書評】 罪と罰(1) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰』は、人間の滑稽さや暴力性、シニカルさを活写する

19世紀のロシアにフョードル・ドストエフスキーという作家がいた。彼は処女長編『貧しき人々』で華々しく作家デビューを果たす。しかし社会主義サークルの一員になった廉で死刑判決を受けて10年間、シベリアで懲役生活を送った。地上に抜け出た後、彼は『死の家の記録』を書き作家として再出発する。そして『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの五大長編を物して60歳で死ぬ。遺作長編は『カラマーゾフの兄弟』だ。
作品はミハイル・バフチンによりポリフォニーと呼ばれ、キャラクターが自身の思想をもって自律的に動き対話を重ねることで、現実の多面性を体現していた。

…とまあ、味気ない紹介がドストエフスキーのような完全なる大作家にはお似合いであろう。フョードル・ドストエフスキーは、誰が何と言おうと大作家で、特に五大長編のいくつかは、世界文学の最高峰なのだ。読むまでもない。文学史上の定石通りに、ドストエフスキーは紛うことなき大作家であるから、読むまでもなく傑作に違いない。それで良いのである。そして作品に対するイメージは物々しく厳粛で高貴である。

私もそう思っていた。五大長編の持つテーマはそれぞれ異なるが、とにかく傑作なのであろうと。しかし亀山郁夫訳の『罪と罰』(1)を読んでみると何かが違う。確かに【紛うことなき傑作】には違いない。しかし単なる傑作とは思えない。『罪と罰』というタイトルにイメージされる厳粛な雰囲気、高貴さ、物々しさはそれほどクローズアップされていない。むしろ登場人物が演じる馬鹿馬鹿しい笑いや、血みどろのグロテスクな暴力シーン、生活臭がぷんぷん匂う人間のシニカルなセリフなどの方が際立つ。その奥底に感じられるのは人間の利己的な価値観である。人間は自身の欲望を満たすために合理的に行動する、と、あたかも経済学の一説を想起したくなるほどだ。徹底した利己主義の体現者が『罪と罰』には出ている。

さしたる動機もなく殺人を犯すラスコーリニコフ

罪と罰』の主人公はロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ。元大学生で頭はキレる。彼は独自の思想をもって殺人を犯す訳だが、1巻では動機については深く掘り下げられていない。さしたる動機もなく、殺人を犯したような塩梅である。

留意したいのは、ラスコーリニコフが必ずしも必然的に殺人を犯したのではないということである。亀山郁夫も書いているように本書は「運命の書」で、ラスコーリニコフは「重なりあうさまざまな偶然によって」殺人を犯すのである。彼は高利貸しの老婆を殺しにいくが、それ自体、本来、必然性はなかった。ラスコーリニコフは老婆に対する殺意は、心の底に抱いていた。しかし、彼が広場でたまたま耳にした偶然が、最終的に犯行を決定づけることになる。それは老婆と同居している妹リザヴェータがある日のある時間に自宅を不在にする、という情報だった。それを聞いたラスコーリニコフは、その機会を逃すまいと犯行を決意する。そして彼は老婆を殺害するのだが、殺害後、本来はいるはずのない妹リザヴェータが自宅に帰ってきてしまうのだ。なぜなら、「ある日のある時間に自宅を不在にする」というのは、ラスコーリニコフの聞き間違いだったようなのである。

まるで悪魔が、ラスコーリニコフを殺人という大罪まで誘ってしまうかのごとき、運命の恐ろしさは筆舌に尽くしがたいが、彼の動機が1巻では容易に語られないところが不気味である。明るく世渡りがうまいラズミーヒンに比べると、婚約者に死なれて大学も辞めて貧乏なラスコーリニコフは、ひとりよがりの殺人者に過ぎないように見える。1巻でのラスコーリニコフは、ドストエフスキー作品の主人公らしい振る舞いが見られない。すなわち、何らかの思想をもって世界や他者と対峙するような側面がない。それは2巻以降で明らかになるのだろうか。

明るく世渡りがうまいがシニカルなラズミーヒン

ラスコーリニコフと対照的な友人として描かれるのがラズミーヒンだ。彼は明るく世渡りが上手く、翻訳のバイトをやっている。この青年が口が悪くてシニカルで私好みの男で、電車で『罪と罰』を読んでいたら、彼のセリフの箇所で何度笑ってしまったか分からない。亀山郁夫の喜劇的なボキャブラリーにも驚かされる。

・そいつが、出版事業みたいなことをやっててさ、自然科学ものの本なんか出してるんだが、これがかなりの売れ行きなんだよ!タイトルからしてふるってんのさ!そういや、きみはこのおれをいつもバカあつかいしていたけどね、いやあ、おれ以上のバカがいるらしいよ!
・おい、アルコールで頭をやられたんとちがうか!
・いつまでそういうばかげたお芝居つづける気だ!こっちまでおかしくなるぜ……いったいなんのためにわざわざここに来やがった?ちくしょう?

極め付けはナスターシャとのやりとりだ。

ラズミーヒン「おう、ナスターシャがお茶をもってきた。ほんとうにフットワークのいい女だぜ!ナスターシャ、ビール、飲むかい?」
ナスターシャ「まあ、罰あたるわよ!」
ラズミーヒン「じゃ、お茶はどうだ?」
ナスターシャ「お茶ならいいわ」
ラズミーヒン「自分で注げ。ちょいと待った、おれが注いでやる。そこにすわってな」

ラズミーヒンはビールを飲むか?と、自分からナスターシャに聞くが「罰があたる」と言われると今度は「お茶はどうだ?」と尋ねる。相手が「いいわ」と答えたのに今度は「自分で注げ」という始末。このやりとりは堪らない。コントを見ているような気分にさせられる。まさかドストエフスキーの小説を読んで笑わされるとは思わなかった。

まるでブコウスキーのようなドストエフスキー

最後に。脇道に逸れるが、ドストエフスキーという作家は賭博に狂ったことがある。訳者の亀山郁夫の「読書ガイド」によると、以下のようなエピソードがあるらしい。

彼は、おもに債権者の追っ手を逃れるため、六五年七月、三度目の外国旅行に出た。旅のさなか、またしてもルーレットの誘惑に陥った。当時、彼が恋人や友人たちに宛てて書いた手紙は、読むに耐えない、無残な内容に満ちている。
「ホテルを一歩も出られない。借金で八方ふさがりだ」
「即金で三百ルーブル送ってくれるところがあれば、どこでもいいから契約したい」

亀山郁夫は、上記のようなどん底状態があったればこそ、ドストエフスキーが『罪と罰』を生み出したのだと導いている訳だが、借金してまで賭博に狂うとは異常である。こんなエピソードを聞いてしまうと、ドストエフスキーには悪いがパルプ作家のブコウスキーを思い出してしまう。飲んだくれのアメリカの作家・ブコウスキーは、賭博というより酒に狂ったが、似た者同士のような気がする。どっちも最低だ!笑

【書評】 デジタルマーケティングの教科書 5つの進化とフレームワーク 著者:牧田幸裕 評価☆☆☆★★ (日本)

デジタルマーケティングの教科書

デジタルマーケティングの教科書

デジタルマーケティングについて分かりやすく教えてくれる

『デジタルマーケティングの教科書』は、外資コンサルティング会社出身で、現・信州大準教授の牧田幸裕によるデジタルマーケティングの入門書。

仕事で顧客と話していると、専門の人事領域の話が大半であるが、それだけで会話が終了しないこともある。むしろ、マーケティングの話題は避けられない。特に経営者とか、人事のマネジャーなどと話していると、人事領域の話で終わらない。会話の端々に実践的なマーケティングが顔を現すのだ。だからマーケティングの関連書を渉猟しているところだった。

その中でデジタルマーケティングを分かりやすく教えてくれる書籍はないか?と探していたところ、本書にいきあたった。入門書というだけあり、平易な言葉で書かれ晦渋なところはほとんどない。デジタルマーケティングの定義は分かり辛く、もう少し端的に述べるべきとは思ったが、デジタルマーケティングが既存のマーケティング(従来型マーケティングという表現を使っている)の進化系とあって、従来型マーケティングの構造を理解しておればデジタルマーケティングの中身が分かるようになっている。こういった配慮をして頂けると初学者にはありがたい。

従来型マーケティングって何?

本書は従来型マーケティングの進化系としてデジタルマーケティングを捉えている。それゆえに、従来型マーケティングの構造はしっかりと理解しておく必要がある。本書の2章がそれにあたるが、フィリップ・コトラーマーケティング戦略策定プロセスについて丁寧に説明している。初学者は2章を最低5回、熟読して欲しいというくらい重要な知識となる。

しかしながら、いくら熟読したとしても、2章に割かれたページは20ページに満たないので、コトラーの入門書を読まないと充分な理解は覚束ないだろう。従来型マーケティングの知識がデジタルマーケティングを理解するための土台というなら、もう少し紙幅を増やすべきだったと思われる。とりあえず本書では「マーケティング環境分析」「マーケティング戦略立案」「マーケティング戦略実行」「マーケティング戦略管理」などのポイントを押さえられる。ものたりないと思うが。

デジタルマーケティングから「デジタル」が消える日

従来型マーケティングとデジタルマーケティングはどう違うのか。従来型マーケティングは、環境分析を使って「過去」の変化を重視した未来の予測をする。「これは未来が過去の連続性の中にある場合、機能する」と著者は言っている。しかし、「世の中の変化が大きい場合、または連続性がない場合」は、従来型マーケティングでは太刀打ちできない。そこでご登壇頂くのがデジタルマーケティング環境分析ということになる。

未来を定義したうえで、どうすればその因果関係が太くなるのか、それを考えるのが、デジタルマーケティング環境分析なのである。

過去からではなく、まず未来から考えるということ。ここに大いなる差が存在する。過去と、現在のマーケティングとの間に。

デジタルマーケティングは、定義そのものも浮遊する新しい概念だ。だが、著者は、いずれデジタルマーケティングという用語はなくなるという。すなわちデジタルマーケティングの方法は普遍的となるので、いずれ常識的となるから、単にマーケティングと呼ばれるに過ぎないものとなる。その日が来るよりも先にデジタルマーケティングについて知り、実践することが企業にとって市場を掌握できるか否かの試金石となるだろう。

デジタルマーケティングの「5つの進化」、特に消費者理解が面白い

デジタルマーケティングの「5つの進化」というのは、「環境分析」「消費者理解」「セグメンテーション」「チャネル」「プロモーション」の5つ。環境分析は上記でも触れた。面白かったのは「消費者理解」の項で、電通のAISASと、グーグルのZMOTを手がかりに消費者理解を説明していた。

AISASというのは5つの言葉の頭文字を統合した造語で、A(広告を見る)→I(興味を持つ)→S(調べる)→A(購入する)→S(共有する)の流れで消費者は行動すると説明している。ネットが発達した現状、特に「調べる」という行動は、私たち消費者は本当によくやっていると思う。広告を見た(A)後にそのまま商品を買うばかりではない。現実の口コミを聞くこともあるが、ネットで調べることが多いのではないか。同じ口コミでもネットの口コミを参考にするのではないか。Amazonのレビューを見るとか。私なんかも、本はリアルな本屋で買うことも多いが、Amazonで買うことも少なくない。その時、あまりレビューの評価が低い本は、なかなか手に取り辛い。買いたいとは思えない訳だ。

S(共有する)というのは、ツィッターとかSNS、ブログなどで書くというのがそれに値する。買ったものを買っただけで終わらせず、ネットで発言する、つまり不特定多数の他者と共有するというのがデジタルマーケティング時代の消費行動である。

ZMOTはグーグルが提唱した概念で、「リアル店舗に足を運ぶ前に消費者はネットで検索するはずだ、そして製品やサービスの情報を得たうえでリアル店舗に足を運ぶはずだ」との仮説から生まれ出たもの。私は本を買う時にリアル店舗に行って、ネットの意見を頼りにせずに買うが、本を見ながら買って良いのかな?と迷うこともある。その時はネットの評判を検索するのだ。だからZMOTでいっている消費者行動はよく分かる。

チャネル(オムニチャネル)も面白い。キープレイヤーやデジタルマーケティング実践に求められる能力などは、あまり刺激的ではない内容で、蛇足のように感じたが、BtoC企業を対象としたデジタルマーケティングの入門書として全体的に分かりやすく、ポイントが押さえられていて良い本だったと思う。