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【書評】 江戸川乱歩名作選 著者:江戸川乱歩 評価☆☆☆☆★ (日本)

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩名作選 (新潮文庫)

江戸川乱歩とは何者か

私はミステリの熱心な読者ではない。読んだことがある作家といえば、エドガー・アラン・ポーコナン・ドイル江戸川乱歩笠井潔東野圭吾池井戸潤くらいである。昭和の文豪・谷崎潤一郎もミステリを書いたが、彼を含めていいのやら。有名な横溝正史松本清張も読んだことがあるかもしれないが、記憶にない。坂口安吾の小説は読んだことがあるが、彼が書いたミステリは分からない。

さて、面白かったなと思い出せる作家は、ポーと乱歩だ。ポーは『黒猫』とオーギュスト・デュパンものが好きで、『黒猫」はミステリというより幻想的でホラーの世界が強いが、世界最古のミステリと言われるデュパンものは幻想よりも現実的である。事件を合理的に解決する名探偵オーギュスト・デュパンの物語であるからだ。『黒猫」という幻想世界を描きつつ、デュパンのような現実世界を描けるエドガー・アラン・ポーは詩人でもあったが、理性と感性をどちらも強く併せ持つ作家は希少だろう。

長々と書いたが本題。江戸川乱歩は『黒猫』なのかデュパンなのか、はたまたポーそのものか。エドガー・アラン・ポーから筆名をもじったにしては、彼の小説はグロテスクで嗜虐的である。明智小五郎が初登場する『D坂の殺人事件』もSMを題材にしている。だから、『黒猫』の幻想世界に軸足を置いたデュパン的小説を書いた作家ということになろうか。

グロテスクな怪奇趣味の作品が豊富に収められている

本書『江戸川乱歩名作選』は、新潮文庫の一冊である。新潮文庫江戸川乱歩作品というと、1960年発売の『江戸川乱歩傑作選』がありロングセラーとなっている。本書はそれと対になる作品集となっているのである。発売は2016年。

『傑作選』は私も読んだことがあるが、「D坂の殺人事件」「二銭銅貨」「心理試験」「屋根裏の散歩者」など誰しも知っている短編が収められていた。「芋虫」はグロテスク趣味の作品であるが、他の作品は一般的なミステリであろう。

一方、本書『名作選』はグロテスクな怪奇趣味の作品が豊富に収められている。「陰獣」「石榴」「人でなしの恋」「踊る一寸法師」など、凄惨なシーンがあったりSMシーンがあったりする。江戸川乱歩の怪奇趣味のエッセンスが味わえるセレクションで、日下三蔵というミステリ評論家の編集の手腕が冴える。

「陰獣」におけるストーリーの真偽

本書所収の短編中、私が一番面白いと思ったのは「陰獣」である。「陰獣」は、江戸川乱歩の想像力がふんだんに散りばめられ、かつ、読者に真のストーリーがあったのではないか?と想像させる、上質なミステリ小説である。犯人と目される女性の夫がサディストという設定は「D坂の殺人事件」のようで、乱歩がいかにSM好きかが分かる。谷崎潤一郎と違って、女性を痛めつけるサディストが乱歩の好みのようだ。

「陰獣」は推理小説家が語り手となって、大江春泥という推理小説家に脅迫されている人妻のストーリーが描かれる。人妻は大江と恋仲であったが別れて、現在は夫の稼ぎで何不自由のない生活をしている。しかし、大江春泥から脅迫されてしまう。しかも、あたかも監視されているかのように、彼女が部屋で過ごしている一時が大江の手紙によって明かされていく。人妻は語り手である推理小説家に相談した。

大江春泥という推理小説家は、実は、小説中には一度も現れない。人妻が、大江春泥という男の存在を立証してはいる。しかし、推理小説家でありながら覆面作家で誰もよく顔を見たことがない。本当に、大江春泥は存在するのだろうか?読者は真相を追求する語り手と共に、大江の存在の真偽を問うていく。語り手は人妻を愛していて、人妻の夫が大江に殺されると彼女と関係を持つようになる。

この小説の白眉はラストである。語り手は、大江春泥は存在せず人妻がなりすましたものだと推理する。そして、彼女が推理小説家・大江春泥の振りをしていたのだと。だから、彼女の夫が殺されたのは大江=人妻によるものということになる。人妻は抵抗することなく語り手の推理を聞いていた。彼女は推理の後に自殺したので、自分の推理が当たっていたと思う語り手。

しかし、語り手は、自分の推理が正しかったのか?誤っていたのか?と不安になる。というのも、人妻は、取り乱すことも、開き直ることも、自白もなかったからである。恋仲の関係にあったのだから、何かしら弁明があっても良さそうなものだ。しかし弁明はなく彼女の自殺でフィナーレを迎えたかに見えた。ストーリーの真偽はどこにあったのか。結局、語り手は刑事のように犯人を追い詰めたつもりでいたが、「証拠」がある訳ではない。本当にこれで良かったのか?読者も不安に駆られる中、物語は幕を閉じてしまうのだ。

こういう、ストーリーの真偽が分からないままに幕を閉じるというミステリの手法は、一人称ゆえに面白いのだと思う。読者はページを繰りながら語り手が真相を暴いてくれるのだと思うだろう。だが、実際は、語り手は「これで良かったのか?」と不安がるのである。

残虐でグロテスクな小説「石榴」

「石榴」は陰惨極まりない物語である。男が顔に硫酸をかぶせられ、喉まで硫酸を飲まされた挙句に殺害される。顔かたちも分からないほどに。そう、まるで石榴が割れて実がぐちゃぐちゃになったかのように、硫酸で痛めつけられて殺されたのだった。グロテスクな描写が好きな読者には堪らないだろう。

「石榴」もちゃんとミステリになっていて、乱歩が好きなポーの「盗まれた手紙」を材料としている。主人公が暴いた犯人は間違っていて、実は異なる人物が犯人であったというのはスリリングで面白い。

推理小説を読む読者は、主人公が暴く人物こそ犯人だと思うはずだ。しかし乱歩はその定石をあっさり覆す。「陰獣」と趣向は異なるが、ストーリーの真偽という観点からは「陰獣」との類似点を感じさせる小説であった。

他の「押絵と旅する男」「人でなしの恋」「踊る一寸法師」などもそこそこに面白い。ミステリというよりはグロテスクな怪奇趣味の代表作を収めた『江戸川乱歩名作選』はファンならずとも一読の甲斐がある作品集だ。編者の巧みな編集が冴えている。

【書評】 外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏 著者:ドイチェ・アセット・マネジメント株式会社 評価☆☆☆★★ (日本)

外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏

外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏

投資信託とは何か?工場見学風に解説する入門書

何気なく手に取った本が面白いということは、読書を愛する者にとって望外の喜びである。ここ数年ずっと、私はAmazonやメルカリで古本を買うことがほとんどになっていた。古本を古本屋に行ってまで買わなくなっていたのだ。Amazonはレビューを信じて買ったり品揃えも良いし、メルカリは品揃えは期待できないが金額が安かったり出品者に値下げを求めることもできる。そういう訳で私は、古本は店頭で買わなくなっていたのだ。

だが、今回、ふとしたことで高田馬場ブックオフに行った。日が上っている時間から始まった飲み会が高田馬場であったので、帰りにふらっと寄ってみた。すると本書が目に止まった。『外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏』。あまり面白くなさそうなタイトルだ。そう思って帯を見ると「お金を殖やす工場見学へようこそ」とある。さらに目次を見ると第三章に「投資信託の工場見学」とあるではないか。これは意外と良いかもしれないと思って買ってみる。すると、思ったほどに工場見学という切り口は強く活かされておらず、よくある入門書の類ではあったが、それでも工場見学という切り口そのものは印象的だったし、図やグラフ、写真などが多用されていて読み易かった。もしタイトルだけ見ていたら平凡な本だと思って、ネットでは買わなかったかもしれない。店頭でページをぱらぱらとめくって初めて出会える本。これは、ネットでは味わえない「本を買う」という行為の重要なポイントかもしれない。

投資信託業界に就職したい学生にも向いている

本書は投資信託の舞台裏を外資系運用会社が解説している。投資信託のイロハを学んで投資の勉強したい人に限らず、投資信託業界を就職先として考えている学生が読んでも面白いと思う。

投資信託の職種というとファンドマネージャーが思い浮かび、学生も、投資家にとってファンドマネージャーがどんなファンドに投資しているかは気になるはずで、自分もそんなカリスマ性を持ったファンドマネージャーになりたいと思うだろう。だが本書は、それは米国のファンドマネージャーのイメージで、日本では「ファンドマネジャー個人が前面に出ることは少ないように」思うと言っている。我が国の資産運用会社では「チーム運用」をしているケースが多い。つまりは個人の能力よりもチームとしての「投資哲学や投資判断が重視される傾向」にある。

それと、ファンドマネージャーの黒子に徹する企業アナリストという職種がある。企業アナリストは、「ファンドマネジャーになるための登竜門のような位置付けになっている会社も多く、比較的若い社員が就く傾向がある」ということから、花形と見られるファンドマネージャーになるためのプロセスも読むことができる。さらに、本書の執筆者であるドイチェの日本人スタッフのインタビューが付いていて、投資信託の運用会社へ就職したい学生が志望動機を作る上でも参考になるはずだ。

アセットアロケーションが9割

本書の4章は投資信託の実践編である。「投資成果」の9割はアセットアロケーション(資産配分)で決まるという。これは米国のゲーリー・ブリンソンらが発表した論文(パフォーマンスの決定要因)に起因する考え方。要は、どのファンドを選ぶか考える前に、投資対象となる「資産の特徴」を理解し、自分に合った資産配分を決めることである。本書はアセットアロケーションに基づき株式、債券、REITといった投資対象資産についてざっくりとした説明を行っている。

アセットアロケーションが9割。では残り1割は?ということの説明もポイントを押さえた簡潔な説明がなされている。アセットアロケーションが9割といっても、同じ期間で同じ金額で投資を行った場合に限られ、「もし、投資タイミングや金額を調整できるとしたら、それは投資成果に大きな影響を与える要素」となり得ることについても、指摘を忘れていない。入門書であるがゆえにどうしても説明はざっくりとしていて、理解を深めるには他書を当たるほかないのだが、それでも投資運用会社が書いた本らしく、押さえるべき点は押さえている点は良い。

投資信託をファンを増やすために書かれた誠実な入門書

あとがきに、本書を執筆するにあたって意識したのは、「投資信託のファンを増やすことと、投資信託のできることとできないことをきちんと伝える」ことの2つだとある。本書を読み終わって感じるのは「誠実さ」である。例えば4章の冒頭には以下の文章がある。

投資家のリスクに対する考え方が違えば、投資戦略も違ってくるはずです。その意味で、当書で具体的に「このファンドを買うべき」と書き述べるのは、投資信託という金融商品に過度な期待を背負わせることになりかねません。

本書全体を通じて感じるのはこの「誠実さ」で、資産運用というとどうしてもカネの臭いがぷんぷんしてインチキ臭いのも事実なのだが、本書にはそれがない。金融本来の知的さが充溢している感じがあった(数学はほとんど出てこないがそれは入門書の持つ知性ではない)。投資信託のファンを増やすために書かれたとあとがきで書いている通り、誠実に、丁寧に、投資信託の魅力を語り、成功しているとは言い違いものの「工場見学」としての運用会社の裏側を見せることで、多少なりともファンを増やせるのではないかと思う。

【書評】 貧しき人々 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆★★ (ロシア)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

『貧しき人々』はドストエフスキーの処女長編

『貧しき人々』は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの処女長編。24歳の時の作品。ドストエフスキーは、本書をもって、当時の著名な批評家であったベリンスキーに激賞されて華々しくデビューした。ベリンスキーはドストエフスキーに対して「あなたは自分で、どんなものを書いたのか、わかっているのですか!」と言って彼を賛美したというが、訳者が本書の解説で述べている通り「ドストエフスキーのその後の大作を知る私たちにとっては、いささか大袈裟」であろう。だが、しがない九等官であるマカールと、貧しい文学少女ワーレンカとの心の交流を「書簡体小説」で描いた本作からは、清冽な感動が呼び起こされ、「その後の大作」と比較しなければそれなりに面白い長編であった。特にマカールが徐々に文体を使い分けていく様は、とても24歳の青年が書いたとは思えぬほど”成熟”している。

単純な小役人マカールの教養小説的な『貧しき人々』

『貧しき人々』は、貧しくも美しいワーレンカと、激しやすい性格の中年男マカールとの間に交わされる手紙の交流を描く、書簡体小説である。「文学と書物」というキーワードで2人の人物を区別すると、ワーレンカは文学や書物に親しみ、文学に対して一定の価値観を持っているのに、マカールにはそれがない。彼は三文小説のラタジェフは好きだが、ワーレンカが勧めたゴーゴリの『外套』は分からない。『外套』に描かれている物語が自分のことを描いているようだといって憤慨するくらいなのだ。また、マカールは、プーシキンの『ベールキン物語』はその中に含まれている「駅長」が好きであるが、作者のドストエフスキーとは『ベールキン物語』に対する好意の意味が異なる。というように、マカール自身の文学的理解には危ういものがあるのだが、彼が徐々に、ワーレンカによって徐々に「変化」していく様は、その手紙の文体が時を経るにつれて良い文章に変わることによって明らかとなる。

ゆえに本書は、ワーレンカによるマカールの教養小説的な意味合いを持っているのだ。ただ、マカールが単純な中年男であるだけに、彼の成長ぶりも洗練されたものではない。手紙の文体は事象を的確に表したり、感情を素直に文章で表現できるように成長している。だが、彼の文体が巧くなってもそこに美があったり詩があったりする訳ではない。マカール自身も冴えなくて、精神的な成長はするものの、変わらず貧乏で、職場では蔑まれている毎日だ。ワーレンカのことを娘のように愛していたが、彼女はブイコフという、金持ちだがつまらない男と結婚して、マカールの目の届く範囲から離れてしまうのだった。

書簡体小説ゆえの分かりづらさもある

『貧しき人々』は書簡体小説である。だから、どうしても、会話と会話の交流によって小説が構成されているように見える。もちろん、ワーレンカが自身の初恋の時を思い出してマカールに語った時の描写は緻密で情景が思い浮かぶ。だが、基本的には書簡体小説という構成上、読者の想像力が必要になる。ワーレンカがなぜ愛してもいないブイコフの求婚を受け入れたのか、彼女はマカールをどう思っていたのか、そしてマカールは本当にワーレンカを娘と思っていたのか等、ジャンルの難しさゆえ仕方ないだろうが小説の真の姿がつかめないような分かりづらさがあったのも事実だ。

ワーレンカはマカールほど成長が見られず、悲劇的な女性である

マカールと、もう1人の主人公ワーレンカは、マカールほどの変化はない。彼女の境遇は、好きでもない、暴君のブイコフとの結婚という悲哀を受け入れるということで大きく変わるが、彼女自身が精神的成長を遂げたという表現はない。既に成長しきっているのかもしれないが、マカールの精神を高めようと導く格好になるワーレンカには、自身を高めるよりも相手を高めることに意識が向いているようだ。もし現実の彼女が自分を高めんとするならば、ブイコフとの結婚は、マカールが言うように破局にしてしまって、ブイコフが言うところの未亡人とでも、ブイコフが結婚するように仕向ければ良い。何しろブイコフがワーレンカと結婚しなければならないのは、取るに足らない理由で彼女を愛しているがゆえのものではないのだ。

そんな男と結婚せざるを得ないほどにワーレンカが精神的に落ちてしまったとも言える。後年の『罪と罰』には娼婦という社会の底辺で働きながら神への信仰を捨てないソーニャという女性が出てくるが、彼女と比べてワーレンカはなんという違いであろうか。ワーレンカは娼婦のような汚れた仕事はしていないし、資産家ブイコフの妻ということで社会的には認められた地位にいすわるであろう。だが、いかに社会の目はごまかせても、小説を通して彼女らの精神面を見てしまっている読者の目は騙せない。ワーレンカはマカールが願ったように、ブイコフとの結婚を断れば良かったものを、彼女は頑なに安定的な地位へと赴こうとする。どんなに、自分を悲劇的な女性にしてしまうことが、あらかじめ、分かっていたとしても。社会的にはマカールもワーレンカも貧しいが、精神的にはどうだったのか、彼らを一括りにできるのか、思案させられる作品であった。

【書評】 日本経済論・入門 戦後復興からアベノミクスまで 著者:八代尚宏 評価☆☆★★★ (日本)

日本経済論・入門 新版 -- 戦後復興からアベノミクスまで

日本経済論・入門 新版 -- 戦後復興からアベノミクスまで

教科書的な現代日本経済史である。TPPやアベノミクスを盛り込んである。時系列的に、教科書的な現代日本経済史を学びたい人に向いている。それ以上でも、それ以下でもないが。

【書評】 ユリゴコロ 著者:沼田まほかる 評価☆☆★★★ (日本)

ユリゴコロ (双葉文庫)

ユリゴコロ (双葉文庫)

読者の頭が「?」になる設定が鼻につく

幼少の頃から理由なく殺人を犯してきた女性・美沙子。彼女はミチルちゃんという女の子が事故で池に落ちたのに、助けもせず見殺しにした。それから彼女は理由なく殺人を犯していくのだが、その理由は最後まで語られない。理由なき殺人をテーマにしている訳でもないので、殺人の理由を記述しない「理由」が分からない。

その後、彼女は成人して結婚、出産した後まで自分の殺人が他人にバレることがないのだが、突発的に殺人を犯すシーンが多いのになぜ他人にバレないのか理解に苦しむ。警察はとってつけたように、美沙子が殺した同僚のことについてようやく動き出すのだが、これまで美沙子の殺人を見逃していた癖にどうして今頃動き出すのだろうか。それと、美沙子が殺害した同僚は、スチール製のごみ箱で殺されてしまうのだが、なぜそこまで軟弱な体を持っているのだろうか。美沙子は物語の最後まで殺人を続けて、裁かれることがないが、大して魅力的に描かれている訳ではなく、逆に異常な殺人鬼としてグロテスクに描かれている訳でもないのに、なぜ生き長らえるのだろうか。

しかも、ラストは理不尽なまでに平凡なハッピーエンド。作者は一体、どういう頭の構造をしているのかサッパリ分からない。

作者は文章が上手いが、上記のように読んでいて頭が「?」になる設定が鼻についたので、標準的な評価は与えられない。

設定が凝り過ぎ!リアリティが薄くて退屈なミステリー

小説という表現形式は、確かにフィクションだとはいえ、読者にリアリティを感じさせなければ絵空事に過ぎない。誰が書いたか分からない「ノート」を主人公である亮介が見つけ、次第にそれは「母」が書いたものではないかと疑っていく展開は良い。亮介には両親がいるが、母は事故死して、父は末期のすい臓がんに侵され、祖母は認知症を患っている。亮介が見つけたノートは家の中に隠されていて、男性が書いたか女性が書いたか分からないのと、事実か虚構か分からないという展開も緊張感があって良い。

だが、事故死したはずの母親は実は叔母で、叔母は亮介の父のことが愛していて、殺人者の姉を殺害して妻の座におさまっていたという展開が理解できない。姉妹で1人の男を好きになっても良いけれど、姉が連続殺人者という衝撃的な事実を受け入れること自体、相当な心理的困難が想像されるはずだ。殺人者を生んだ家になど、一時たりともいたくないと思うだろう。どれだけ姉の夫(亮介の父)を愛していたのか小説では分かりにくいが、それでも殺人者の夫だった男である。関わりたくないと思うのが自然ではないか。妹が家と縁を切らなくても構わないが、結婚しようとまでは思うまい。自然に後釜に収まったと小説では説明しているが、そういう事態を生むことが不自然極まりない。

しかも、姉は、実は殺害されておらず生きていて、亮介が経営する喫茶店で働きながら亮介を見守っていたという設定には嘆息せざるを得ない。恐らく作者は、主人公の母の結末【殺されておらず生きている】【亮介の傍にいる】【亮介の代わりに彼の恋人の仇を殺す】【ずっと亮介の父を愛していて、末期がんに侵された父と旅行に行く】などを先にイメージして、そこから逆算してストーリーを書いていったのではないかと想像する。確かに母の結末としては衝撃的なのだが非現実的に過ぎる。

警察は一体、その間何をしていたのか?美沙子が、日本の警察の網をかいくぐって、連続殺人を続けられるほどの知性を持っているという描写がないのに、警察はとってつけたように登場するだけ。警察はそこまで無能なのか。しかも、最後の最後まで美沙子は殺人を犯している。自分の主体的な気持ちだけで殺人を犯している彼女にはほとんど共感できない。こんなに共感できないのに自分が愛する亮介の父とは相思相愛で、最後は、父の最期の旅行に付き添えるという、ハッピーエンド。ずいぶんと恵まれた人生である。

作者の想像力は評価できる

上記の通り、ストーリーの粗い構成には不快感を禁じ得ないが、作者の妄想癖は評価して良い。家の中に残されたノートの作者が父なのか母なのかと疑い、ノートに書かれたことが真実か虚構かと疑い、現実があたかもノートに導かれるように展開されていく様はスリリングだ。ストーリーが粗すぎて読んでいてヤキモキさせられるのが残念極まりないが、作者の想像力は評価して良い。あと、文章は割りと上手かった。