【書評】 鏡子の家 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)
三島由紀夫の『鏡子の家』を読んだ。新潮文庫にして600ページ超の大作。「みんな欠伸をしていた」という象徴的な言葉から始まる、虚無的な物語だ。
■物語
鏡子という30歳くらいの資産家のシングルマザーの元に集まる4人の男たちを通して、第二次大戦後、経済的に振興する日本における虚無的な世界観を描いている。舞台は1950年代後半である。日本の敗戦は1945年だが、50年代後半にして既に経済的に豊かになりつつある、中産階級以上の青年の姿が描かれる。54年には神武景気が始まったと言われているし、56年には「もはや戦後ではない」という言葉が経済白書で用いられているのだから、この風俗の活写は、リアリティがあるように思われる。
尚、57年には不況に襲われるも、58年には岩戸景気なる好況が訪れている。
この小説の舞台の先である1964年には、いよいよ東京オリンピックが開催されているのだ。日本がどんどん経済的に豊かになって行く時代の萌芽が、この小説では描かれている。
■「みんな欠伸をしていた」とは何だろう?
三島は、昭和天皇の人間宣言を好ましく思っていなかったようだが、戦時中までの日本人にとって、天皇は現人神であり、どことなく信仰の対象のような存在であったはずである。天皇陛下万歳といって死ぬ軍人もいたが、こういう心理は日本人における唯一神のような存在が天皇に近いとも思える。
また、戦争という日本人が一丸となって取り組むことのできた連帯感が、敗戦によって消滅してしまった。
こういった一連の社会的事件があり、日本は精神的な支えを失ったように思えた。
しかし日本人は経済という新たな信仰の対象を見つけた。
しかるに三島は、「みんな欠伸をしていた」と書く。
こんな風に書けるのは、経済が精神的な支えになるはずがないからだ。天皇や戦争といった日本人の精神的な連帯感が支えだとすれば、経済はその支えのもとに広がるうわべである。
天皇は現人神であるが、日本人の信仰の対象の”ようなもの”であってキリスト教とか仏教のような宗教上の信仰の対象ではないだろう。あくまでもようなものだが、ようなものであっても、日本人がツーカーで天皇や賛美できるものだ。そして戦争は美化できるものではないにしても、精神的な連帯感としてとらえれば、戦争に向けて日本人が推進できるものとして、戦争は日本人の精神的な支えだった。賛否あるにしても。
それがなくなった時、経済が取って代わられるような気がするけれど、あくまでも経済は経済だ。生きる術でしかない。精神的な支えになるはずがない。
そういう意味で、みんな欠伸をしていた、ということになるのだろう。何も精神的な支えがなく、どこへ日本が向かおうとしているのか分からないままに、ただ生きることは退屈なのだ。
■現代日本も欠伸をし続ける
この小説が書かれたのは1950年代であるが、現代日本は経済が疲弊しており、相変わらず精神的な支えはない。ビジネス・文化・サブカルチャー・カルト宗教だのといったものを、日本人は個々に「信奉」するけれど、日本人がこれだと思える精神的な支えはどこにもない。
「家族」がそれに代わるかといえば、家族を持たない人も増えているし、孤独が良いという人もいる。それにどんなに仲が良い家族も、いずれはどちらかが死ぬのだ。
そういう意味では、現代日本では、経済成長によって曇らされてきた精神的な支えの欠損が、よりいっそう、不気味な輝きをもって浮き彫りになってくるのだ。
現代日本では、今も欠伸をし続ける人たちがいる。鏡子のように、元の夫と再婚して日常を送り続けても、欠伸は止まらないのだ。
■構成、文体
構成はあまり上手くない。非常に間延びしていて、冗長なシーンも多いし、600ページもの大作にする必要性は感じない。
また、『仮面の告白』『金閣寺』における絢爛たる文体を本作にも夢見てしまうと大きな肩すかしをくらう。読み易い文体ではあるけれど、構成が良くないので読むのに難儀する。俺も、つまらないシーンは読み飛ばしてしまった。三島作品では考えられないことである。
上述のように、描かれていることは特筆すべきなのだが、それを描きたいなら、もうちょっとボリュームを薄くしてコンパクトにするべきだったと思う。特に第一部は読むのが辛い。二部になって面白いシーンが頻出するし、テーマも浮き彫りになるが、それでも、二部も冗長でキツい。
三島が言っている戦後の虚無の象徴である欠伸は、別に膨大なページ数の本作でなくても、YouTubeにおける動画でも見られる。もちろん文体が面白く構成に引き付けられれば、同じことを言っていても読むに値するのdが、本作はページ数が多いので時間がもったいない。ファンでなければ、手に取らなくても良いと思える作品である。