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【映画レビュー】 白ゆき姫殺人事件 評価☆☆★★★ (2014年 日本)

湊かなえ原作の映画『白ゆき姫殺人事件』を観た。犯人探しのミステリー映画という体裁だが、結果的には女性の心情を追った心理的な映画となっている。犯人探しという枠組みはあるのだが、それにしては真犯人が意表を突いた存在ではないし、動機も練られておらずばかばかしい。映画はタイトルも含めて何とかミステリーにしようとしているが、無理がある。従って、ミステリーとして見ると退屈だが、想像力に長けた内気な女性の心理を読めるという点では悪くない。ただ、女性心理を描いた映画であることを強くアピールしていない映画なので、半端な印象は否めなかった。

 

社会的な映画になりそうな題材を持ちつつも、そこまでのメッセージ性・演出のエネルギーを感じられなかったのが残念なところ。原作通りに映画化しているのであろうが、ミステリー仕立ては最初から捨てて、社会的な映画として構築していけばもう少し面白かった。あるいは、女性の心理を追った映画に焦点を当てた内容にすれば良かったと思う。中途半端にミステリ的で社会的な映画だから、この映画が何を一番言いたいのか分かり辛くなってしまっていた。

 

この映画は、TVやツィッターのようなインターネット上のコミュニケーションツールを題材に、リアルの世界で起こった殺人事件の犯人探しをするというストーリーである。映画は、最初はTVとツィッターの両方がストーリーの流れを追うように描くが、最終的にはそのどちらもが真実の前に敗北する。

 

犯人探しをするのは、TV制作会社で契約社員を務める男(綾野剛)で、特ダネをTV局に売り込みたいばかりに、大学時代の女友達からの誘いに乗って殺人事件をTVで放送する。井上演じる城野が犯人であるかのように決め付けて報道し、結果的に城野犯人説というミスリードを犯してしまう。男はツィッターをやっていて、ツィッターで殺人事件をTVで追っていることを暴露してしまう。そこに利用者の噂が噂を呼んで、城野の氏名や顔写真が堂々と公開されていく。

TVという古くからあるメディアが、「物語」の真実を歪め、そして新時代のメディアであるインターネットツールが、TVに踊らされて単なる噂話に終始する。

いちばん真実を語っていたのが、城野の独白手記という、もはやメディアですらない文書というのが特異な設定だ。TVにもネットにも反旗を翻し、幼い頃から『赤毛のアン』を読み漁る冴えない女性に、TVもツィッターもみんな翻弄されていたとも見える。というよりも、城野という人物を通り越して、独白手記や『赤毛のアン』のような文学が、TVやツィッターを翻弄したとも言い得る。結局TVもツィッターも真実にたどり着けないからだ。それだけこの映画にとって、文章の存在は大きいのだ。

 

物語の最後になって、小学校以来交流がなかったかつての親友が、『赤毛のアン』に着想を得た、「光」を使ったコミュニケーションを使う。城野は田舎に帰り、親友の「光」を見る。それは相互にろうそくに火を灯して交信するものだが、それなりに距離がある家と家の間に光を遮るものがなければなされないコミュニケーションだ。そんなことは都会にいるとあり得ないし、田舎でも住宅街に入ってしまうと出来ない。城野の田舎のように、自然が未だ残り、家と家の間に障害物がない場合でなければ、困難な交流なのだ。

そして映画はこういう原始的な交流を暖かく描く。交流?そう、ツィッターのような「顔が見えない」交流ではなく、相手の顔が見える交流を映画は讃える訳だ。TVに至っては交流ではなく一方通行の発信源でしかない。そうしたものから離れて、原始的でアナログな交流を肯定的に描写する。

 

文章、アナログな交流・・・こうしたものを好意的に捉える映画。だが冒頭から言っているようにアピールが弱い。タイトルもミステリー的なのにミステリーとしては弱い。ツィッターやTVと、文章との対比も、そんなに強調されていないから、気付かない観客は気付かないだろう。なーんだ、犯人意外性ないわ・・・という感想で終わってしまう嫌いが多分にある。女性の心理も、もっともっと強調して良かった。そのためには「殺人事件」の真相を暴くという構成ではなし得ない。もっとストレートに描かないと伝わり辛い。こういう課題を残す映画だが、「女性心理」や「文章や原始的なコミュニケーションの優位性」を掬えるところは悪くなかった。

 

 

白ゆき姫殺人事件

白ゆき姫殺人事件