好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

選ばれし田舎者たち

今週のお題「わたしの本棚」

 

学生時代はたくさん本があった。本棚が本で埋め尽くされるのは当然なことで、床にも本が積み上がっている。あたかも坂口安吾の書斎のようだ。こんな感じ↓

 

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・・・と言おうと思ったら、この写真には本がほとんどないではないか。あるのは雑誌の記事のきれはしのようなものと、原稿の山である。坂口安吾の全集だか何かを・・・ちくま文庫の全集だったか、それともどこかの出版社の現代日本文学全集「坂口安吾編」だったか全く憶えていないが、俺はこの写真を見た時、坂口安吾の書斎は俺の自室と似ている!と思ったものだった。

 

しかしこのブログを書くために写真を検索したら、全然本なんかない。むしろ紙の山だ。既に職業作家になっていた坂口安吾は、文章を書くために「考える」のであって、そのために他者の本よりもむしろ、自身の頭の中で「考える」ということか。

そう考えれば、坂口安吾の書斎と俺の自室とが一緒である訳はないのだが、なぜか俺はこの写真を見た時、俺の自室と同じだと勘違いしてしまったのだ。そしてその勘違いは、どこから来たのか。

 

坂口安吾のこの写真を見た時に俺が感じたのは、滑稽さだった。小説好きの田舎者が上京してたまたま成功し、小説を書いて生活ができるようになる。そこで自分は芸術家だと思いこむ。作品の需要はあるし、無頼派と呼ばれてオダサクや太宰などと共に周囲には活気がある。自分はひとかどの芸術家となったのだ、と。何かそういう田舎者の成り上がりのような滑稽さを感じたのだった。

だからこそ、俺はこの写真に自分と同じものを感じたに相違ない。そしていつの日か、自室が本で埋め尽くされている様が、坂口安吾の写真と同じであると思いこんだ。しかしこうして見ると、坂口安吾の書斎を埋めているのは紙である。原稿である。もともと写真と自室とが共通していたのは、何かで部屋を埋め尽くしていることであり、それが、自分が拠って立つところの何物かが異なっているだけに過ぎない。そういう意味では、やはり俺の自室と坂口安吾の写真とは同じなのだろう。勘違いはどこから来たのかと言ったが、どこからも来ていないのである。本質は同じであったのに、いつの間にやら外貌が変形してしまったということだ。

 

坂口安吾の書斎と俺の自室とに共通するもの、それは拠って立つところの何物かで部屋が埋め尽くされていることだ。そして、拠って立つところの何物かというのが、滑稽さだろう。坂口安吾はひとかどの芸術家になったと思いこんだ。じゃあ俺は?

俺の自室が本で埋め尽くされていたのは、大学生の頃だった。俺は小泉政権時代に大学生だったのだが、そうとは思えないくらいに古臭かった(時代を言い表すのに西暦で言えば良いものを、あえて当時の政権名で語るところもまた、古臭い。一年ごとに政権交代した第一次安倍政権時代や、麻生政権時代と言われたらどうするのか?読んでいる人は西暦何年だとすぐ様数えることができないだろう)。早稲田や神田の古書店街を漁っては古書を買って読み、新刊の本は買わなかった。明治大正の文学や、せいぜい三島由紀夫川端康成までが文学だった。そして全く良いと思っていないのにドストエフスキーを素晴らしいと思いこんでいた。今思い返せば気取り、恰好つけでしかない。 

俺の周りでは文学を読んでいる者はだれもいなかった。社会科学を専攻しているのだから当たり前だが、俺はそれを「おかしい」と思っていた(明らかに俺の方がおかしいし、もっと言えば気狂いに近いのだが)。なぜ、人生の問題に立ち向かわないのか。俺はそう本気で思っていたのだ(小説に人生の問題の解を求めるのもどうかと思うのだが・・・)。

だから俺は、俺自身を選ばれた人間のように思っていた(『ドラクエ』の勇者じゃねえぞw)。

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そして周りの人間は愚かだと本気で思っていた。独りよがりでしかないのに、俺は自分を孤高だと思っていた(本当に恥ずかしいが)。だから理解できない癖に、孤高の芸術家を愛する傾向があった。文学者で言えば永井荷風であり、映画監督で言えばイタリアのヴィスコンティである。荷風などは、現代日本を忌んで江戸趣味に回帰したが、それが素晴らしいと思った。もちろん今でも荷風は嫌いではないが、当時の俺は荷風の文学を読んでから悟る本質よりもむしろ、こうした「江戸趣味に回帰した」孤高の姿勢を素晴らしいと思った。つまりそれは、ただの上辺だけなのだ。

 

この感性は滑稽だ。ひとかどの芸術家ぶった坂口安吾と同じように滑稽だ。否、本当は坂口安吾には一切適っていない。なぜなら坂口安吾は本で金を稼いでいるが、俺は何も生み出していない大学生に過ぎないからだ。しかも坂口安吾は『堕落論』を書いて戦後の日本人に影響を与えたし、その他に『白痴』や『桜の森の満開の下』などで今尚読み継がれる本を書いている。俺は大河の一滴でしかないのに、坂口安吾は大河にそびえる岩である。大河は岩によってせきとめられる訳ではないが、岩があることで、そこだけ大河の形が変わる。そんな人間が坂口安吾と同じだと思ってシーソーに乗ってみたら、予想以上に坂口安吾の体重が重くて、俺は空の彼方へと吹き飛ばされてしまうだろう。

だがもうちょっとだけお付き合い頂きたいのは、それを踏まえた上で、坂口安吾の写真からどうしても拭えないのは、ひとかどの芸術家ぶった滑稽さだ。そして自分は坂口安吾の足元にも及ばないと思いながらも、彼の書斎に自室を重ね合わせてしまうのだ。もちろん「ああ、同じ匂いのする人間がいる」と思って近づいてシーソーに乗れば飛ばされてしまう訳だが。

 

言い切ってしまうが・・・俺も坂口安吾も、随分いきがっているよなあと。まだまだ精進が必要なのに、自分は一人前だと勘違いをしている。否、ちょっと言い過ぎか。俺は冒頭で坂口安吾をたまたま成功したなどと書いたが、相応に努力をして作家になったはずだし、彼の成功が偶然であるはずがない。必然なのである。そして何よりも、たくさん現代に残る作品を書いている坂口安吾と俺を同列に並べるのはいかにもバランスが悪い。

 

好きな人はすまない。俺のことは嫌いになっても坂口安吾のことは嫌いにならないで欲しい。

 

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