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【書評】 痴人の愛 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 

 

久しぶりに谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んだ。谷崎らしい唯美主義・耽美主義が如実に表れた作品となっていることを改めて感じた。非常に理念的な愛を描いているので、そういった愛が分からない人にとってはチンプンカンプンである。ただのバカの話じゃないか。そうである。バカ=痴人の話なのだ。

 

端的に言えば夫の妻に対する愛だが、その愛は現実というよりも夫の志向する理念的な愛である。理念的な愛は夫が志向する最高の美に対する欲求であり、一方通行の愛である。従って、彼の愛は妻の心を捉えることがない。妻は夫の気持ちを知ることができずに他の男をわたり歩く。妻の心情は余り語られない。妻は物欲が強いが本当は精神的な愛も求めているかもしれない。しかし語られない。語られるのは、あくまでも夫主観の愛でしかないからだ。

 

痴人というのは主人公の河合譲治のこと。ヒロインで妻でもあるナオミに付帯する美を追求する余り、ナオミに愚弄されても、果てはナオミに不倫されても、ナオミが男たちの慰みものになっても、それでも尚ナオミの美を求める(慰みものになったといっても、ナオミが進んで慰みものになっているのであるが)。

ナオミが譲治を「気違い」呼ばわりするシーンがあるが、仮に気違いとなっても尚もナオミの美を求めるのが譲治である。即ち痴人と言うが、譲治は狂人でもある。

 

譲治は、カフェで働く15才のナオミを見て、美の萌芽を見た。未だこれから萌えていく美であるが、間違いなく美に至るであろう。譲治はその手助けをしたい。そう言って、まるで芸者の旦那にでもなったかのようにナオミを家に囲う。そして自分の意のままに育てていく。

譲治は、現在で言えば少女を拉致監禁して理想的な女性にしようとする犯罪者に近いと思われるかもしれない。確かにその気質はある。しかし気質はあるにせよ「拉致監禁」はしない。ナオミをあくまで自由にするのが譲治である。

むしろ、現在で例えるなら美少女ゲームにハマるオタクの方が近しい。美少女ゲームの中には育成シミュレーションというジャンルがあって、オタクである男が、美少女を理想的な女性像に育てるというゲーム内容だ。まさに『痴人の愛』そのものではないか。

ゲームと違うのはナオミは生きる人間であり、譲治の思い通りには育たないということだ。ゲームはプレイヤーの思い通りに美少女を育てられる。プレイヤーだけを愛するようにも育てられる。

生きる人間はそうはならない。譲治の思うようには育たないのだ。だが、譲治は自らの思うようにナオミが育たないからこそ、むしろナオミを愛するし、それこそが理想的な女性像なのだ。そういう意味でも、譲治の愛は美少女ゲームにハマるオタクと近しい。理想的な女性像を手にすることができるからである。

譲治はむしろナオミが奔放で自分を愚弄するからこそナオミに美を認めるのである。美に対して跪く譲治である。男を翻弄し、男を破滅に追い込むほどに美しく妖艶な女にこそ美を感じるのが譲治である。乱交するナオミであるが、それほどまでに男を虜にするのがナオミである。多数の男から恋焦がれられ、そして一度は男の相手をするも、あっさりと男を捨ててしまうのがナオミであり、それが譲治にとっての理想的な女性像なのだ。

 

一度ナオミは譲治に打擲された上に家を追い出される。理由は、譲治を二度と不倫しないと約束したのに、裏切ったからである。

譲治も一度はナオミを忘れようとする。しかし、結局は忘れられない。なぜなら何度もナオミが自宅を訪ねてくるからである。ナオミは譲治の家を追い出された形になったので、私物を置き忘れていた。それを取りにくるのだが、図って、ちょぼちょぼと私物を取りに戻る。そうすることで、譲治の自分に対する気持ちを復活させようとする魂胆があるからだ。

一気に私物を取りに来れば譲治ももしかしたらナオミを忘れられるかもしれなかったが、何度も取りに来るので案の定譲治はナオミへの情を思いだす。ナオミの足を見る。女性(=ナオミ)の足は譲治にとって特に美を感じさせる部位である。譲治はナオミへの思慕を復活させる。

そういう訳でふたりはまたもふたりで暮らすようになるのだが、今度はただの夫婦ではない。

今度こそナオミは自由な存在となる。不倫しようが散財しようが狼藉を働こうが関係ない。ただ譲治の傍らにいてくれる(もちろん夫婦としての営みはするだろうが)こと。それだけで譲治は良いのである。

ナオミのために譲治は横浜の西洋館に移り住む。そのために母の遺産を使う。それで良い。ナオミに自由な生き方をさせるため、譲治は金を散々使うのだ。

 

細かいことを挙げれば、本作は詰めが甘いシーンが数多い。会社を何日も休んでも解雇されずに生活できたり、会社を退職した後は自営業で生計を易々と立てて尚且つナオミに贅沢をさせるだけの余裕が持てたりといったシーンは、随分と乱暴な設定にも思える。

しかし、そういう細かい詰めの甘さは、疑問には思えるものの、作品の質を下げるものではない。

本作は谷崎の耽美的な小説の象徴的な作品のため、エロティックな作品だとする向きもあるだろう。しかし全然エロくない。エロさはそぎ落とされ、理念的な美へと昇華している。本作よりは初期の『刺青』の方が描写はよほどエロティックである。

ただ、このエロさがそぎ落とされていて、理念的な美へと昇華したという点は、「昇華」と見るか否か判断が分かれるところだろう。『痴人の愛』の理念的な美の前に跪く男という設定は、『刺青』とほとんど変わっていないのだが、『刺青』よりもより技巧的で人工的な感じがする。もっと生々しいナオミの姿が見たかったとは思う。そうしないと読者に対してナオミの魅力を訴求するのに納得感に欠ける。

 

ナオミの良さが分からない。そういう考えもあるだろう。何しろ痴人の愛である。なぜかくもナオミに裏切られて平気でいるのか。その説明はない。あるのは、美、それだけだ。だが痴人である譲治は女性に付帯する美に取りつかれているのだ。だから、ナオミから発せられる美のためなら、彼はどこまでも彼女に跪く。

但しナオミに対してエロティックな描写が少ないため、彼女の官能性を率直に読者に伝えるには至らなかったと言える。そこは意見の分かれるところだろう。俺は少しものたりないと思っている。

 

ナオミのことを、譲治は何も考えていない。確かにその通りだ。俺は初めからナオミの美を愛する者として譲治を捉えていた。ナオミではないのだ。ナオミから発せられる美のみが、譲治を捉えているのである。もしナオミが死んでしまったら、譲治はどうするのか。もしかしたら後追い自殺をするかもしれない。しかし彼はあくまでもナオミの美をもう二度と見られないがゆえに自殺するだろう。ナオミの死をいたんでのことではないはずだ。

痴人の愛』で描かれているのは譲治の痴人としての愛である。それは理念的な愛であり、自己愛である。譲治はナオミを媒介にして、美を堪能しているに過ぎない。彼の愛はあくまでも自分の内側にしか存在しない。