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ももでちっそく

書評・映画レビューが多くなってきましたが、雑記ブログです。口が悪いので酷評することも多いです。すきなひと、さーせんね。

自涜のよろめき

性の話

妻が第3子を妊娠中だ。俺も子ども好きだし、妻のことは好きだけれど、切迫早産防止のためセックスが出来なくなることがもどかしい。

「ああしたいなぁ」と思って求めても、「お腹が張る!」と言われて断念する。第1子の時も切迫早産気味で同様のことを言われたけれど、こちらは妊娠しておらず性欲があるので諦めきれない。妻も妊娠中は性欲はあるとはいうが、切迫早産のリスクを負ってまで、行為する気にはなれないということだ。


三島由紀夫流に自涜をすることもあるけれど、セックスのようには面白くないから、満足感がない。セックスは性欲を満たすための行為であり、お互いの愛を高め合うための行為であり、シンプルに性のコミュニケーションであり、あるいは自涜におけるイマジネーションの現実化等と、様々な意義がある。


俺は中でも、自涜におけるイマジネーションの現実化を、セックスに求める。そう思うのは、俺が性に対して厳格な家庭で育ったところに原因を求められるだろう。


俺が少年時代を過ごしたのは1990年代後半。男子でありながら自由な恋愛を快く思われず、尚且つアダルトビデオやヌード写真集を見ることを許されず、露見した時の父親の怒りといったら雷が落ちるどころか処刑されるような気分だった。


ゆえにしかたなく、学校の同級生の姿、声、衣服、あるいは総合した像を想像して(イマジネーションして)自涜に耽ったものだった。そしてその頻度は厳格な性への禁止に反発して高くなる。休日になれば自涜に費やす有効な時間が増えるので、休日の自涜の時間が楽しみであった。


イマジネーションによる自涜に自らの性欲を満たすはけ口を求めたのは、アダルトビデオのようにテレビを占領することもなく、写真集のように形に残ることもなく、ただイマジネーションのみで自涜に耽ることができるためである。つまり秘密理に性の快楽を得るためにはこの方法しかなかったのである。


アダルトビデオや写真集を見なかったわけでは毛頭ない。見たには見た。そして興奮もした。好きでもある(笑)しかし父親の怒りを防ぐには、ビデオを見るためにテレビを使っては、いつ見つかるか分からないし、そもそも、ビデオを保管する場所にも困る。そしてこの保管場所の問題が、俺にイマジネーションによる自涜へと誘うのであった。


父親が、俺がビデオや写真集を見ていることを知って以来、定期的に俺の部屋を探っていることは、知っていた。だから仕方なく、俺は学校のカバンにビデオや写真集を仕舞った。ここなら見つからないと思ったからであるが、いちいち学校に持っていかなければならない不便さがある。それに悪童のようなクラスメイトがイタズラで男子のカバンを物色したり、持ち物検査といって教師がカバンを調べることもあったので、俺は家の近くの公園の茂みにそれらを隠した。


そして、夜になるとランニングと偽って写真集を取りに行き、ランニング帰りとは思えぬほどスッキリした顔で帰宅すると、部屋に直行して自涜する。また、両親がどちらもいない時を見計らってビデオを取りに行き写して見る。


しかし公園だから雨には弱い。写真集は雨に濡れて紙が張り付いて読めなくなる。ビデオは再生できなくなる。何度か試して嫌になり、俺はもはや、イマジネーションだけで自涜する他にないことに思い至った。この方が好きな女の子のことを思い描きながら、かつ、彼女にはならぬことを知りながら、想像の中では自らの手中に入ることを知り得るからである。写真集やビデオは見も知らぬ女性の像を想像して自涜する。イマジネーションだけで好きな女の子のことを思い描きながら自涜することは、身近にいる、よく知っている者を思い描きながら自涜するわけだから、現実感があるのである。そして、翌日その女の子とすれ違って挨拶されると、奇妙な罪悪感を覚える。罪悪感だから不快ではあるが、やや、気持ち良い。罪の意識を感じつつ快感を覚える。


そんな俺がセックスを経験した時の衝撃は大きかった。まさに、イマジネーションによる自涜が現実化したことを実感したからである。


相手の女性は恋人ではなかったけれど、何度か自涜の対象にしていた。だから会う度に罪悪感を覚えたし、にもかかわらず快感を覚えたのである。


斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』によると、オタクがオタクたりうるのは二次元の女の子に対してぬけるかどうかだと言っていて、そういう意味では俺はオタクにはなれないが、二次元の女の子といっても性を排除している女の子のキャラクターもいるわけである。オタクはそういった女の子に対してもイマジネーションを用いて性の対象として、ぬく。そういう意味では俺も二次元ではないながらも俺の彼女ではない女の子を対象に、自涜するのであり、イマジネーションだけで言えば俺もオタクのことがよく分かる。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

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オタクと違うのは自涜の対象としていた女の子と、セックスすることができる点だ。そして俺は、イマジネーションによる自涜から始まり、セックスによってイマジネーションが現実化することの意義を感じる。


だから俺は、自涜だけでは満足することができず、妻とセックスをしたくなる。イマジネーションが現実化することの意義を強く感じるからだ。


それが出来ないことは良くない。出産まで何ヶ月もあるけれど、その後もすぐに女性はセックス出来るとは限らない。育児に疲れて性のことを忘れる女性もいる。育児が女性の全てとなる。


だから、可能性としては出産後も直ぐにはセックスが出来ないことも、ありうる。それはなかなかの苦痛である。イマジネーションは、俺にとっては、現実化されてこそ価値がある。セックスの意義をイマジネーションの現実化に求める(そればかりではないが)俺は、妻とセックス出来るようになることを、心待ちにするばかりである。


最後に、オタクは、二次元の女の子とセックスすることは出来ないが、それをもって俺はオタクを軽視するものではない。オタクはイマジネーションに優位性を持たせているだけのことだ。現実と想像と、オタクにとっては自らの意のままになるイマジネーションこそを重要視している。俺ももし、オタクになれればこんな苦しみを味わわなくても済むかもしれぬが、そうしたら妻は要らないということにならないか。


※とまあ、文学的に多少の虚飾も含めながら書いてみたけど。


要は、俺は、妻とセックスがしたいというだけのことなんだよね。それだけじゃ見も蓋もないから、こんな七面倒臭い言い回しにしてみたけれど。良い昼休みの暇つぶしになったぜっての。


タイトルは、美徳のよろめきという名作からのパクリだ。


美徳のよろめき (新潮文庫)

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