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【映画レビュー】 沈黙 評価☆☆☆★★ (2016年 米国)

chinmoku.jp


映画『沈黙』は、江戸時代を舞台に、キリスト教を棄教しなければ殺されるという時代にあって、棄教したと噂のあるフェレイラ神父を追って、二人の司祭ロドリゴとガルペが日本に来るところから始まる。劇的なストーリー展開を誇る原作と違い、映画はドキュメンタリーのように静かな描写だ。
その原作は日本の作家・遠藤周作の同名小説。

香港のマカオにたどり着いた二人は、唯一の日本人キチジローの手招きで日本の長崎にたどり着く。そこには、隠れキリシタンの住む村があった。役人たちから逃れるために、キリシタンは自らを偽って信仰を続けていたのである。隠れキリシタンの強い信仰を知った二人は喜ぶが、次第に役人の手が伸びてくる。

十字架に磔にされても尚聖歌を歌い、神を讃える隠れキリシタンたちは、初期のキリスト教徒を思わせる。ペトロ、ステパノなどのように、キリシタンは死んでいく。しかし、死を前にしても尚彼らは神を讃えるのだ。


■静かな描写

推理作家のように、巧みなストーリーテラーでもある遠藤周作の原作は、フェレイラ神父がどうなっていたのか?を主軸の一つに入れて、読者にページを繰らせる。
フェレイラは、「棄教したと噂されているが本当は違うのだろう?あるいは本当に棄教したのか?」と、読者の問いを天秤にかけて、ストーリーを進める。あたかも犯人探しのように緊張感を漲らせながらストーリーの展開を示していた。
しかし、映画は、何度かフェレイラのことをセリフに表すも、キリシタンへの役人による懲罰や、ロドリゴによる告解などに比べるとストーリーを牽引する要素にはなっていなかった。
最後にようやく姿を現すところは原作に忠実だが、ずっと探し求めていたフェレイラが棄教して、日本名と妻子を与えられていたという、衝撃的な事実を露わにするシーンでは、衝撃とは縁遠いシーンとしている。あくまで事実を静かに落とし込むような描き方、半紙に筆で事実を書いて歴史書を物するような客観的な描写に徹する。

だから、『沈黙』は、あたかもドキュメンタリー映画を見るように、衝撃的なシーンは敢えて入れていない。キチジローを演じた窪塚洋介も、インタビューの中で、慟哭する演技についてはカットされていたと語るが、これもドキュメンタリーのように映画を作るためなのだろう。この映画は事実に基づく映画ではないのだが、スコセッシのカメラは過去の事実はこうであったと言いたいほどに厳格に描いている。


■原作のテーマが薄れてしまっていた

『沈黙』のテーマは、棄教しなければ殺されるという時代に、生命を賭して信仰を続けるキリシタンを通して、なぜ、神は助けてくれないのか、なぜ神は沈黙しているのか、という問いと、それに対する答えだ。だが、どうも映画はそれを見誤っているようである。

俺は原作についてのレビューで、ロドリゴの独白を以下の通りに引用した。

「自分は彼等を裏切ってもなおあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」

rollikgvice.hatenablog.com


『沈黙』という作品全体に広がっているのは、「踏み絵=形あるもの」と「信仰」である。

踏み絵を踏むという行為は、即ちキリスト教を棄教するということに繋がる。それはキリシタンのみならず、主人公のロドリゴやガルペ、またはフェレイラ神父も同様で、キリスト像を踏むことに相当な躊躇をする。役人は踏み絵だけでは飽き足らず、キリシタンか否かを確かめるために、村人に「十字架に唾を吐き、聖母に淫売と言え」と迫るのだが、要は、『沈黙』においては、信仰が、形あるものを通じて果されるものであり、信仰の対象である十字架やキリスト像を足で踏み、または唾棄することは、棄教することと同一であると共に、「信仰を捨てる」ことでもあるという理解なのだ。

しかし、原作では、更に一歩踏み込んで、「信仰」とは本来どういうものなのか?ということを、読者につきつけていくのである。先ほど俺は、形あるものを否定することは、棄教を行い、遂には信仰を捨てることであると言ったが、原作には「信仰」についてもう一つの相貌を見せる。それが「信仰」とは本来どういうものか?の問いに対する答えだ。

ロドリゴは、数多くの日本人キリシタンの殉教や、同輩のガルペの殉教を見て、そして最後に、自らが棄教しないとキリシタンが拷問で死ぬという状況にあって、遂に棄教する。そこで、「信仰」とは本来どういうものか?を悟るのである。

上記の引用は、その棄教後の悟りなのだが、棄教し、キリスト教徒でなくなったとしても、尚も信仰は続く、ということなのだ。棄教しても尚神を信じキリストを信じることはできる。ゆえに、形あるものを、ロドリゴは否定する(踏み絵を踏み、棄教する、そして日本人として生きる、妻をめとる)けれども、その行為をもって信仰を捨て去ることには繋がらない。信仰とは心で感じるものである。

神は確かに何も語らない。別にキリシタンの命を救うことはない。しかしたとえ神が沈黙していたとしても、ロドリゴの人生はすべて神について語っていたのである。形あるものを否定したからといって信仰は変わらない。心で感じるものだからだ。



翻って映画では、ラストで原作とは全く異なるシーンを示してしまった。

なぜなら、踏み絵を踏んで棄教し、キリシタンの命を救ったロドリゴが、信仰を持ち続けていたかどうかは、彼の言葉では多くを語られず、彼が死んでその棺の中に「十字架」が置かれることで理解させようとするからだ。しかも、キチジローが着物の中に「聖画」を隠し持っていたことで、捕縛されてしまうという場面は、蛇足以外の何物でもない。キチジローがロドリゴの元に通い続けていた場面があるけれど、そこでロドリゴはキチジローに形あるものを越えることを伝えなかったのだろうか。原作を読む限りは、伝えても良さそうなものだが・・・

ロドリゴの「十字架」も「聖画」も、形あるものだ。原作では、それら形あるものを乗り越えて、心だけでキリスト教徒となり得ることを示したにもかかわらず、原作では「形あるもの」に留まっているかに見える。もちろん、棺に十字架を入れても構わないが、それまでにロドリゴの唇から、明確に、本来の信仰とはこういうものだという悟りの言葉が欲しい。むしろそれは避けては通れないはずだった。

これでは、いかに役人(この世の者)が棄教を迫ったところで、信仰においては何らの意味もなく、キリスト教徒は心で信仰を持ち続ける・・・そういう原作の主張がどこかへ飛んでしまっている。

形あるものに意味がないとは言わないが、形あるものを、行為として否定しても、キリスト教徒であり続けることはできる、というのがロドリゴの人生だったはずだ。それが、映画ではあいかわらず十字架、聖画では、スコセッシ監督は原作を理解しているのか?とすら思えてくる。


■俳優について

映画については上記の通りに、重要な点で不満があった。加えて、静かな描写についても、観客には分かりづらいので、俺は評価し難い。音楽がほとんどというより皆無だが、何の意味があるのか分からなかった(神の沈黙だとしたらあざとい)。もっと観客の感情を昂ぶらせるように音楽を効果的に使うべきだ。

それでもこの映画には価値があると思うが、特に日本人俳優は良い演技をしていた。

特に、日本の芸能界において、力があるにもかかわらず敬遠されていた窪塚洋介については賛辞を送らなければならない。中盤においては原作同様出演シーンが減るが、最後の最後で出てくるし、序盤はストーリーの展開をけん引する存在であるキチジローを、強いインパクトを持って演じていた。

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窪塚洋介

キチジローは12使徒の中のユダであり、遠藤周作の投影であり、多くのキリスト教徒の象徴である。キチジローは冒頭では酒浸りであり、誰もキリシタンとは信じていないが、キリシタンなのだ。ロドリゴの考えるキリシタンとは、また別であるが。

ロドリゴを何度も裏切り、キチジロー同様キリシタンだった家族が踏み絵を踏めずに死んでいく中、彼だけは生き残ることを選ぶ(つまり踏み絵を踏む)。要は家族を見殺しにするのだ。だららキチジローは鬱屈した表情をいつまでも崩さない。

キチジローは自らを「弱い者」と呼ぶ。弱い者は、救われるのかとロドリゴに聞く。
ただ、これこそがぐらぐらと浮ついている多くのキリスト教徒の心情なのだろう。12使徒といったって、キリストが死ぬまでは誰もキリストを本当の意味では信じていなかった。だから、キリストが死ぬ間際でもぐうぐう寝ているし、キリストが捕らえられた時、弟子は、ペトロを含めて蜘蛛の子を散らすように皆逃げたのだ。聖人といったってこんな程度だ。
だからありふれたキリスト教徒はそれ以下の存在である。ぐらぐらして浮ついている。弱い者だ。だが、皆、こんなものだろう。誰も命を賭けて信仰している者ばかりではない。この時代のキリスト教は、現代のカルトのようなものか、信じるだけで死ぬのだからカルト以下の価値しかなかった。命を賭けて信じろなんて無理な話である。
だから、皆、弱い者なのだ。その象徴がキチジローであった。踏み絵を踏み、十字架に唾を吐き、それでも尚キリシタンたろうとする者がキチジローだ。

さて、そのキチジローを演じる役者を探すため、スコセッシは何年も何年も時間をかけた。オーディションもたくさん行った。窪塚は一度オーディションに落ちたが、2年後にもう一度受けて受かった。そしてビデオオーディションを見てスコセッシは窪塚を呼び寄せる。そして今度こそ『沈黙』のキチジローを演じるに至る。

キチジローは弱い者。しかし信じるだけで殺される可能性がある時代において、キチジローはロドリゴを裏切っても尚信じ続ける。何度も裏切りつづ得るので、観客としては「こいつクズだな」と思うけれど、クズでも尚、キリスト教から離れられないのがキチジローだ。だから、キチジローを演じることのできる俳優は、信じる目がなくてはならない。強い目だ。何かを見据える目。その先に、本当に神がいるのかどうかは分からない。キチジローの場合は、キチジロー自身がいるような気もするが、なんにせよ強い目を持つ俳優、窪塚洋介は、このキチジロー役で大きく花開いたことは間違いない。彼を見るだけでも、この映画は見る価値がある。

窪塚はロドリゴを演じたアンドリューと大差ない身長なので、ずいぶん大柄に見える。日本人は小柄なのだし、それに、司祭とキリシタンという関係なので、少し背が低い方が教えを請う者のイメージとして良いのだが。それと原作のイメージだと、狡猾さも併せ持っているので、もう少し小柄な俳優の方が良いかもと感じる部分はある。でもそうすると窪塚がこの映画に出ないことになるので、やっぱり、良いか、小柄じゃなくても。

浅野忠信は通辞役を演じており、流暢な英語を披露している。ロドリゴと役人との会話を通訳する係りだが、事務的な役割に落ち着かず、ロドリゴに理詰めで棄教するように攻め立てる怖さを持っている。ロドリゴのことは徹底してバカにしている。結構嫌味な男を余裕のある様子で演じている。浅野は日本映画『私の男』が最高の演技で、『沈黙』もそこまでではないにせよ、通辞役なのに物語をけん引する場面が多々あるので、存在感は抜群である。

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浅野忠信


イッセー尾形は今回の演技で、海外で評価されているとのことだったが、そんなに良かったかと思った。いやらしく演じているとは思うが、少し無理をしているように感じる。演劇出身だから仕方がないのだが、表情や話し方が大げさであるからだ。映像なのだからもう少し自然に演じないとわざとらしさが気にかかる。


主役のアンドリュー・ガーフィールドはどうだろう?あんまり神父っぽく感じなかったのだが・・・なぜ彼をロドリゴ役にしたんだろう。髪型とか服装で神父っぽさを出してはいるが、どうにも・・・長髪で髭ぼさぼさで、音楽好きの兄さんのように見えて仕方ない。