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【書評】 イエスの生涯 著者:遠藤周作 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)

 

 

 

 

1 キチジロー的な信仰

 

遠藤周作による「イエス・キリストの生涯」を描いた作品。マーティン・スコセッシの映画に窪塚洋介が出演したことをきっかけに、『沈黙』を読み、その流れで遠藤周作の原作に興味を持ち始めて2年経ったが、まさかここまで多数の作品を読むことになるとは思わなかった。それだけ遠藤周作キリスト教の信仰への執着は、惹きつけるものがあるのだろう。

 

そもそも遠藤周作の描くキリスト教への信仰とはなんだろう?

『沈黙』や多くの作品を読むと分かるが、遠藤周作が追求したのは純粋でブレない信仰というよりも、自らに率直な信仰である。つまり揺れ動いても尚キリスト教を求める信仰だ。

 

『沈黙』で言うならキチジロー的な信仰と言おうか。

キチジローは何度でも神父を裏切るが、また戻って来る。それも必ず戻ってくる。キリスト教の神から彼は離れることが出来ないのだが、そこに率直さを感じる。逆に純粋な信仰とは、ブレない信仰だ。疑いがない。殉教するような者はまさに純粋な信仰を持つ者である。揺れ動くことがない。

 

しかし誰しもそこに到れる訳でもない。もっと現実的で、殉教なんかとんでもないと思う者もいるだろう。それでも尚、キリスト教を離れられないという時、遠藤周作の描くキチジロー的な、率直な信仰へと近づく。自らの人間的な心に正直であり、そこから抜け出ることが容易でないにもかかわらず、キリスト教を求めるのがキチジロー的な信仰だ。

 

2 率直な信仰の果てに

 

本作は、遠藤周作が創造したキャラクターが出てくる訳ではなく、語り部はあくまでも遠藤自身であり、彼の信仰における率直さは如実に表れている。

 

『沈黙』では、主人公ロドリゴの人生を通して神やキリストについて語るが、本作でもそれは変わらない。遠藤は、『イエスの生涯』の最後の方で以下のように書いている。

 

私はこの「イエスの生涯」の俯瞰によってイエス自身を捉えられたとはつゆ思っていない。我々は自分の人生を投影してこの人を考えるからである。

 

ロドリゴが悟ったことと同様に、自分の人生が神やキリストについて語るのだ。

 

『イエスの生涯』で白眉だったのは、なぜ使徒たちがイエスを本当の意味でキリスト(メシア、救い主)と悟ることができたのか?ということだ。それを遠藤は終盤で描いていく。

 

使徒たちはキリストを裏切る。寝てはいけないとキリストに言われたのに寝る。キリストが処刑される前夜の有名なシーンである。

ペテロは「あなたは鶏が3度鳴くまでに3度私を裏切る」とキリストに言われて、確かにその通りに裏切る。最後までつき従う使徒は何人かいたが、それでもキリストが捕らえられたあとは、みな散り散りに逃げてしまう。

 

つまり結局、イエスが処刑された時に従うことができた使徒は一人もいなかったのだ。そうであるなら、なぜイエスに、この使徒たちがキリストだと悟れたのだろうか?と素朴な疑問が湧く。

 

遠藤はそこで、イエスが死んだ瞬間のファンタジックな聖書の描写によって使徒たちの悟りがあったとは言わない。それでは説得力に欠けるからだ。遠藤は、なぜか?と問う。

 

遠藤がたどり着いたのは、イエスが死に瀕しても尚、神を崇めることができた点である。イエスが十字架にかかった時に言ったという7つの言葉があるが、ここに、神の名のもとに人を許し神を称える言葉が並ぶ。

 

十字架にかけられて、手と足を釘で打たれ、使徒からも裏切られて、文字通り神からも見捨てられたイエスは、尚も神を称える。ここに使徒は感激し、この人こそキリストだと悟ることができたのだ。

 

裏切るというのは、遠藤の作品ではキチジローに代表されるように、自らに率直なキリスト教信者の行為である。遠藤はペトロ等の使徒を、自分たちと同じだと言う。自分に正直で、生きることに執着して・・・それこそがキチジロー的な信仰の姿に他ならないが、遠藤が使徒について描いた上記の部分は、キチジロー的な率直な信仰の果てに、彼らがたどり着いた信仰に言及する。

 

使徒は率直な信仰を経て、純粋な信仰にたどり着く。そのきっかけはイエスの死に瀕した時の言葉だった。それゆえに彼らは、裏切っても尚、神を求めるキリスト教信者から、ブレない純粋なキリスト教信者へと、変わっていく。

 

その姿を清冽な筆で描く遠藤の言葉は非常にきれいである。