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【映画レビュー】 ラ・ラ・ランド 評価☆☆☆☆★ (2016年 米国)

gaga.ne.jp

 

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アカデミー賞最多14部門ノミネートのミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』。デミアン・チャゼル監督、ライアン・ゴズリングエマ・ストーン出演。チャゼル監督はアカデミー監督賞、ストーンは同主演女優賞受賞(ベネチア、GGの女優賞も受賞)。ゴズリングもアカデミー主演男優賞にノミネートされた。既に世界興行収入3億ドル超のヒット作となっている。

 

舞台はロサンゼルス。冒頭の交通渋滞にイライラするドライバーたち、一人の女性が車から降りたところからオープニングナンバーが始まり映画は幕を開ける。このオープニングナンバーが洗練されていて、色彩感覚豊かな映像と共に絶大なインパクトを誇り、物語へと強く引き込む。

 

ストーリーは、ロサンゼルスで成功を夢見るジャズピアニストのセブと、女優の卵のミアによる、「男女の出会いと別れ」を描いたもの。ただしセブはピアニストであるが、彼の夢はピアニストとしての成功ではなく、自分の好きなジャズを聴けるお酒が飲める店を開くことである。

これまで一体どれほどの映画がこのストーリーを描いてきたか分からない。男女の出会いは、映画の2時間という尺に収めるためには適当な題材なのだろう。

しかしそれをどう料理するかは監督の手腕にかかっている。

 

あらすじだけを読めば、ロサンゼルスを舞台に、ありきたりで凡庸な男女の出会いと別れがあるだけだ。むしろ、セブがジャズの店を開いて大成功し、そして女優の卵であるミアが、有名女優になってしまう件は、唐突な印象を与え、やや説得力に欠けるとさえ言えるほどだ。ストーリーにはシンプルで大きな仕掛けは無いので、映画を鑑賞した後にこの映画は何を言わんとしていたのかと言う疑念に囚われなくもない。単に出会いと別れを描いただけではないかと。

 

しかし何とも形容し難い感動が押し寄せるのは何故なのか。

 

 

二人の出会いから数カ月、ミアは女優を夢見ていたが、あまりにも不合格が続くため、セブの勧めもあり自分で脚本を書いて自作自演の一人舞台を披露することにする。しかし結果は惨敗で、客席はまばら、楽屋の脇を通る観客から聞こえて来る感想は、ミアへの中傷だった。

夢破れた彼女はセブの元を去り実家に戻る。

セブはセブで、店を開くという夢はどこへやら、安定した収入を得るためにバンドのピアニストとして働くようになっていた。

二人ともロスの現実の壁に阻まれ、夢を諦めてしまったかのようだった。

 

ある時、セブのスマホにミア宛てに電話が来る。

相手は大作映画キャスティングエージェントで、「ミアの一人舞台を見て感心した。オーディションに来て欲しい」というものだった。

セブは驚きミアの自宅に車で向かう。

最初はオーディションに行くことをかたくなに拒むミアだったが、セブは「明日、朝8時に迎えに来る」と言い残して去ると、彼女は思い直してオーディションに参加する。大作映画の撮影地はパリで、合格したら渡仏することになる。

セブとミアは、もし合格したらどうするかを話し合う。お互いの愛を確認する二人だがどこか二人の愛はここで終わるような、潜在的な哀しさがある。ミアはパリに行くけれどセブはロスに残り夢を追う。夢を果たすためには、しばしば、男女には別れを伴うものなのだ。

 

そして大作映画のオーディションに合格した彼女は、パリに赴きスターの道を駆け上がり、5年後、有名女優になってロサンゼルスに現れる。

彼女はある年上の男性と結婚し、一女をもうけていた。そこにセブの姿はなかった。

 

ある時夫婦は、車に乗って、二人だけのデートを楽しもうとする。そして夫が、あるジャズの店に行こうと誘い、ミアも応じるとその店の名はかつて彼女がセブのために考えた名だったことを知るのだ。

店の中央に座り、ジャズの店を仕切る男を見ると、セブがいる。セブもミアに気付くと二人の思い出の曲をピアノで弾いて行く。

 

二人は、時を経て違う道を歩んでいるが、二人がもし結婚していた場合の5年間を、映画に随所に流れていた美しく、明るく、時にはもの哀しいいくつかの曲と共に、走馬灯のように作り出し、「もう一つの『ラ・ラ・ランド』」を怒涛のように描き出す。

セブとミアは別の道を歩み、もはや、共に愛し合うことはないけれど、二人で過ごした時間の大切さは一片たりとも変わらない。最後に二人は笑みを浮かべながら見つめ合い、それぞれの道へと戻って行く。

 

 

この走馬灯のように振り返る終盤のシーンは、『ラ・ラ・ランド』のもう一つの物語を観ているようで、もしかしたら別の人生が、セブとミアにはあったかもしれないとも思う。しかし、もしそれを選択していたらどうなっただろう。セブは店を開業出来ず、ミアは女優になれなかったのではないか。走馬灯のように振り返るのは、本来は「過去」のことだがこれは「可能性」の物語でしかなく、事実ではない。

だから、走馬灯のように振り返った可能性の人生が、美しいものであったとしても、それはあくまで可能性。しかし可能性ではなく現実だったのは、二人が愛し合った事実だ。それが既に過去のものとなってしまったとしても、彼らはそれを、セブのピアノ一つで思い返すことが出来る。

 

 

言葉は常に、映像よりも音楽よりも、優位であるように思って来た。言葉は明確で、それだけに共通して他者と理解し合うことが出来る。映像や音楽は言葉よりも感覚が強い。それゆえに受け手によっては別の解釈をすることが出来てしまう。それゆえに言葉の方が優位であるように思って来た。

 

しかし、事実、このようにレビューで『ラ・ラ・ランド』についてずらずらと文章を書き連ねてみても、いささかもこの映画について語っているように思われない。観た方が早い。そう言い得てしまうほど、言葉の無力感を感じる。

 

それが、特にこの映画の終盤のシーンに現れているように思う。非常に明るく、楽しい映画でありながら、将来への不安を顔に表す主演俳優二人の表情に、哀切さを感じられてならない。それは映像とジャズのせいなのか。つまり映像と音楽の優位のせいなのか。

 

言葉は明確で、映像よりも音楽よりも明確で論理的であることが出来る。しかし、書かれた言葉は、ピアノ一つで走馬灯のように過去を振り返ることは難しい。書かれた言葉は、連続した映像を用いて走馬灯のように過去を振り返ることは難しい。

 

『ラ・ラ・ランド』がありきたりで普通の「男女の出会い」を描いた凡庸なストーリーを描きながら、感動を呼び起こしてやまないのは、言葉が映像よりも音楽よりも「劣位」にあることではもちろん無く、言葉では表現することが難しい喜び、愛、哀しさ、切なさの感情の組み合わせを、映像と音楽との巧みな複合体で呼び起こしてくれるからだろう。

 

・・・と、こう書いてもこの映画の魅力をいささかも語っているように思えないのだが、書かれた言葉は、この映画の前では、黙るしかないのかもしれない。むしろ、「超感動した」とか「すっごく良い映画だった」とか言う、映画を観終わった後に、俺の心の中に浮かんだ言葉、他の観客の言葉、ツィッターのつぶやき、その程度のダイレクトな言葉の方が、より『ラ・ラ・ランド』の感想としては、本質を突いているかもしれない。

 

ご都合主義的な展開はどうしても気になるが、この映画で言いたいことは実業家として成功することでも女優として名を馳せることでもない。だからご都合主義は良い部分とは言えないが、作品の質を大きく貶めることにはならない。

 

しかし、これ以上語ると野暮でしかないので、もう、閣筆する。

 

と言いつつ最後にもう一言だけ。

自分にとって『ラ・ラ・ランド』は不完全な恋人のような存在とすら言い得る。完全な恋人は、頭の中で作られたイマジネーションの産物だけだ。つまりタレントとかアイドルとか、そういうキャラクターである。手が届かない高根の花のことである。それらは、自分にとっては生きていない。リアルではないからだ。だが『ラ・ラ・ランド』はそのように非現実的な対象ではなく、恋する対象だ。『ラ・ラ・ランド』は多くの作品のオマージュが挙げられる。映画に恋をしたチャゼル監督が撮った作品、それが本作だろう。

しかし俺にとって『ラ・ラ・ランド』はまさにチャゼル監督が恋をしてきた映画の系譜に連なっている。