読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ももでちっそく

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 テレーズ・デスケルウ 著者:フランソワ・モーリアック 評価☆☆☆☆★ (フランス)

 

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

 

 

舞台は20世紀前半のフランス。未だ第二次世界大戦もはじまっていない。この地には、自由な精神社会は未だ訪れず、人間の思考回路は伝統に依存している。女性に投票権はないし、女性解放運動などずっと先のことである。それなりに、自らの思考で自由な判断をして、決定をしていくことが出来る現代とは違い、「家柄がふさわしい相手と結婚すること」、「女性は家庭を守る者として存在すべきである」などとしてしか捉えられない時代にあっては、人々の思考は、自らではなく伝統に従って繰り出されるに留まっている(現代でも伝統の強さは消えてなくなってはいないし、伝統が悪者でもないのだが)。

 

『テレーズ・デスケルウ』は、古い伝統に依って立つ思考しか出来ない人々の中でアイデンティティを確立しようとする女性の物語だ。とはいうものの、もはや現代には古過ぎる作品ではない。さっき、現代では自らの思考で自由な判断が出来ると言ったが、「それなりに」と留保を付けた。現代でも、伝統ではないが、思考を阻害する枠組みはある。そのために思考が停滞させられる場面にはいくつも遭遇するだろう。そういう意味で本書は現代にも活きる作品と言えると思った。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』の主人公で、聡明な女性テレーズは、結婚対象の男たちの中ではマシな男ベルナールと結婚する。しかしベルナールは、女性であるテレーズよりも自分を高く見せようとして、論理的な思考をするテレーズに、旧弊な考え方を押し付けたり、感情的になったりして黙らせようとする。そうはいっても論理を優先させるテレーズは、夫の思考に納得出来ず、彼女は何度も理屈っぽい自己主張を繰り返す。小説の中で二人は、何度も対話が食い違っていく。読者はテレーズに理知を感じるが、伝統の前では論理さえもひざまづかなければならないのかと嘆息させられる。そしてテレーズの思惑は遂に報われることがなかった。

 

 

テレーズは、夫と生活を共にしていくうちに、アイデンティティは永遠に手に入れられないような気がしてしまう。夫が自信たっぷりに話し、だんだん太ってきたこと、毛が多過ぎることなどの些細な点が、自分のアイデンティティを阻害する全てに見えて来る。夫の存在が、思考を決定づける「伝統」そのものであるかのようだ。このままこの男と生活を続けていれば、自分は自分というものを死ぬまで手に入れることが出来ないままである。事態の転換を図るために、テレーズが取った行動は、夫の毒殺だった。

 

 

結果として夫の毒殺は未遂に終わるのだが、未遂に終わったことが『テレーズ・デスケルウ』の独創性を高からしめる点だろう。

 

未遂となったことでテレーズは、裁判にかけられるが、夫や家族は家の名誉を守るために偽証をしてしまうのだ。それによって無罪放免となった彼女だが、心が不安定なのだということにさせられて、軟禁状態にさせられる。結局、テレーズのアイデンティティを確立する試みは失敗に終わるのだが、物語はこれ以上の悲劇を示そうとはしない。

 

毒殺が失敗に終わったことで、伝統の檻の中に、テレーズをがんじがらめにしようとするベルナール、そしてその家族、あるいは実父。テレーズは物語の最後でタバコを吸い、やや軽快さを取り戻した足取りで前に進もうとする姿が描かれる。テレーズは自殺を試みたこともあるのだが、それでも尚生きることを選択した。最後の軽やかにも見える足取りによって、テレーズは尚生きることを選ぶが、それは、彼女があいもかわらず論理を優先し、アイデンティティを獲得しようとし続けるのではないか?という、疑念と感動とが混合した感情を、読者に与えもするだろう。物語の中で悲劇をこれ以上しめさないことで、未だテレーズが、戦う余力を残しているような気持ちにさせられるのである。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』は、カトリック作家モーリアックによって書かれた。モーリアックの代表作で、遠藤周作はこの作品に感銘を受けており、本書の翻訳も手がけている。俺は、遠藤の訳を読んだのは初めてだったが、非常に分かりやすく、メッセージ性のある文体で訳されていたと思う。

 

本書は、上記では触れていないが、多少神の問題が書かれているが主題ではない。カトリック作家のモーリアックが書いたといっても、別段キリスト教の色合いが濃い作品ではないし、本書の解説者が述べている通り護教文学ではない。むしろモーリアックは、カトリック的には異端と言われたことがあって、彼はそういう指摘に悩んでいたほどである。

 

しかしキリスト教的でないからこそ、現代でも本書は普遍性を帯びて我々の前に立ち上って来る。伝統とアイデンティティの問題は、例えばビジネスの現場において、「ルールや仕組み」とアイデンティティと置き換えることが出来る。働きたいのに待機児童が解消されないので失業せざるを得ない女性、あるいは逆に育児に関わりたいのに会社の理解がなくて残業続きの男性、いくらでも会社や国の雰囲気などによる「ルールや仕組み」にアイデンティティを阻害されている人間は、思いつく。

 

『テレーズ・デスケルウ』を、ただ単に夫婦の問題として本書を読むのはもったいない。自らの限界に線を引いてしまうのではなく、ルールや仕組みと毅然として戦ってアイデンティティを獲得しようとする現代の読者にも強い印象を与えるはずであろう。