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【映画レビュー】 ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜 評価☆☆☆★★ (2009年 日本)

 

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ [DVD]

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昭和初期の作家・太宰治は何度も自殺未遂を繰り返し、遂に玉川上水で愛人と心中して、死んだ。そのせいで常に死にとりつかれていたように思うが、実際に死にたかったのか、生きたかったのかは分からない。何度も自殺未遂を繰り返しては失敗していた彼は、生と死の間で右往左往していたようにも見える。本当に死にたいなら、自殺に何度も「失敗」するはずがないだろうと思うからだ。彼が書いた小説でも自殺しようとする主人公が出てくる。現実でも創作でも彼は死を書いたが、生と死の間で右往左往しているうちに、本当に玉川上水で死んでしまったような気もする。

 

映画『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』で、主人公の大谷譲治は、愛人と心中未遂を起こすが、水に体が濡れたなどというつまらない理由で生還している。大谷は、常に死にたいと言っていながら、結局生きて返る。彼は、本気で死のうとはしていない。生きていてもつまらないと思い、既婚者でありながら数多くの女性と性関係を持つ大谷は、死を目指すような言葉をたくさん吐く。しかし、簡単には死ねなかったし、死のうとはしていないのだ。

 

そして、大谷と心中未遂を起こした愛人も、生還した後にニコニコ笑って大谷の妻とすれ違うが、彼女も本気で死のうとはしていない。言葉では死を目指すのだが。

 

大谷の妻は、散々夫に不倫され、最後は心中未遂をされる妻である。堕ちるところまで堕ちている妻だが、物語の最後で、彼女が発する台詞は、大谷と妻の生を肯定する。いわく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」と言う。だが、この台詞が物語の最後で語られることによって、筆者には、大谷夫婦以外の人物についても、生を肯定するための台詞となっているように見えた。つまり映画の人物全てについて、妻は生を肯定しているのだ。

 

 

主要人物について見ていくと、思いの他、生の倦怠感や不安に捕らわれていることが分かるだろう。

 

・大谷の妻に言い寄る若い工員の片思いは成就されることなく終わってしまう。

・もう一人、大谷の妻に言い寄る弁護士がいるが、彼は大谷の心中事件を解決してやる代わりに、大谷の妻を抱く。職業は弁護士で、大谷の妻を手に入れたことで欲望は成就しているように見えるが、彼の人生は順風という程でもない。銀行の頭取の娘との見合いをしたというエピソードがあるけれど、その娘は散々アメリカ軍と遊び歩いた娘である。そんな娘をもらわなくてはならない惨めさがある。

・大谷の妻が勤める居酒屋の経営者夫婦にしても、闇酒を扱ったり、おかみの方は大谷と性関係を持ったことがあったりと、商売の方は上り調子だが、日陰者の夫婦であることに変わりはない。

・大谷の愛人たちもどこかはかなげで、いつ死んでもおかしくなさそうな疲労感を表情に持っている。

 

第二次大戦後の日本を舞台にしているということもあろうが、彼らの現状をつぶさに見ていくと倦怠感や不安ばかりのように見える。その象徴が、大谷とその妻、ということになるだけだ。

 

そういった疲れ切った人物たちの言動を見ると、彼らの人生は終わりなのではないかと思う。しかし、大谷の妻が最後に夫に投げ掛ける「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」という台詞によって、この映画の疲労困憊の人物たちの生は肯定される。やや坂口安吾的とも言える生の肯定は、大谷の妻から発せられ、夫に伝播し、そして映画の全ての疲労しきった人物たちへと浸透していくようだ。原作では、大谷の妻は同じ台詞を発するけれども、そこまで生き生きとしてはいない。

 

私は格別うれしくもなく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」と言いました。

 

言わば映画は原作の最後を、原作よりも「生の肯定」をするために一抹の幸福感をもって描いたのだと思う。原作では、妻は「格別うれしくもなく」この台詞を語っていて、台詞とは裏腹、大きく、生を肯定しているとは言えなかった。しかし映画ではもう少し前向きに、堕ちるところまで堕ちた人間たちに対して、それでも生きてさえすればそれでいいと言えていた。

 

 

大谷譲治を浅野忠信が演じているが、太宰治はこんな人だったのではないかと思わせるエロティシズムと知性を感じさせた。知性といっても、太宰の場合、三島由紀夫のような強固でやや近寄りがたい知性ではなく、もっと大衆的である。この映画の場末の人間が「先生」と言い得るような、大衆との接点がある知性だ。だから太宰の知性は、非常に分かり易い。

 

志賀直哉太宰治の代表作の一つ『斜陽』のワンシーンで、貴族の母が庭で小便をする描写に辟易したと言ったのを記憶しているが、文学界の重鎮からすれば、太宰は大衆的過ぎて、劣って見えたことだろう。しかしそれでも大衆から見れば十分に太宰は知的であった。太宰の知性は大衆の中で芽生える知性なのである。

 

その太宰の知性、そしてエロティシズムを体現していた浅野は、男から見ても官能的だ。特に、太宰治の写真としてよく見る、あの、頬杖をついている姿を彼は何度も映画の中で示すのだが、下向きがちで自信がない頬杖は妙に色っぽい。浅野は破滅型の人物を演じるとその人物が乗り移ったかのような、見事なパフォーマンスを見せるが、今作のように、静かな破滅型の人物を演じることは多くないので、内に秘める狂気を顔や言葉、仕草で存分に示してくれて、彼を見ているだけで十分に満足できた。

 

 

ただ、この映画をあまり高く評価できないのは、世界観の構築が安っぽく、NHK連続テレビ小説を見ているかのようなセット感丸出しの舞台設定に嫌気がさしたからだ。

それと、『ヴィヨンの妻』の台詞をそのまま俳優に言わせているので、リアリティが薄れている。学芸会の台詞回しのような堅苦しさだ。もっと原作から自由になって、台詞を言わせても良かったと思うのだが。