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【映画レビュー】 愛、アムール 評価☆☆☆☆★ (2012年 オーストリア、フランス他)

愛、アムール [DVD]

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ミヒャエル・ハネケ監督作。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞。米アカデミー外国語映画賞受賞。『ファニー・ゲーム』、『隠された記憶』に続いて、筆者にとっては3作目のハネケ作品である。今回も素晴らしい出来であった。ハネケは、『ファニーゲーム』ではメタミステリーを描き、『隠された記憶』では思考の一面性を批判する。普遍的に了解されているもの(ミステリー、一面的な思考)に対して、ハネケはひびを入れて壊し、異物を再生産する。本作も同様で、『愛』という題名だが、ストレートに愛を謳う映画ではない。愛という言葉そのものを問い直す映画である。筆者が観た2作に比べるとやや「ひびの入れ方」が穏やかなので、☆を5ではなく4とした。

老いた夫婦ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニヤン)と、アンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、アパルトマンで暮らす。娘は独立して、夫婦は経済的に不自由のない生活を送っている。現役で働いていた頃、彼らは音楽で生計を立てていたらしく、部屋にはピアノがある。アンヌには、成功した弟子アレクサンドルまでもいる。二人が交わす言葉は限りなく同質的で、コミュニケーションは滞りがない。あたかも、理想的な夫婦の姿に見える。他者からもジョルジュとアンヌは尊敬の対象を持たれている。

しかし、ある時、アンヌの身体に異変が起こったことから、彼らの愛の関係は狂い始めた。介護が必要になったアンヌに甲斐甲斐しく世話を焼くジョルジュだが、アンヌの身体は一向に良くならない。それどころか、アンヌは言葉にも変調をきたしていく。何を語りかけても通じ合うことができなくなる。アンヌは、意味のない言葉を発し続け、ジョルジュが何を語りかけても通じない。ある時、水を飲ませようとしたジョルジュに反発して、アンヌは水をペッと吐く。この時、ジョルジュは、アンヌに暴力を振るってしまう。そして、遂にはアンヌを手にかけて殺害しまうジョルジュ。ジョルジュとアンヌの関係は、愛なのか、それとも、いったい何と形容すれば良いのか?

愛なのか、それとも、いったい何と形容すれば良いのか、という問い自体も適切か分からない。
というのは、筆者にも妻がいて、彼女が病に倒れてしまうことの「可能性」を考えたことがない訳ではないからだ。そして、言葉が通じ合わなくなってしまうことにより、愛の関係が途切れてしまうのではないかという不安を、考えたことがあったからである。
従って、筆者も妻が病に倒れた時に甲斐甲斐しく世話を焼くだろうが、果たして、ジョルジュのように暴力を振るわないでいられるか何とも言いようがない。それほどまでに言葉は、愛の関係を保つために重要な構成要素であり、むしろ言葉がなければ愛の関係は成り立たないのではないかと思われるくらいだ。

夫婦が愛し合うために、重要な構成要素として言葉があり、むしろ言葉がなければ愛し合うことはできないのではないか。
仮にまったく言語の異なる男女(例えば日本語と、日本人にとっては馴染みの薄いノルウェー語のような言語)がいて、夫婦になって初めてお互いの言語を覚えなければならないという、極端な状況を考えてみることにしよう。その時に、夫婦は言葉が通じないことに悩み、いらだち、苦しむだろう。しかしいつか、相手の言語を理解する時は訪れる。最初は、ジェスチャーによって、モノを使うことによって、言葉の代替を図るだろう。そして、徐々にお互いの話す言語を覚えていく。あるいはどちらかの言語に合わせるかもしれない。いずれにせよ、練習によって共通の言語を理解し合うことができる。そこから初めて、愛の関係は始まる。夫婦は、言葉の交流なしに、愛し合うことなどできるはずもないのだ。
だから、このように極端な例を示してみても、配偶者の言語が通じないということは、愛の障害にはなるけれど、愛の関係を否定するものではないのだ。なぜなら、前述の通り、練習により、いずれは相手の話す言語を習得することができるためだ。そうすれば、相手が考えていることが分かるから、愛の障害にはなるが、愛の関係は否定されなくて済む。

しかし、『愛、アムール』のように、病によりアンヌが一切の言葉を理解しなくなり(フランス語だろうが、ドイツ語だろうが)、発する言葉も意味がない言葉になってしまい、もはや二度と、言葉によって交流することができなくなると、愛の関係はどうなるのか。外国語を話す夫婦の例とは違い、練習によっていずれ相手の言語を習得することができると言い得るものではない。何しろアンヌ自身も意図して言葉を発している訳ではないからである。ジョルジュに伝えたいことがあって、言葉を発しているのではない。もはや、病によって、正常な思考をすることを許されなくなったアンヌにとって、発する言葉は、意味をなさない。練習はここでは全く役に立たない。誰が、アンヌの発する無意味な言葉の意味を理解することができようか。

映画の序盤では同質的な言葉を交わし合っていた夫婦の愛の関係に、亀裂が走った時に、ジョルジュはアンヌを殴る。『愛、アムール』において、ジョルジュが放つ暴力は2回のみである。アンヌを殴った時と、アンヌの息の根を止めるために枕を用いて窒息させた時である。しかし、アンヌを殴った時に、既に、愛の関係にひびが入って崩壊する道をたどることは予想できることであり、「ジョルジュがアンヌを殴ること」は、即ち愛の関係が否定されることを暗示していたのだ。

ここまで考えてみると、「夫婦が愛し合うために、重要な構成要素として言葉があり、むしろ言葉がなければ愛し合うことはできないのではないか」・・・そう問うてみた時に、『愛、アムール』において、返ってくる答えは、「その通り。愛し合うことはできない」というものである。どうしても、ジョルジュのように、一方的な愛となってしまうのだ。夫婦を主語において、言葉がなければ、愛し合うことはできないのである。それが夫婦の愛なのであるという、冷徹な視線で老夫婦の物語を照らし出すハネケは、この映画において、夫婦の愛を問い直し、言葉がなければ破たんする、非常に脆いものが愛なのだと言う。でもそれが、夫婦愛の大きな構成要素を占める言葉というものの、あまりに大きな存在に、映画を観て、圧倒されざるを得なかった。


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