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【映画レビュー】 ゴースト・イン・ザ・シェル 評価☆☆☆★★ (2017年 米国)

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ghostshell.jp

 

原作もアニメも経験済みのはずだが、主人公が草薙素子ということ以外、内容を全く覚えていない『ゴースト・イン・ザ・シェル』が映画化されたので観た。先週はダルデンヌ兄弟の『午後8時の訪問者』も観たので、2本も劇場で映画を観たことになる。まるで大学生の時分に戻ったようだ。確かにあの頃は、週に何本も観たし、DVDも含めれば1日に2本も3本も鑑賞したことがあった。それに比べれば週に2本観たくらいで学生時代に戻ったとは言い過ぎとも言えようが、月に1本劇場で映画を観るか観ないかくらいに、劇場での鑑賞頻度が低くなってしまった現在、週に2本も劇場で映画を観たのだから、それくらいの「言い過ぎ」も許されるというものだ。

 

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、ジャンルはSFアクション映画で、全体的に激しいアクションが多く、予算が掛かっていることがよく分かる。画面全体が暗いため、せっかくのアクションが見栄えが良いのか否か分かり辛いのはマイナスだ。古い例だが『マトリックス』みたいに明るい絵にすべきだった。

主人公は身体が透明になって、突然敵の前に現れることができる。それは本作独特で、面白いのだが、せっかくそのような個性があっても、全体的に暗いシーンばかりでは予算の無駄遣いにすら見えた。

 

 

義体という、半人間半機械のような身体を持つことが現実となっている世界において、主人公のミラ(草薙素子ではないのだ!)は、脳以外全てが機械というアンドロイドのような人間である。元々の肉体に脳があった頃の記憶は消失しており、自分が何者なのか分からない。とりあえず、捜査の職務を遂行することが彼女の任務であり、プロフェッショナル然として人間離れした活躍を示す。

 

演じるのはスカーレット・ヨハンソンで、ビルから飛び降りたり敵と激しく格闘したりと、荒々しいアクションを無理なく演じている。ヨハンソンは『ロスト・イン・トランスレーション』で初めて観て以来、好きな女優なのだが、観たいと思う出演作が多くない。だから、文学界の狂犬とあだ名されるジェイムズ・エルロイ原作の『ブラック・ダリア』以来、彼女の演技を観た訳だった。『ロスト・イン・トランスレーション』は批評的にも興行的にも成功した作品なので、ヨハンソンも『ロスト』の印象が強いのだが、最近は『アイアンマン』『アベンジャーズ』等のアクション映画にも出演していることもあり、本作でのアクションもお墨付きなのだろうけれども、筆者には“『ロスト』のヨハンソン”というイメージであったので、彼女の見事なアクションの演技の披露には、隔世の感があった。

 

心配だったビートたけしについては、全編英語の作品なのに彼だけが日本語をしゃべるという、よく分からない設定だった。「半機械」の世界だから言語が異なってもあたかもコンピュータのように外国語を瞬時に翻訳してくれるのかもしれない。だから外国語を話されるということは、意味を持たないのかもしれないが、特にそういった設定上の説明がないので、易々と納得させられるには至らない。

たけしは既に日本語での台詞にも怪しいところがあって、カツゼツが悪く何を言っているのか聞き取れないところがある。筆者は彼の監督作もお笑いについてもファンだが、それは優れたパフォーマンスを提供できていた過去があるからだ。時折YouTubeで「北野ファンクラブ」を見ることがあるが、彼の言語の選び方や間髪を入れない迅速な話し振りは今尚面白い。ああいう話し振りが、彼の思考によるものであることは、たけしの説明を要さない映画の演出方法を見ればよく分かる。

 

ビートたけしは、カツゼツが悪いせいで台詞を満足に言えないようでは、俳優として致命的だと思うし、彼が相変わらず映画に重宝される現状から、たけしは裸の王様なのではないかと思うこともある。しかし、彼が本作で銃を使って暴れまわるシーンには、あたかも『アウトレイジ』を思わせてゾクゾクしたし、たけしはしゃべらなくても身振りだけで、観る者を興奮させる俳優だと感じた。劇中で彼が放つ、「きつねを殺すのにウサギを寄こすな」(ちょっとうろ覚えの台詞だ)という台詞には、『アウトレイジ』シリーズにあってもおかしくない程に雄々しいプロフェッショナルさを感じる。それにあのヘンテコな髪形。たけしがバラエティで演じる道化にも見えたが、それをシリアスに見せるのは、たけしのシルエットの凄みであり、監督の演出の妙味だろう。

 

 

主人公の名前が草薙素子ではなく、ミラという名前であることからして、既に原作やアニメと映画は異なる物語だと想像させられるが、その通りで、ミラは以前の記憶がない。以前というのは、義体ではなく、元々の肉体と脳が繋がっていた頃の記憶である。筆者は原作やアニメを見ているから、主人公が草薙素子だと知っているので、ミラの正体が素子だと気付いている。そして物語も、ミラの記憶をたどって、本当の名前は草薙素子なのだと教える。ゴーストというのは「魂」だが、いかに義体となって、体のほとんど・・・特にミラの場合は脳以外が全て義体である・・・が機械となっても、その人の魂自体は、つゆほども変わらないというのが、この映画の主要なメッセージなのである。ただのSFアクションではなく、人間の魂の尊さを伝える訳だ。

 

それゆえ、素子というと日本人を思わせるけれども、既に義体になってしまった彼女の外見が、西洋人であるスカーレット・ヨハンソンであることは、この映画のメッセージを伝えるための象徴と言えるだろう。これが同じアジア人であったら、魂は変わらないということのメッセージは弱まってしまう。素子を演じるのが西洋人、しかも、いかにもアングロサクソンのような顔立ちのヨハンソンが演じたのがこの映画のメッセージを高めていた。ヨハンソンが素子を演じることで、批判もあったようだが、映画の分かり易いメッセージ性を見れば、そういった批判は、全く意味がないことを知るだろう。

 

素子にはヒデオという恋人がいて、そのヒデオは、物語の前半で敵とされているクゼの元々の姿なのである。それが、カーターという本来の敵のあざむきにより、敵と仮想されていた。それが物語の終盤で明らかになり、ヒデオはカーターの手によって死ぬのだが、素子=ミアは、クゼの本来の姿を知っているので、彼の死を悼む。こういった設定も、メッセージ性をより高める、効果的なものだと言える。

どうでも良いが、ヒデオというと、ゲームデザイナーの小島秀夫を思い出してしまうのだが、さすがにそれは考え過ぎか。