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【映画レビュー】 アウトレイジ 評価☆☆☆☆★ (2010年)

アウトレイジ [DVD]

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アウトレイジ』は、関東の暴力団組織山王会グループ(池元組、大友組)、そしてグループには属さない村瀬組同士の抗争を描く。

抗争を仕掛けたのは山王会会長の関内である。あたかも、関内会長は大企業の社長のようであり、神のようでもある。

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山王会会長の関内(北村聡一朗)


山王会のグループには、池元組があり、その組長が池元である。池元組は大企業・山王会の子会社のような存在だ。山王会の中核で、規模は中堅企業のようなものか。

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池元組会長の池元(國村準)


そして、更に池元組の傘下に、大友組という小規模な暴力団組織がある。その組長が大友であり、物語の一応の主人公である。大友組は山王会にとっては孫会社のような存在といえる。

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大友組組長の大友(ビートたけし


最後に、山王会グループではないが、池元と兄弟の盃を交わしている村瀬組がある。組長は村瀬だ。村瀬組の規模は大友組と似たようなもので小規模である。池元と村瀬は兄弟分とはいえ、巨大暴力団組織である山王会に属する池元組からは、後ろ盾がないだけにいいように使われている。特に、「山王会会長から盃をもらえる段取りを取ってくれ」という村瀬の要望を、池元は利用して懐を温めようとする。池元は村瀬の要望をはなから聞く気がない訳だ。

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村瀬組組長の村瀬(石橋蓮司

物語は、関内会長の言葉通りに事が運んでいく。全ては、池元組、大友組、そして村瀬組の壊滅の目的のためである。

最初は、村瀬組と大友組に「いざこざ」を起こさせる。すなわち村瀬組のぽん引きに、大友組(バックには池元組がいる)が騙されたような振りをして、村瀬組に落とし前をつけさせようとするのである。しかし、この「いざこざ」は暴力団の抗争のほんの序章に過ぎず、このちょっとした「いざこざ」から、池元、大友、村瀬組の全てが壊滅してしまうことになるのだ。そして、その全ての筋書きを書いたのが、山王会会長の関内である。だから彼は相当な知恵者といえるし、あたかも神のように傘下の池元、大友、そして村瀬組をコマのように使う。

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ことの発端は、たかがぽん引きの間違いから起こったいざこざであった。それが山王会の傘下の組および村瀬組同士の潰し合いへと発展していく。


大友組の組長である大友は、手下の水野や石原を使って、”親会社”の池元組の命令を忠実に守り、村瀬組に喧嘩を吹っ掛けていく。終盤では関内会長も言葉を直接挟み、村瀬組を潰しにかかる。しかし結局大友組は、池元組に利用されるだけの駒であって、さんざん池元組のために誠実に仕事を果たしたにもかかわらず、大友組は「波紋」させられてしまうのだ。

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水野(椎名桔平

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石原(加瀬亮


そこで、今度は大友組は親会社である池元組を潰そうとするのだが、ここでも別段大友組の自由意志が働いている訳ではない。「波紋」にはもちろん関内会長の了解があるはずなのに、関内会長は、大友に、「波紋は池元の独断だ」と言うのだから。そして大友はそれを信じ、池元を殺害するに至るのだが、結局、大友組という組織は、関内会長の操り人形に過ぎない。意思などつゆほどにもないのである。池元がやれといえば村瀬だって殺すし、関内がやれといえば池元だって殺す訳である。

しかし、あたかも零細企業の経営者然としている大友は、関内会長のいう通りに動かざるを得ないのである。そうしなければ彼は、暴力団組織の中で生きてはいけないだろうから。

ずっと筆者は、暴力団組織と企業とを同一視するかのような表現を使い続けてきたが、『アウトレイジ』の目指したものは、大企業にいいように利用されて散っていった零細企業に相通じるものがあるからである。暴力団という舞台を使いつつも、どう見ても「企業」にしか見えないし、大友は零細企業の経営者にしか見えない。もっと規模を小さくして、山王会グループを1つの企業と捉えても良い。そうすれば、関内会長は社長で、池元は部長、そして大友は課長といったところである。村瀬は企業と癒着のある業者と捉えたらどうか。あるいは、こうした上下関係のある全ての組織として捉えることもできよう。

いずれにしても『アウトレイジ』は、暴力団を扱いながらも、我々とは縁遠い、バイオレンスに満ち満ちた暴力団というだけでなく、あらゆる組織における争いを、暴力団という装置を使って象徴的に描いた、稀有な作品ということができるだろう。

池元、大友、村瀬組は壊滅し、残ったのは巨大化していく山王会だけである(もっと傘下の組の数はあるだろうが)。山王会の利益のためだけに、池元も大友も村瀬も全て消失してしまった。消失すれば、村瀬組なき後、大友組が村瀬の仕事を取れたように、山王会もその分ビジネスを拡大することができるのである。3つの組がなくなった後、山王会だけが、肥え太るのだ。

このように、『アウトレイジ』は、暴力団という装置を使いながら、組織における普遍的な争いをあぶり出すことに成功したのだが、キャッチコピーの不味さや、過剰とも言い得るバイオレンス描写のために、「ちょっと人間関係が複雑で、しかし登場人物が魅力的なバイオレンス映画」というようにしか捉え難いところがある。

キャッチコピーの中で「全員悪人」というものがあってこれを槍玉に挙げたい。なぜなら筆者は、この映画を観て、登場人物に悪を感じることはなかった。
暴力団だから暴力を使うのだろうと思った。だからそこに悪は感じ難い。当たり前に思うからである。また、バイオレンス映画というジャンルゆえに、暴力に悪を感じ難いのである。銃を撃って人を殺害しても、そこに悪を感じづらい。過剰なまでの暴力描写があるゆえに、登場人物は全員悪人なのかもしれない。確かに暴力団は、存在そのものが悪というイメージがあるだろう。だが特に、『アウトレイジ』を観て、善とか悪とかいった倫理的な意識を呼び覚まされることはまるでなかった。その理由は先ほども述べたように暴力団ゆえの暴力行為であるし、バイオレンス映画というジャンルが既に、暴力を許容してしまっているのだ。だから、悪人と言われてもピンとこない。北野監督は、本当にこのような無意味とも言い得るキャッチコピーを良いと思ったのだろうか?こんな奇妙なコピーにしてしまうと作品の本質を観てもらえなくなる。

バイオレンス描写については、判断が難しいところである。
コピーのように不味いものではないが、それにしても過剰である。どうしても『アウトレイジ』といえば、拷問・殺人シーンのいくつかを思い出す。特に村瀬の歯医者における拷問のシーン、池元の拷問シーン、水野の殺人シーンは極めて印象的である。筆者はどれも刺激的で独創的なので好んでいるが、これらの描写のために『アウトレイジ』といえば拷問・殺人シーンというキーワードに引きずられてしまうことは、残念ながら否めない。

本作はカンヌ映画祭コンペティションに出品されて、ブーイングを受けた作品だ。身体の欠損のシーンもあるので、つい目を背けたくなるような、視覚的な強い痛みを伴う描写が散見される。それだけで本作の根底に流れるテーマ(組織における普遍的な争い)を見誤って欲しくはないのだが、見誤らざるを得ないのである。それだけ、『アウトレイジ』のバイオレンス描写は、『アウトレイジ』とイコールに考えたくなるほど過剰である。痛みを伴うシーンを先に考え、そこから物語の骨格を作っていったという北野監督が語った言葉があるそうだが、その企画の段階で、本作が質を少し下げてしまったところがあるのは、惜しいところである。

まあ、筆者はそういう点も含めて『アウトレイジ』シリーズは大好きなのだが・・・


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