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【映画レビュー】 白いリボン 評価☆☆☆★★ (2009年)

白いリボン [DVD]

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オーストリアが世界に誇る巨匠ミヒャエル・ハネケ監督が、初めてカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した作品。ゴールデン・グローブ外国語映画賞も受賞している。

第一次大戦前夜、名もなきドイツの村で、ひとりのドクターが落馬する。原因は馬の脚に針金が引っ掛かったことによるものだ。事故ではなく、誰かが故意に針金を仕込んだものだと警察は推測する。しかし、犯人は分からない。
その後、ひとりの女性が事故で死亡する。彼女は男爵が所有する土地の小作人の妻であり、事故が起こった場所は製材所であった。その製材所で働くことを命じたのは男爵であり、直接的な事故の原因が男爵とはいえないが、男爵が事故を未然に防げたはずだと、小作人一家は思っている。誰も反旗を翻さない中、女性の息子マックスだけが、男爵のキャベツ畑を蹂躙する。
そして3番目の事件が起こる。男爵の息子ジギが暴行され、逆さ吊りの状態で発見されたのだ。最初の事件同様、この時も犯人は分からない。男爵は憤り、犯人を見つけ出さなければ村に平和はないと告げる。

男爵と牧師が支配する、この名もなき村においては、彼らに逆らっては生きてはいけないことを意味する。村人は不安に駆られるが、犯人を突き止めることができない。

更にドクターの愛人の女性の息子が暴行され、視力を奪われる事件が起こる。この時も犯人は分かることがないが、語り手である村の教師だけは、犯人に目星をつけていた。

というあらすじなのだが、ハネケ監督の『隠された記憶』同様に、犯人探しが重要なテーマではない。もっとも、『隠された記憶』に比べれば犯人は明確である。教師が突き止めたように、村の子どもたちである。だが、犯人は誰であり、そうであるから断罪されるというような展開にはならない。一見ミステリーのような体裁を持つ『白いリボン』は、アンチミステリーとまではいわないまでも、犯人を突き止めよと、男爵が言うほどには犯人探しは重要なテーマではなくなっている。

では何が重要なのかといえば、タイトルが示すように白いリボンであろう。一連の事件の犯人たる「子どもたち」は、白いリボンを付けさせられる。その意味は、「純粋さの象徴」であるが、このリボンを付けられることで純粋さを強制させられることが問題だ。白いリボンは牧師によって付けさせられる訳だが、悪いことをした子どもたちが純粋になるまで、このリボンを取ってはならないと、彼は言う。

この牧師の姿に象徴されるように、男爵、牧師、そしてドクターは、子どもたちを心理的にも物理的にも支配する。誰も、この3人には逆らえない。村を支配する男爵と牧師とはまた違った支配の仕方である。子どもは大人よりも弱いから、もっと執拗に、強権的に、支配するのである。一方で子どもたちは純粋だと彼らは本気で考えている。純粋であるがゆえに、大人の心理的かつ物理的な支配にも抵抗することなく従うだろうと、考えているかのようだ。

子どもは大人に反抗する言葉を持てない。男爵を忌避して別れを切り出すことのできる、彼の妻のように。あるいはキャベツ畑を荒らしたマックスのように。だから、子どもは言葉の代わりに暴力に打って出る訳である。白いリボンを赤い血で染めることも厭わず、彼らはドクターを落馬させ、男爵の子どもに暴行し、ドクターの愛人の息子の視力を奪う。また、事件にはなっていないが、牧師が飼っている鳥を、実の娘が殺すこともする。

筆者はこれで4本のハネケ作品を観た訳だが、本作だけは今ひとつ評価できなかった。どうやらハネケ監督は自作『ファニーゲーム』と『隠された記憶』という2つの傑作の呪縛から逃れられないかのようだ。この2つに混乱させられているように感じる。

ファニーゲーム』はメタスリラー映画であるために、敢えて暴力描写を見せなかった。そして『隠された記憶』は、「過去の罪」を浮かび上がらせることに終始するために、敢えて犯人を突き止めなかった。そして『白いリボン』は、この2つの映画のいずれにもある特徴を備えている。控え目な暴力描写、犯人探しをしないこと。だが、そんなことをする必要はどこにもない。

この映画で重要なのは支配者の圧倒的なまでの強権的支配、そしてそれに対抗する子どもたちの暴力的な反抗である。それにもかかわらず、映画は犯人探しをしてしまっている。そして、犯人を教師が突き止めるのが終盤で、かつ、その証言を聞いた牧師は子ども=犯人説を否定して終わる。まるで『隠された記憶』のように、犯人を突き止めない。だが、筆者は、子どもが犯人であることを早々に突き止め、子どもが暴力を働いている凄惨なシーンを見せるべきだったと思う。そうすることで、子どもの狂気が伝わってくるからだ。

支配者(男爵、牧師、ドクター)は、子どもを心理的にも物理的にも支配する。それに反抗するための言葉を持てない子どもたちは、暴力という手を使うほかになかった。しかし暴力を振るっているシーンを敢えて描かないということは、狂気が伝わりにくいことに繋がる。しかしそれでもその演出を取ってしまったハネケは、意味もないのに、『ファニーゲーム』と同じ手法を取ってしまい、かえって、映画の重要なテーマを観る者に伝え損ねてしまっているのだ。

ただ、そうはいっても、映画の重要なテーマは、映画を観れば理解できるものだし(シンプルなテーマだから当然だが)、それ自体は悪くない。悪くないが、映画を観た後に数多くの言葉を紡がせるような、『ファニーゲーム』や『隠された記憶』、あるいは『愛、アムール』のようなものはなかった。ハネケの映画を観ると、言葉が怒涛のように流れてきて、あるいは思考して、さらなる言葉を考え出して提示したくなるものだが、『白いリボン』に至っては、シンプル過ぎるテーマもあってか、村の異常性が伝わり難いせいか、淡々としか流れ出るものがない。


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