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【映画レビュー】 美女と野獣 評価☆☆☆☆★ (1991年 米国)

 

 

およそ20年振りに鑑賞。美しい女優エマ・ワトソンが主演して大ヒットしている『美女と野獣』を夫婦で観たいのだが、夫婦で観るとなると子どもを誰かに預けて観にいかねばならない。それが面倒で、未だに行けないでいる。とはいえ観たいには観たいので、アニメ版を観てお茶を濁そうと思った次第である。

 

さて、前回観た時は未だ子どもだったので、ベルと野獣が舞踏するシーンが美しかったと思う以外、印象には残らなかったが、年を経て観てみると、なかなか人間的なストーリーだったと思った。上の子どもたちと一緒に観たのだが、野獣に怖がって、楽しんではくれなかった。「人間の本性は、外見ではなく中身である」というテーマなので、子どもには少し難解。小学校中学年以降にならないと、分からないか。

 

野獣は、本当は美青年の王子なのだが、魔女の呪いにかかって、野獣に変化させられている。王子の他に、擬人化した家具や食器などのキャラクターが出てくるが、彼らも魔女の呪いを受けている模様。女性と相思相愛になれば呪いは解かれるのだが、魔法の花の花弁が落ちるまでという期限が付いている。王子と熱烈なキスをすれば人魚から人間になれるという『リトル・マーメイド』と似た設定ではあるが、あちらは恋愛の要素が強いのに対して、『美女と野獣』の相思相愛は、野獣の献身的な愛が描かれており、観る者の涙を誘う。私は涙もろい方なので、本作の献身的な、自己犠牲的な愛には少し涙した。

 

テーマは「人間の本性は、外見ではなく中身である」というものだが、野獣が初めから良い本性を持っていた訳ではない。当然ながら、長年野獣の姿に身を落としているだけに、荒んだ精神に陥っている。魔女の呪いを解く方法は知りながらも、若い女性ベルに対して、恫喝したり、怒りをあらわにしたりする。食事の仕方も無作法で、これではとても女性に愛されるには至らない。あたかもオードリー・ヘプバーンの『マイ・フェア・レディ』の逆をいくように、女性ベルが、野獣に作法を教え、人間関係をうまく成立させていくためのコミュニケーション方法を教えていく。それに素直に応じていく野獣は、魔女の呪いを解きたいという目的を超えて、ベルのために優しい「男性」に変わっていくのである。

 

ベルは父親の自由と引き換えに、野獣の城に閉じ込められているのだが、ある時、父親がベルを助けようと城の近くまで来ているのを見て、ベルが哀しみに打ちひしがれているのを知った時、野獣はベルを解放し、自由の身にする。この時ベルはたいそう野獣に感謝を示して、彼の元を去っていくのだが、野獣は、ベルを愛していることをはっきりと自覚し、愛しているからこそ彼女の思いを優先し、自らは身を引くのである。

 

その後、醜い人間たちが、野獣を討伐しようと野獣の城になだれ込む。野獣は人間たちのリーダーと戦いを繰り広げるが、野獣と人間では、力に圧倒的な差があるため、野獣は本気では彼と戦わない。もしそんなことをすれば、本当に、身も心も野獣になってしまうからである。ベルに対する深い情愛があるからこそ、野獣はリーダーを本気で倒そうとはしない。そのために、野獣はリーダーに隙を突かれて、剣で刺されて殺されてしまうのであった。しかしリーダーも体をぐらつかせて谷底にまっさかさまに落ちて命を落とす。死んでしまった野獣を見たベルは、身を震わせながら野獣に愛を告白し、ようやく魔女の呪いが解けて野獣は美青年の王子に戻り、命も回復するというエンディングを迎えるのである。野獣が命を懸けてまでベルに対する愛を優先して、いたずらな暴力に身を任せなかったという事実は、人間の奥底に眠る美しい人間性を呼び覚ましたということで、感動的な結末だったといえる。キリスト教的な復活を思わせもするのだが。

 

本作はこのように出来の良いアニメ映画なのだが、ミュージカル演出がやや鼻につく。全部という訳ではないが、擬人化された家具や食器のキャラクターが何度かミュージカルを行うところが好きになれない。あまり盛り上がる演出ではなく、鬱陶しかったからである。ディズニーはミュージカル演出をよく入れるが、何でも入れれば良いというものではないだろう。

 

 

本当にどうでも良いのだが、上記でヘプバーンの話題が出たように、少しヘプバーンについてWikipediaで見てみたのだが、彼女の国籍が「英国」だったのに驚いた。ずっと、アメリカ人だと思っていたので。あるいは、出生がベルギーということは知っていたから、ベルギー人かと思っていた。まさか英国人とは。身長も170センチと案外大きい。