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【書評】 潤一郎ラビリンス<4> 近代情痴集 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 

『潤一郎ラビリンス<4>』は「近代情痴集」という副題である。「懺悔話」「憎念」「お才と巳之介」「富美子の足」「青い花」「一房の髪」の6編を収める。

 

漢語を駆使した『潤一郎ラビリンス<1>』の初期短編と比べると、文体があっさりした印象を与えるのが物足りないが、『痴人の愛』に代表されるマゾヒズムおよび嗜虐性を充分に見ることができるし、物語の構成も巧みで、純文学というよりも、読者を飽きさせないエンターテイナーとしての著者の才能が露出した作品集といえよう。

 

 

特に私は中編「お才と巳之介」が好きで、巳之介のお才に対する執着は、毒婦たるお才さえも逃げ出させるほどに面妖で、結末、死んだかと思われた巳之介が泥だらけのままお才の前に出現する様は極めてグロテスクである。谷崎潤一郎といえば、初期は、女性に拝跪する男を描くことで、至高の女性美を高らかに謳い上げる作家とされるのだが、グロテスクなまでに女性に執着する男の醜悪ぶりを描出したことも特筆すべきだろう。現に、代表作の一つ『痴人の愛』は、ナオミのみならず、譲治のナオミに対する狂気的な執着を語らずには、片手落ちの感想に陥ってしまうと思う。

 

この作品集に収められている「富美子の足」に象徴されるように、あくまでも男は「女性に踏まれる存在」なのであって、女性と対等ではないのである。「お才と巳之介」の巳之介は、妹のお露を、お才の差し金の悪漢どもに捕えられて、行く末は女郎屋に売られてしまうだろうことが予測されても、お才に対しては狂気的なほどに執着するのである。それほどお才は蠱惑的なのだが、妹が女郎屋に売られても恨みを言わず彼女にすがりつく性的倒錯ぶりは、至高の女性像と比肩するほどに強い存在感を放つ。

 

それにしても、巳之介の性的倒錯は常軌を逸しているが、この異常性愛は最初からなのだろうか。序盤、巳之介は、女に持てたいがために、遊郭に行って遊んでいた。しかし、彼は、みっともない面相と女に好かれるコミュニケーション術や立ち振る舞いを持っていないために、女に持てない。彼は富裕な家に生まれているので、遊郭で散々金を使い尽すのだが、一向に女に好かれる気配が見えない。そんな時、彼の家に奉公人としてお才という美しい女性が仕えて、巳之介は彼女に好意を持つが・・・という物語である。

 

巳之介はお才と交際したいという気持ちがあって、資産家の若旦那という威を借りて現にお才と付き合う。ここまでは、巳之介の恋愛観は平凡に見える。だから、中盤、お露が惚れている同じ奉公人の卯三郎と、お才とが出来ていて口惜しいと言って兄である巳之介に報告した時に、なぜ巳之介が平然としていられたのかが分明ではない。憤っても良さそうなものなのに、彼は安定した心情を持っている。この辺りから、私は巳之介に異常な性的倒錯の観念が宿っていることを知るに至るのだが、どういう理屈で彼が性的倒錯に至ったのかが分からないし、もし最初からそういう観念があったのであれば、地の文で説明があってしかるべきだと思う。そうしないと、なぜお才に憤ったり恨んだりしないのかが分からない。結末は、巳之介がお才に執着する異常性を発揮して終わるのだが、なぜ巳之介が性的倒錯の観念を持つに至ったのかずっと疑問であったので、この狂気的でグロテスクな物語の終着そのものは興味を持って感じられるが、やや説得力に欠けると思えた。

 

そういった欠陥がありながらも、お才の明白な毒婦ぶりは爽快なまでに強烈であるし、巳之介の性的倒錯は言わずもがな、極めて存在感がある。そして何より、草双紙のような情念の匂い立つ物語の世界観は何度でも覗きみたくなるような誘惑がある。やはり私は「お才と巳之介」が好きである。

 

 

「富美子の足」は谷崎のマゾヒズム小説で、「足」にフェティシズムを感ずる著者らしい作品だ。足へのフェティシズムは、「刺青」の頃から顕著で、この作品では「富美子の足」などとストレートに題名に用いられているところが興味深い。老人と若い女性という性的な関係は、晩年『瘋癲老人日記』にも通じるところから、谷崎は『少将滋幹の母』のような現代に平安文学を蘇生させたかのような独特の小説を創造しながらも、マゾヒスティックな恋愛観に拘泥していたものと見える。

 

物語の構成は単純で、老人が若い妾の富美子の足に性的に興奮していて、最後はその足に踏まれながら昇天するというものである。老人が富美子に足を踏まれているところを、実の娘に見せて青ざめさせるというブラックユーモアも欠かせない。無様な最期を迎える老人であるが、彼の心情を富美子はつゆほども理解できない。こういった関係もまた、『痴人の愛』のナオミと譲治そのものを見ることができようか。谷崎の描くマゾヒズムは、一方通行なところがある。「お才と巳之介」もそうなのだが、男がマゾヒズムへの執着を露わにしてしまうと、文字通り女は逃亡してしまうのである。あるいは「富美子の足」や『痴人の愛』のように、金のために嗜虐性を示す女性たちは、本当にサディスティックな性癖があって男を虐待しているとは言い難いところがある。だから男の一方通行のマゾヒズムと言えるのである。

 

美を中心に捉えれば、「刺青」の女性のように、美のために尽くす男性との双方向の関係を維持することができるが、マゾヒズムとなると、どうやら一方通行になりがちなのである。だが、元より谷崎流のマゾヒズムにおいて、双方向である必要もないのかもしれない。「女性に踏まれる存在」は女性と対等な関係ではないのだから。女性がどう思おうと、男と同じ視点に立っては、それこそ彼の描くマゾヒズムは崩れていく。それゆえに相手が逃亡しようとも、男は女性にすがりつくのではないか。

 

その他の作品、「懺悔話」や「憎念」、「青い花」などは、小品といったところだが、谷崎の文章は今読んでも、非常に読み易いので、小品でもついつい読み進めてしまう魅力がある。それも、私が、彼の描く性癖、女性像は、繰り返し繰り返し、執拗なほどに描かれたことに興味を抱くからに他ならない。

 

 

 

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