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【書評】 潤一郎ラビリンス〈8〉犯罪小説集 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

谷崎潤一郎の犯罪小説集。ミステリーを読まない私だが、谷崎や乱歩などのグロテスクで血みどろの物語は読んでいる。ここに収められた「途上」や「柳湯の事件」などは、ラビリンスよりも前に、集英社文庫で同様の短篇集があって、私はそこで初めて谷崎の犯罪小説を読んだ。ミステリーにしては合理的でなくロジカルな小説ではないと感じたが、それでも嗜虐的でグロテスクな描写は快楽的で、技巧的なミステリーよりもよほど私には魅力である。

ラビリンス〈8〉に収められているのは「前科者」「柳湯の事件」「呪はれた戯曲」「途上」「私」「或る調書の一節」「或る罪の動機」の7編。

私がつい再読してしまうのは「柳湯の事件」で、銭湯の奥底に女の死体が横たわっているという奇怪な着想は、足でその死体を確認するという描写により、ジメジメとした不快感を皮膚感覚に伝えずにはおかない。そう、私はこの作品を目で読みながら、どうやら視覚ではなく触覚による読書感覚を味わっているのだ。湯が大勢の客で賑わって濁っているために、湯の底がどうなっているか不明な湯船。そこにどっかと浸かって指先で底を触ってみるとそこにはゴムのようなものがある。そして、藻のようなものが絡みつく。これは果たして、女の死体ではないか。ゴムというのは柔らかい女の体で、藻は髪の毛ではないのか?そういった皮膚感覚に訴える執拗な描写が続き、私はいつしか読みながら銭湯にいる気になる。そのくらいリアリティがあり、著者の筆は滑らかだ。

物語が進むと女の死体というのは彼の妄想で、風呂の奥底には、代わりに男の死体が横たえられているのが分かるが、その男は主人公に急所を掴まれて殺害されたというので、なぜこんな殺され方をするのか、奇怪で、可笑しみを堪えきれない。

谷崎はラビリンス〈4〉で書いた通り、足で踏む行為を特筆して描いているが、「柳湯の事件」では、人間の足は死体を踏むのである。そして藻のような髪の毛が人間の足にまとわりつき、人間を不気味がらせる。谷崎にとっての足は、再三再四小説のモチーフとして現れる通り重要なものだが、銭湯で死体を踏む行為は「柳湯の事件」独特のスケッチだろう。犯罪小説として書かれたがゆえに、足は、死体を踏むのである。

「途上」は乱歩も好きだった短篇で、散歩をしながら相手の犯罪を暴く心理的な犯罪小説である。「柳湯の事件」よりはだいぶミステリー寄りの小説で、それゆえに乱歩が好んだのだろうが、私はミステリーのロジックよりもむしろ「妻を愛さない男」という設定にこそ注目する。ラビリンス〈8〉にも所収されている「呪われた戯曲」には、より顕著に妻を愛さない男の身勝手な犯罪が描かれている。女性から虐げられることを自ら選ぶ男を描くことが多い谷崎が、妻を愛さずに殺す男を描いたのは興味深い。

谷崎は、何故こうも妻を愛さない男を執拗に描いたのか。「途上」にしても「呪われた戯曲」にしても他に愛人があって、愛人は性的に魅力的だが妻は善良すぎて退屈な人物として描かれている。退屈な人物だから男には不要なのだが、愛人を魅力的に描くよりも、妻の無聊さを仔細に描くことで、如何に善良なだけの女は殺したいほど退屈なのかを言っているようだ。

それゆえ殺害するに至るのだが、だからといって露骨に殺す訳にはいかない。それで、思案したのが、完全犯罪を企図して殺すという方法である。いずれも他者から暴かれてはいるのだが、暴く者がいなければ、人間の手を経ずに死を迎えたかに見える。それくらい自然の死を迎えたかのように、殺害する方法を取った犯罪者たちは、邪魔者を排除して、あとはせいせいと愛人と楽しむ。犯罪が露見しては楽しめないので、完全犯罪を企図し、実行したという訳だ。

「呪われた戯曲」については、メタ戯曲のような体裁で、作家である主人公は、脚本に自分と妻を描く。脚本の中でも主人公は脚本を書いており、書かれた脚本にはまた主人公が脚本を書いているというような設定である。どこまでも合わせ鏡のように世界が連続して続いている。

脚本の主人公と妻は、現実を活写していて、妻は、自分の立ち位置が一体現実なのか非現実なのか分からなくなる。


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