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【書評】 猫と庄造と二人のおんな 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

 

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、谷崎潤一郎の中編小説である。1936年に発表された。谷崎の後期に位置する佳作である。全編にわたってセリフが関西弁で書かれている。江戸っ子で東京人の谷崎がかくも緻密に関西弁を活写していることに驚く。そしてその躍動感に満ちて、生活感のある関西の世俗的な世界をリアルに描出し得たことに感嘆させられるのだ。谷崎は、初期はモダニストで、中期以降は日本的美学の追求者であり、その中に本作のごとき世俗をリアリティをもって描き出す手腕までも持っていて、読んでも読んでも奥が深く、著者の全貌にたどり着くまでに時間がかかるので、言葉によっていかに豊潤な世界を構築したのかがよく分かる。

 

『猫と庄造と』の文体は非常にさっぱりとしていて、雅な言葉は使われない。それよりも特徴的なのは端々に至るまで細密に表現された関西の方言である。関西の方言に日本的美学の真髄を見たかのような『蓼食う虫』や『陰翳礼讃』の価値観は、ここでは現れず、むしろ関西弁の活写は滑稽さを醸し出している。それは言葉がおかしいのではなく、セリフを発する人間(庄造、品子、福子)の立ち振る舞いが滑稽だからである。滑稽な人間が放つ言葉だから自然とそのセリフは滑稽なものになる。本作での関西弁は、美学の追求の対象ではなく、滑稽な人間に肉付けをする言葉として、存在しているのである。

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、そのタイトルに物語の全てが語られているようなものである。ここには序列が表現されている。即ち、猫が最上位で、次に庄造、そしておんなは最下位に位置する。庄造は猫に拝跪し、女二人は庄造の愛を自分に取り付けようと執着する。女が最下位というのも谷崎の文学では独特に見えるが、谷崎の小説は女性崇拝という要素が確かにあって、その印象だと本作は風変わりである。もっとも、真摯で善意のある女性には、谷崎は好意的ではなく、小説の中で惨めな最後を迎えたり、殺されたりするものもある。そういう意味では、福子は真摯でも善意でもない女だが、本作では最下位に甘んじさせられているのだから、本作の女性観は、谷崎の中では不思議に見えるだろう。

 

 

本作の崇拝の対象である猫リリーに対する庄造の異常なまでの執着は、滑稽ながらも少しグロテスクとも言い得るもので、こういう感覚を後期になっても未だ有している谷崎を私はかわいらしく思う。例えば、小説の序盤ではこんな描写がある。小鰺(こあじ)の二杯酢を肴にしてお酒を飲んでいる場面である。

 

 庄造は、一と口飲んでは猪口を置くと、

「リリー」

と云って、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リリーは後脚で立ち上がって小判型のチャブ台の縁(ふち)に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと睨まえている恰好は、バアのお客がカウンターに倚(よ)りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう易々とは投げてやらない。

「そうれ!」

と、鼻の先まで持って行ってから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に滲みている酢をスッパスッパ吸い取ってやり、堅そうな骨は噛み砕いてやってから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろいろにして見せびらかす。

 

更に、かわいいリリーに爪を立てられても一向に動じないどころか快感すら覚えていると見られる描写の後、まるで恋人同士がじゃれあうようなシーンが続く。

 

その円々と膨らんだ、丘のような肩の肉の上へ跳び着いたリリーは、つるつる滑り落ちそうになるのを防ぐために、勢い爪を立てる。と、たった一枚のちぢみのシャツを透(とお)して、爪が肉に喰い込むので、

「あ痛!痛!」

と、悲鳴を挙げながら、

「ええい、降りんかいな!」

と、肩を揺す振ったり一方へ傾けたりするけれども、そうすると猶(なお)落ちまいとして爪を立てるので、しまいにはシャツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、

「無茶しよる。」

とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リリーはそれをすっかり呑み込んでいるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使いながら、彼が魚をふくんだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端へ持って行く。そして庄造が口をもぐもぐさせながら、舌で魚を押し出してやると、ヒョイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰いちぎって来ることもあれば、ちぎったついでに主人の口の周りを嬉しそうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端をくわえて引っ張り合っていることもある。

 

まるで人と猫が接吻しているような場面の後、ようやく妻・福子の存在に気付いたとでも言うように振り返り、庄造は「おい、どうしたんや?」と言うのだけれど、愛人との逢い引きを露骨に見せられるようなもので、女としてはたまったものではないだろう。妻の位置よりも猫の位の方が高いかに見える庄造に対するリリーへの愛着は、遂には福子をしてリリーを元妻・品子の元へと追放する手段を選ばせるに至るが、庄造の愛情を自身に向けることは遂に叶わない。

 

 

新潮文庫版の解説で磯田光一は、谷崎文学を通じて愛とは隷属だと説き、『春琴抄』は男女がお互いに隷属し合い「完璧な充実の世界」を構築したと言う。そしてその隷属が拒否された世界を描いたのが本作だと指摘していて、確かに物語の終盤、品子の元へと追放されたリリーは、かつての主人であるはずの庄造に対して、見るからに庄造の家にいた頃の甘えや懐きなどがなくなっている。そして庄造は、品子がいない隙にリリーに会いに来たのだが、品子が帰宅するとまるで間男のように逃げ出していくのだけれど、隷属を拒否された男の哀れさがアイロニーと共に描き出される見事な結末といえるだろう。