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【書評】 鍵・瘋癲老人日記 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)

鍵・瘋癲老人日記 (新潮文庫)

 

 

谷崎潤一郎晩年の作品『鍵』と『瘋癲老人日記』の2編を収める。『鍵』は初老の、『瘋癲』は老人の性欲に対する執着を描いている。谷崎は、『蓼食う虫』あたりを境に伝統的な日本的美学に傾倒してきたが、老年に至って再び過去の作風を取り戻したかのようだ。それほどまでに男の性的嗜好の表出が露わである。この2編は中公文庫の『潤一郎ラビリンス』の1編に収められてもおかしくないほどに官能的で、かつ醜悪的である。この2編では、どちらかというと『鍵』の方をより好む。

少し点数は甘く評価は☆4つとした。同じ☆4つでも著者の『蓼食う虫』よりは明らかに劣る作品集なのだが、私は谷崎の初期短編を好むものであり、本作品集を読んでみて、老年に入っても尚、かくも性的嗜好を惜しげも無く披露する男=谷崎の醜悪に対しては、滑稽を感じつつも愛着を表明せざるを得ない。

 

 

『鍵』の主人公は2人いる。56歳で大学教授の夫と、45歳の妻・郁子である。小説はこの2人の日記という形式を借りて綴られる。日記は、自分のために書かれる文章だが、この小説では「相手がそれを見ること」を前提として書かれている。そのために往復書簡のような体裁にも似ていて、夫の日記→妻の日記という風に時系列的に物語は進んでいく。

 

『鍵』はしかし、その「夫の日記→妻の日記」というような時系列的な物語という構成を、夫の死の真相を物語る妻の最後の日記によって覆す。『鍵』の本文中にも記されている『悪魔のような女』さながらのどんでん返しを見せる訳である。『鍵』は、夫と妻の日記による物語で、その形式自体がミステリアスである。「相手がそれを見ること」を前提として書かれたと私は言ったが、それは日記の書き手がそう言っているだけであって、本当に見ているか否かは、最後になるまで分からない。妻の最後の日記で、妻・郁子が、夫が日記で妻がこの日記を見ているに違いないと言った時よりも遥か以前から、夫の日記を盗み読みしていたことが知られるのだが、そこに至るまでは、「相手がそれを見ること」を前提として書かれながらも、「あなたは私の日記を見ただろう」と指摘できないがゆえの焦燥、不安、もどかしさなどが本作には投影されている。それは、夫も妻も同じく感じる心理である。ただ、妻の方が上手であったことが最後の日記で明らかになるのである。やや通俗的な結末ではあるが、これはこれで良い。純粋に芸術作として読むよりも、エロティックな描写が随所に散見されるミステリーとして読む方が『鍵』という作品には、しっくりくる。

 

郁子は極めてエロティックな人妻で、谷崎潤一郎の小説の中でも特に官能性を刺激される女性である。郁子は貞淑な女性で、男は、夫以外には知らない女性なのである。娘からも貞女の鑑のように思われているくらいだが、彼女が夫の誘いにより徐々にその肉体の淫蕩さを醸し出してくるところが好色的に描かれている。私は電車でカバーをつけながら本書を読んでいたのだが、少し興奮してしまったほどである。谷崎もそれ(読者の性的興奮)を狙っていたはずで、なまめかしい郁子の妖艶な美が陰湿に描かれていく。さすがに、当時の国会で問題になるとまでは想定していなかったかもしれないが。

 

夫も郁子に対して相当に変態的で、彼女が泥酔している隙に、彼女の裸体を仔細に眺めたり、ポラロイドに撮っていたりする。郁子は性欲が非常に強く、夫は彼女の性欲を満足させてやれないのだが、彼女のなまめかしい美しさには誰よりもよく気付いていて、彼女はその言葉により自分の魅力に気付いていく。まあこういう男からの手招きにより女が性的な魅力を増していく、という物語の設定は『痴人の愛』の譲治とナオミの関係と何ら変わらないのだが(苦笑)、それでも郁子が貞淑な人妻であったのに、夫のせいで淫蕩になり、そして夫が性的に弱いことを尻目に彼の嫉妬心をうまく煽って、自分は愛人と不倫するところまで「上り」つめてしまうというのは、『鍵』独特のエロティシズムの成長で、『鍵』は郁子という、妖艶な女性ばかりを描いてきた谷崎作品の中でも、特に猥褻的で、肉感的な女性像である。

 

 

『瘋癲老人日記』は、颯子(さつこ)という『痴人の愛』のナオミを彷彿とさせるような女性に、75歳を過ぎた彼女の義父が日記を通じて連綿と彼女に対する”思慕”を訴求する作品だ。ただしその思慕は、谷崎の初期作品、例えば『お才と巳之介』の巳之介流の盲目的で自虐的な思慕で、端から見るとその様は極めて醜悪である。後期の『春琴抄』の佐吉も春琴に対して同様の思慕を表すが、これは醜悪ではなく、理念的な美への憧憬を描いていて、『お才と巳之介』、そして『瘋癲老人日記』とは違うのである。

 

颯子は老人の息子である浄吉の妻で、ファッションやボクシング、そして映画が大好きな現代的な女性である。颯子はあまり程度の良くない女性で、金遣いが荒く、老人が彼女に執着しているのだが、かくも思い入れている理由が分かりづらい。颯子は、タイプ的には『痴人の愛』のナオミ的ではあるが、ナオミほど魅力的には書かれていない。彼女には、晴久という男と愛人関係にあるらしいが、詳細は語られない。浄吉は晴久と颯子との関係は黙認していているが、それは彼にも外に愛人があるからである。夫婦の間にはもはや愛情はないが、ほとんど体裁のために婚姻関係を解消しないでいるようだ。『蓼食う虫』とほとんど同じ夫婦関係が描かれている訳だが、松子夫人という存在がありながらも、谷崎は夫婦の双方向の愛には諦念を抱いていたのだろうか。

 

物語は日記の体裁を借りて語られているが、漢字以外の部分は、ひらがなではなくカタカナを用いて書かれているので、読みにくいことこの上ない。日記という極めて個人的な文章を、カタカナで書くことで、その秘密性を強調しようとしているのだろうが、どうしても読みにくい。カタカナで書かなくても、日記を用いることで既に秘密性は担保されているのだから、敢えてカタカナを用いる必要はなかった。この文体を採用したのは明らかに失敗である。『鍵』も夫の日記はカタカナなのだが、妻の日記はひらがなだから、まだ読みにくさが半減されていていたが、『瘋癲老人日記』の場合はほとんど老人の日記による構成となっているので、ただひたすら読みにくい文章を読まされることとなる。