【書評】 カミュ『よそもの』きみの友だち 著者:野崎歓 評価☆☆☆★★ (日本)
- 作者: 野崎歓
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2006/08/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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異邦人≒よそもの
仏文学者・野崎歓によるアルベール・カミュの『異邦人』論。ただしタイトルは『よそもの』。このタイトルにしたのには理由があって、『異邦人』の原語はエトランジェと言い、英語ではストレンジャー。つまり、日本語訳の異邦人のような難解さはまったくない日常の単語なのである。だから野崎訳では単に『よそもの』とした。なかなかセンスの良い訳ではないか。
ムルソーとは母が死んでも涙一つ流さない
『よそもの』の主人公ムルソーは、母が死んでも涙一つ流さず、翌日に酒を飲み、女とデートするような男である。感情が剥奪されているかのような行動と感性に、読者はムルソーを自分たちとは異なる異質な存在と考える。すなわちよそものである。
母が死んでも涙一つ流さない男というと、漫画家の蛭子能収を思い出してしまうが、彼もよそもの的である。
私が『よそもの』を読んだ時
私が『よそもの』を読んだのは10代の頃で、母親の本棚にあった新潮文庫版を借りたのが初めてだった。母親が若かった頃はカミュやサルトル、ボーボワールがヒットしていた(ヒットナンバーのように)時代で、特に文学部出身でなくてもそれらの本は読まれていた。だから本棚には、カミュの他にもサルトルの『嘔吐』、ボーボワールの『第二の性』などがあったがそれらの作品の衒学的な匂いに馴染めずカミュの『よそもの』を読んだ。
「今日、ママンが死んだ」という印象的な一節で始まる『よそもの』は、少年時代の私の心を捉えた。といっても、三島由紀夫が『ドルジェル伯の舞踏会』に耽溺した程ではなく、一瞬の陶酔のようなものだったが確かに私は『よそもの』に憧れた。理由なく殺人を犯し、それを太陽のせいと言う主人公ムルソー、彼の対象に対する素っ気なさにカッコ良さを感じた。
母を愛していたムルソー
今改めて本書を通して『よそもの』を追うと、ニーチェ的な生の肯定が奥底にあるように感じられて興味は惹かれなかった。野崎歓の文章はシンプルながらもぐいぐいと読者をその対象へと引き込む牽引力に優れていて、読むことの快楽はある。それは対象そのものよりもむしろ野崎歓の文章への快楽である。カミュの『よそもの』に関心を失っても尚、野崎歓の文章は良いと感じられた。
よそものたるムルソーは、本書で明らかにされている通り母を愛していない訳ではないのだ。ムルソーを評して、ムルソーは母を愛していたと言う人があるが、それが全面的に肯定し得るムルソーの姿ではないとしても一側面ではあるだろう。我々が理解し得る形でしか、「母を愛する」行動を考えられないのであれば確かにムルソーは母を愛していないが、よそもの的にムルソーを見てみると確かに母を愛している面は伺える。それが不条理というものの考え方なのだろう。常人には理解できないし、強引に理解する必要もないが、ムルソーのような人間は確かにいるのである。