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【書評】 海辺のカフカ 著者:村上春樹 評価☆☆☆★★ (日本)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)


海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

ファンタジー小説海辺のカフカ

 

海辺のカフカ』は純文学として読むと退屈だが、ファンタジー小説として読めば標準程度の評価を与えることができる。

意味深長で衒学的なセリフ、多数の著名な作家・哲学者らへの言及、隠喩がふんだんに多用された世界観などにより、どこか深遠な物語がそこに繰り広げられているように見える。しかしそれは錯覚で、本書は一人の少年の自分勝手な妄想を描いたファンタジー小説なのである。

私は彼の作品の熱心な読者ではないが、『海辺のカフカ』を読む限りこの作品は純文学ではなく、ファンタジーである。純文学だと思うから『海辺のカフカ』は退屈な小説だと思ってしまうが、ファンタジー小説と思えば標準の評価を与えることができよう。純文学なら☆1つの駄作だ。


陳腐な設定もファンタジーなら気にならない

 

海辺のカフカ』は陳腐な設定が多い。

■主人公の名前が田村カフカである。この名前を、著者が真面目なトーンで貫こうとしていること。一切の皮肉が込められていないこと。
そして、この間抜けな名前に対して、誰もからかうことがない。また、カフカ少年がなぜ四国の高松を目指すのか、説明がない。

■佐伯という女性が初めて発売した曲がミリオンセラーとなり、都合よく、その印税で暮らしている。その曲名が『海辺のカフカ』で本書のタイトルにもなっているが、歌詞は幻想的でおよそ日本でミリオンセラーになるとは到底考えられない歌詞である。

■さくらという美容師がカフカ少年を家に泊め、少年を布団に入れてやる。少年は勃起する。するとさくらが手淫をしてあげるのである。さくらには東京に彼氏がいるという。彼氏持ちの女が手淫をすることもあろうが、見知らぬ少年を家に泊めること自体が不思議だし、布団に入れて手淫まですることが非現実的である。さくらという美容師をわいせつ罪で訴えてもいいのだが、私のこの提案に賛成する者がいたら教えて欲しい。

■女性は「私とセックスしたい?」などと軽々しく男に言うことは考え難い。もちろんセックスしたくてしょうがない感覚に陥っていればそう言うこともあるだろうが。
それは恥じらいだけではなく、自分を防御するためでもある。どうしたってセックスでは、女性は「受容的」にならざるを得ないからだ。女性が上に乗れば男性より肯定的になっているかに見えるが、この体位でも受容的といえよう。詳しい説明は想像してくれ。

もちろん、相手が気心の知れた相手であれば別である。しかしこのセリフは、カフカ少年に向けられたものである。しかも、それを発するのは50過ぎの女性・佐伯である。少年と同世代でまだ社会性が発達していない少女の言葉ではない(少女でもなかなか言えないセリフであるが)。男なら「セックスしてえなあ」とか「エッチさせてくれねえかな」とか、バカの一つ覚えみたいに女性を前にしても吐くことはあろうが、女性が「セックスしたい?」というのは相手の男と心理的な距離を縮めていないと吐けないセリフだ。しかし著者は、田村カフカ少年という、佐伯から心を許されていない者に対して「セックスしたい?」と言わせる。佐伯は娼婦なのか。

とまあ、並べればきりがないくらいに陳腐な設定があるが、これらもひとえに、本書が純文学だと思うからこそ起こる問題である。本書はファンタジーだと認識すれば問題にすらならない。陳腐はむしろ、当然である。

さて、カフカ少年は村上春樹の自画像なのだろうか?村上の書く小説には本書に限らず、やたらモテる男が出てくるが、村上春樹本人は、写真を見ると醜男でモテそうに見えない。村上春樹のコンプレックスが小説に現れているのかもしれない。『海辺のカフカ』には恋愛心理が無造作にしか描かれていないのだが、村上は恋愛をしたことがあるのだろうか・・・

カフカ少年が惚れる佐伯との恋愛の交流が全くなく、カフカ少年が恋をしたといくら言っても、それは妄想の中のことだし、なにゆえ好きになったのかの描写がないので、なぜ佐伯を愛したのか分からない。


オイディプス神話としての『海辺のカフカ

 

海辺のカフカ』の恋愛は、ギリシア神話オイディプスを素直に真似て描かれている。父を殺して母と交わるという、オイディプスコンプレックスの語源となった神話である。

もっとも、物語の登場人物たちの関係性を通じて、これはオイディプス神話を下敷きにしているのか?と、読者に「思わせる」のではなく、直接的に語ってしまうところがかっこ悪い。

>>
僕は言う。「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになるって」
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こんなセリフを真面目に書いてしまうところが、村上春樹のダサいところなのである。だが『海辺のカフカ』はファンタジーなのだ。そう思えばこのみっともなさも気になるまい。


すべて自己の守備範囲

 

村上春樹はアメリカのロックミュージックや、クラシック音楽が大好きなのであろう。本書の登場人物はこれらの音楽を聴き、語るから容易に想像がつく。しかし、猫も杓子もこれらの音楽が好きでなくても良かっただろうに。トラックドライバーのホシノ青年までがベートーヴェンを好きになってしまうのは恐れ入る。そこまでして著者は、登場人物に自己の守備範囲の思想を押し付けたいのか。村上春樹本人にとっての異分子は、本書では生きながらえることが許されないのだろうか。モーニング娘浜崎あゆみが好きな人物は現れないのだろうか。

私は、ホシノ青年が登場した時、ようやくまともな人物が本書にも現れたと思って多少嬉しかったものだが、結局、ベートーヴェンを好きになってしまうのを見ると、ばかばかしくなった。「やれやれ」とでもつぶやきたくなるほどである。結句は、『海辺のカフカ』は、村上春樹の妄想の産物なのであろう。暴力を振るい、およそ知的とは縁遠いジョニー・ウォーカー氏が早々に、ナカタによって殺されてしまうのは、村上の妄想の邪魔になるからではないかと、邪推したくなるくらいだ。


ナカタの物語は悪くなかった

 

本書はカフカ少年とナカタとの物語が交互に語られる体裁を取っている。もう一人の主人公といってもいいナカタは、60代のおじさんで、猫と話ができたり蛭やアジを降らせたりすることができる。蛭やアジを降らせる描写は映画『マグノリア』のラストシーン(マグノリアでは蛙が降ってくる)を思わせる描写だが、村上春樹はこの映画を参考にしていることだろう。

ナカタは東京都中野区に住んでいて、なにかに導かれるように四国の高松へと向かっていく。道中でヒッチハイクをして複数の人間に助けてもらうが、ホシノ青年は最後までナカタの旅に同伴する。文字通りナカタの”最期”まで付き合うことになるのだ。

このナカタの物語も非現実的な物語でありながら、描写や設定にもそう無駄がない。私が上記の「陳腐な設定もファンタジーなら気にならない」で書いた陳腐な設定なるものは、全てカフカ少年の物語の設定なのである。ナカタの物語については、陳腐な設定として、私は言及しなかったのだ。ナカタと自称するナカタは、誰に対しても敬語を用い、猫と会話できる。カフカ少年の父ジョニー・ウォーカーを殺害してからは、猫と会話できなくなってしまう。

また、カフカ少年とナカタの物語とが交互に語られる物語の体裁は、スリリングで推理小説のようである。

ナカタは知的障害を負っている。そして、その原因は大東亜戦争中に求められる。ナカタが知的障害を負ったのは戦争のせいである。ジョニー・ウォーカーにいざなわれるままに、ジョニー・ウォーカーを殺害するが、その暴力性も知的障害であると考えられ、その障害の原因が戦争だから、戦争がジョニー・ウォーカー殺害に展開されたとも言えるだろう(遠因としてであるが)。カフカ少年の物語には旧日本軍の幻影も出てくる。直接的な暴力性は帯びないながらも、不穏な影をまとっている。本書にとって大東亜戦争は暴力の象徴であろう。