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【書評】 幸せな未来は「ゲーム」が創る 著者:ジェイン・マクゴニカル 評価☆☆☆★★ (米国)

幸せな未来は「ゲーム」が創る

幸せな未来は「ゲーム」が創る

なぜゲームをプレイするのか?

私はゲームが好きだ。私がプレイするのは、テレビに向かってプレイするゲームである。携帯ゲームはやらない。ジャンルはアクションか、アドベンチャーRPGに限られる。私は、ゲームのキャラクターに自分を投影している。なぜゲームをプレイするのかというと、2つの意味がある。キャラクターに自分を投影することの面白さだ。ゲームの画面に自分が現れ、人生のシミュレーションのように、デフォルメされた自分が画面の中にいるような気になる。あるいは単に暇つぶしである。

『幸せな未来は「ゲーム」が創る』は、壊れた現実を修復するために、ゲームの力を借りようとする。壊れた現実というのは、ゲームはこんなに楽しくて意味があるのに、人生はゲームほどに楽しくないという状態のことだ。だからゲームを使って人生を豊かにしようと言う。本当にそうだろうか?

ゲーマーを自認する私でもゲームが人生ほどに面白いとは思えない。「計画された偶発性理論」ではないが、ポジティブに意識したり行動したりすると、意外にも良い出会いや出来事があったりする。ゲームにも意外性はあるが、人生ほど自分にダイレクトに関わらないから、意外性の効果は弱いのだ。

著者はゲームデザイナーにして研究者

著者のジェイン・マクゴニカルについて、紹介しておこう。著者はアメリカのゲームデザイナーにして代替現実ゲーム研究者である。代替現実ゲームや大規模ゲームの活用によって個人の幸福を説明している。ゲームデザイナーであるので、ゲームをプレイする日常を過ごす。本書では著者が夫婦で『チョアウォーズ』というゲームをプレイする様が描かれていた。このゲームは彼女が研究するゲームであるが、「現実生活をより楽しくするために、現実生活でプレイする」代替現実ゲームなのである。かつて流行った『ポケモンGO』を思い出すと分かりやすいが、『チョアウォーズ』の場合は、『ポケモンGO』と少し違う。家事という、一見するとやりたくない仕事を楽しくさせるゲームなのだ。

家族やルームメイトがそれぞれ家事をどれだけやっているかを追跡し、みんなにもっと多くの家事を、もっと楽しくやらせる手助けをしてくれるゲームなのです。

著者はいかに『チョアウォーズ』を活用して家事が面白く、楽しくなったかを説くのだが、私はあまり共感できなかった。私も家事は大嫌いだし、できることなら家事はしたくない。だがわざわざ代替現実ゲームの力を借りてまで家事をしたくないかというと、そこまででもない。家事の中でも料理は好きで積極的に作る。大嫌いな家事の中でも好き嫌いがあるのだ。だから好きな家事である料理を先に行って「楽しい気分」になっておき、その上で掃除やら皿洗いやらをやる。そうすると「楽しい」感情は持てないにしても、なんとなく、大嫌いな家事も「嫌い」くらいには思えるようになる。ゲーム的にいえば、一時的にレベルアップしたようなものだ。わざわざゲームを使って家事のレベルアップなんて面倒くさいことこの上ない。

ゲーミフィケーション的代替現実ゲームの効用

一方、ゲーミフィケーション的な意味での代替現実ゲームの効用には惹かれた。『クエストゥラーン』はゲームをベースにした世界初の学校である。

生徒は一日中、数学、化学、地理、英語、歴史、外国語、コンピュータ、さまざまな分野の芸術を学びます。違うのはどのようにして学ぶかです。生徒は朝起きた瞬間から夜最後の宿題をやり終えるまで、ゲームフルな活動に引き込まれるのです。

学校に行く前から生徒は「クエスト」をやっている(『フォールアウト4』とか『ウィッチャー3』みたいだ)。クエストといってもゲームではなく学習である。自分で課題を選んで自分の力で、あるいは友だちと協働して解いていく。そこには内発的動機づけによる学習の維持・向上という仕組みが隠されている。成績が上がったらアイスを買ってあげるとか、こづかいをあげるとか、そういった外発的動機づけでは、学習にしても仕事にしてもモチベーションを維持するのは難しい。そこに内発的動機づけを潜ませて、自ら学習する、仕事をする、という方向に行けばモチベーションは維持されるのだ。ゲームが人の幸せを創るというのはおこがましいが、学習、仕事などには応用できるといえるのだろう。著者はゲーミフィケーションという用語を使わずに本書を書いているのだが、ゲーミフィケーションと、著者が言っている主張との違いが今一つ分からないのだが…