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【書評】 罪と罰(2) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

日の目を見るはずがなかったラスコーリニコフの殺人の動機

罪と罰』の1巻で私は、ラスコーリニコフの金貸し老婆殺人の動機が分からなかった。しかし第3部でラスコーリニコフはその殺人の動機を語る。厳密には動機らしいものである。

彼は「犯罪論」という論文を書いていた。それは雑誌に投稿されたものだが、雑誌は廃刊になっており別の雑誌に合併されていた。しかし後続の雑誌ではラスコーリニコフの「犯罪論」を掲載していたのだ。それをポルフィーリーという人物が直接、ラスコーリニコフに教える。ラスコーリニコフは雑誌廃刊は知っていたが、まさか自分の論文が後続の雑誌に掲載されているとは知らなかったのだ。

「犯罪論」は犯罪者の心理状況を分析した論文である。ポルフィーリーはその論文の終わりにさりげなく書かれている「思想」に注目する。

ラスコーリニコフは「犯罪論」の中で、人間を「凡人」と「非凡人」のグループに分ける。凡人は従順に生きなくてはならず、法を踏み超える権利を持っていない。普通、人間は皆、ルールや方針に従順に生きるし法を踏み超える権利が自分にあるとは思わないだろう。だが、ラスコーリニコフは凡人に対して非凡人がいるというのだ。非凡人にはある権利を持っているという。その権利というのは、非凡人が思想を持っていて、その思想の実行にあたって法の踏み越えが必要になる時に限って、法を踏み超える権利があるというものだ。ラスコーリニコフケプラーニュートンによる偉大な発見を例えに引き、以下のような思想を披瀝する。

思うに、ケプラーとかニュートンとかの発見が、いろんな事情がかさなり、もうどうしても世間に知られそうにない、ということになったとします。しかし、それが、発見のさまたげだとか、障害とかになって立ちふさがっているひとりの人間、もしくは十人、百人、あるいはそれ以上の人間の生命が犠牲になることで世間に知られるようになるとしたら、ニュートンは自分の発見を全人類の前に明らかにするため、その十人なり百人なりの人間をなきものにする権利がある。いや、それどころか、彼の義務といってもいいくらいなんですね。

良心にしたがって罪を犯す

ラスコーリニコフは、その後のセリフで、非凡人は「心のなかで良心にしたがって、流血を踏み越える許可を自分にあたえることができる」とまで言っている。「良心」にしたがって罪を犯す許可を自分が自分に与えるという思想は、独裁者の思想のようで恐ろしいが、これをラスコーリニコフはあたかも正当な理論であるかのように語っている。

私は第3部におけるラスコーリニコフの殺人の動機は、何度も読み返した。何度読み返しても、慄然とさせられる。これが架空の人間が語ったセリフであれ、ドストエフスキーの筆によるリアリスティックな表現であらわされると、恐れとともに慄く。ケプラーニュートンによる偉大な発見を持ち出し、そのためなら罪を犯す権利があるし、むしろ罪を犯すことは「義務」だとまで語る訳だ。しかもそれが十人なり百人なりの人間をなきものにするとは、正気の沙汰ではない。

だが、この正気の沙汰ではない、思想の実行のためなら罪を犯し得る非凡人の権利という思想が、ラスコーリニコフに老婆殺人に赴かせた思想なのだと考えられる訳である。身震いするくらいに恐ろしい思想だ。そもそも、良心があるのだから罪を犯すことを正当化しないはずなのだが、ラスコーリニコフは、非凡人なら許されると解く。ここでは、罪を犯す者の行動と良心、思想との関わりはどのようなものになっているのか。思想のためなら、良心は犠牲になってもいい、ということではないのか。そうでなければ、良心に従って罪を犯すなどという詭弁が正当化されるはずもない。良心に従い罪を犯すというのはナンセンスに見えて、良心よりも、行動(罪を犯す)よりも、思想が最優先と考えれば、必ずしもナンセンスではない。非凡人にとって、思想の実行こそ、なににもまして重要なポイントなのだから。

美しきソーニャ

罪と罰』においては、ソーニャという娼婦が重要な人物として登場している。彼女は前巻で死んだ役人の娘で、飲んだくれて家に金を入れない父親を持ち、生活のために売春をしていた。彼女はラスコーリニコフに、自分たちは呪われた者同士だと言われている。しかし、ソーニャは娼婦でありながら教会に通い聖書を読むような人物なのだ。娼婦のまま、呪われた者のまま、一生を終わるつもりはないのだ。

ラスコーリニコフはソーニャに、聖書の「ラザロ復活」の箇所を読んでくれと懇願した。彼女が読み終わった後、ラスコーリニコフはなにやら決心をしたような、謎めいたセリフを彼女に吐く。金貸し老婆の妹を殺した犯人が誰なのか、教えてやるというのだ(妹もラスコーリニコフが殺している)。ここから先は3巻を手に取る他にないが、単なる「贖罪」とか「懺悔」などでは終わらぬ、ソーニャに対するラスコーリニコフの罪の告白がどのようなものになっているか楽しみである。

ポリフォニックな群像劇は圧巻

前巻同様、ポリフォニックな群像劇が凄まじい。いったい誰が主人公なのかと思ってしまうほどだ。もちろん主人公はラスコーリニコフなのだが、彼が出てこなくてもストーリーは回る。ラスコーリニコフの思想は作者とイコールではない。彼は、ソーニャ、妹、母親、ラズミーヒンなどの影響を受けて思想や行動を変化させていく(思想といっても非凡人としての思想はやすやすと変わらない)。ポリフォニックな群像劇であるゆえんである。それにしても、ラスコーリニコフの思想にはたまげたが、ストーリーをポリフォニックな群像劇で進めるドストエフスキーには舌を巻く。世界のどの作家も太刀打ちできないんじゃないか?と思ってしまうくらいにドストエフスキーは冴えている。

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