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【書評】 罪と罰(3) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

誰しもが心に抱く「罪と罰」についての洞察

罪と罰』最終巻は、2人の殺人を犯した元大学生ロジオーン・ラスコーリニコフの運命を辿る。物語のエピローグで、元役人マルメラードフの娘・娼婦ソーニャによって、ラスコーリニコフは復活する。ここでの復活はキリスト教的な意味で復活するといった方が妥当だろうが、罪と罰と、贖罪とは一般化されて書かれていて、キリスト教的な意味に限定されていない。即ち、殺人という大罪を犯した人間が罪を悔い改め、その帰結としてソーニャが持つ福音書に彼自ら進んで触れていくので、帰結に対する描写よりもプロセスを重要視して書かれているのだ。従って、本書では、キリスト教的思想を読者に押しつけるような教条的な文章は使われていないから、人間の内奥にある罪悪感、贖罪の観念などを経験した読者であれば、ラザロの復活等のキリスト教的な知識がなくても理解できる。

罪と2回向き合うということ

ラスコーリニコフは警察に自首してシベリア送りになるが、懲役期間は8年間という短いものだった。いくつかの条件が絡んで寛大な措置になったのである。ラスコーリニコフは1度、自首しようと警察に行くのだが、うまく自首できずに警察を後にしてしまう。すると、彼を自首するようにすすめ、彼が初めて罪を告白した娼婦ソーニャが警察の前に立って、無言でこちらを見つめているのだ。そして彼は思い直して、今度は本当のことを警察に話す。自分が殺人者であると。

ラスコーリニコフは、警察に自首する前、ソーニャから地面に頭をつけて「自分が殺人者だ」と大衆の面前で告白すべきだと言われていたが、できなかった。地面に頭をつけることはできたのだが、その先、「自分が殺人者だ」と告白することができずにいた。この時、彼は、まだ、深く自分の罪と向き合っていなかったように見える。それゆえにこそ、1度、自首できずに警察から出てきてしまうのだ。

しかし、罪と深く向き合う機会は、もう1度訪れる。彼は既に懲役刑になった頃のことだ。彼は悪夢を見たり重篤な病気になったりした後、彼は久しぶりにソーニャに会った(ソーニャは軽い病気に罹っていた)。そこで彼はようやく罪と深く向き合う。泣いて、彼女の足元に身を投げ出している。ソーニャはラスコーリニコフに会う時は常におびえてびくびくしていたが、この時の彼女は彼が変化したことを知った。彼がようやく、罪と深く向き合うことができたのだと思ったのだろう。

彼女の目に、かぎりない幸せが輝きはじめた。彼女はわかったのだ、彼女にとって、それは疑いようのないものだった、彼は自分を愛している、かぎりなく愛している、そして、とうとうそのときが来たのだ、と……。

訳者への謝意

ドストエフスキーの『罪と罰』を読むのは2回目だ。最初は10年以上前の学生時代に読んだ。その時は新潮文庫版の『罪と罰』を読んだのだが、私の読解力の不足もあっただろうが、当時は今一つ良い感触を得られないままに終わってしまった。新潮文庫版では上下巻、光文社古典新訳文庫は全3巻と、長大な小説なので、社会人になって読む機会が訪れるとは思っていなかった。そもそも、ドストエフスキーの小説で良いと思ったのは『地下室の手記』くらいのものだったし、ドストエフスキーは日本の文学者が愛好していて、誰しも世界最大の作家と認めるような文豪なので、天の邪鬼の私はドストエフスキーに触れることはないだろうと思っていた。ドストエフスキーに触れてから10年以上、私はいかにも人が読みそうな作家を避けていた。そして、そういった作家こそが私に合っていると思っていた。

だが、昨年、図書館でたまたま光文社古典新訳文庫の『悪霊』を借りて読んだ時、ドストエフスキーの小説ってこんなに面白かったのか!と、清冽な感動を覚えたのだった。清冽というのは、登場人物が活き活きとしていて、主人公であるはずのスタヴローギンを押しのけるような活躍を見せることがあって、まるで自分が神にでもなって人間世界を覗きこんでいるような錯覚を覚えたということなのだ。しかも神でありながら、同時に人間であるかのような、覗きこむと同時にその世界に自分が直接的に立ってしまっているかのような錯覚を覚えることができた。こういう読書体験はそうそう滅多にあることではない。

『悪霊』を読んだのは昨年が初めてだったのだが、いつか『罪と罰』に再挑戦してみたいと思った。しかも、訳者は『悪霊』と同じく亀山郁夫が良いと思った。亀山の訳には誤訳があるという指摘があるそうだが、戯曲かと思わせるほどにセリフが多いドストエフスキーの小説を、あたかもリアリティのある映画を見るかのような臨場感に溢れた日本語に訳した手腕は評価すべきと思う。私が『悪霊』を読んでドストエフスキーの小説に清冽な感動を覚えたのは、彼の訳のおかげである。

そして今回、『罪と罰』の全3巻を読んだが、亀山郁夫の訳の映画的臨場感に溢れた日本語は健在だった。目の前にラスコーリニコフが、ソーニャが、ラズミーヒンがいるような気がした。リアリティの高い映画は人間の視覚に訴えることで、鑑賞後も、映画の世界が続いているかのような幻覚を与えることがある。そのくらい、映画のリアリティは強烈で、人間の感覚に侵入し、時には圧倒してくる。だが優れた小説においても、映画同様の強烈な印象、侵入してくること、圧倒的存在感などが際立つことがある。特に登場人物が魅力的に描かれ、具体的で、存在が確立している時にそう思う。『罪と罰』はまさにそういう小説であったが、そうさせてくれたのは亀山郁夫の翻訳に寄与するところが大きい。時折、まるでビートたけしの映画を見ているかのような罵詈雑言が出てくることがあって、「おいおい、ここまで口汚く罵るシーンがドストエフスキーの小説にあるのかよ!?」と苦笑してしまうほどに口汚いのだが、憤りが頂点に達した人間が吐く言葉は美しいはずがないし、むしろ汚くあるべきであろうし、リアリティの高い人物描写を好むドストエフスキーは言葉の美しさだけではなく、汚わいに満ちた、暴力的な言葉をも、書くことにためらいがないのだ。

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