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『ボヘミアンラプソディ』を見る

ボヘミアンラプソディ』をうまく語れない

映画『ボヘミアンラプソディ』について、レビューをしようと思ったが、なかなか筆が進まない。その理由はクイーンに評価を付けたくなかったからだろうか。あるいは、『ボヘミアンラプソディ』の熱狂に湧いている現状に水を差したくなかったからだろうか。どちらの理由も間違いではない。しかし、もう少し言葉を付言すると『ボヘミアンラプソディ』は良い映画とは思えなかったが、使われている楽曲すなわちクイーンの曲については相変わらず良かった訳で、そう考えると『ボヘミアンラプソディ』をどう評価して良いか分からなくなってしまったからだ。

ボヘミアンラプソディ』のラミ・マレックの前歯が気になる

ボヘミアンラプソディ』を見ていて思ったが、私はクイーンが相変わらず好きだし、特にボーカルで作詞・作曲を兼ねるフレディ・マーキュリーが好きだということである。

だからこそ、『ボヘミアンラプソディ』でフレディを演じた主演のラミ・マレックは、フレディ・マーキュリーとは似て非なる者であったことが気になった。ブライアン・メイロジャー・テイラーを演じた俳優が、本人とうりふたつとさえ言い得るにもかかわらず、ラミ・マレックだけが似ていないと感じたことが気になった。ジョン・ディーコンを演じた俳優もラミ・マレックよりは本人に似ていた。

フレディ・マーキュリーは前歯が出ていたが、ラミ・マレックはいかにも偽物の歯を付けていて、明石家さんまのモノマネをする原口あきまさを思い出してしまった。この映画はもちろん、ギャグ映画ではないのだが、私にはラミ・マレックがギャグにしか見えなかった。どうしても前歯が気になるのである。

だが、最も気になったのは、ラミ・マレックの歌がフレディ・マーキュリーの吹き替えだったということだ。マレックは劇中で歌わない。これには私はむなしさを覚えた。やっぱりフレディの声は誰にも演じられないものなのか。そう思うとこの映画を見るよりも、YouTubeでクイーンのビデオを見た方がマシにさえ思えた。映画のラストで「ドントストップミーナウ」が動画が流れた時に、ライブエイドのシーンよりも感動したのは、クイーンの本物の姿が見られたからである。

ボヘミアンラプソディ』はフレディの自伝的映画

ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画であるが、照準はボーカルのフレディ・マーキュリーに当てられているのでフレディの自伝的映画といえるだろう。フレディは自分のセクシュアリティや、アーティストとしての感性などが理由でバンドに対して亀裂を生じさせる。ロジャー・テイラーはフレディに突っかかるが、ロジャーの視点でバンドへの亀裂を描くというよりは、フレディの視点にロジャーが入ってくるという描写である。

映画はライブエイドの成功で幕を閉じるが、どうしてもそういう結末にしたいために史実を曲げた。すなわちフレディが、自身がエイズに罹患していることを知るのがライブエイドの後であることが史実なのに、映画はライブエイド前に知っていたことにする。それによってフレディがなかなか声量のある声が出ずにいて苦悩するというシーンが感動的なものになるし、バンドがフレディの病気を軸にして結束するシーンにも繋がる。

映画はフレディを中心に周り、フレディと共に終わる。ライブエイドのライ・マレックはなかなか良かった。原口あきまさを思い出させなかった。前歯が気になるのは、マレックがしゃべったり、口を閉じたりしているシーンが多いので、ライブなら前歯が気にならなかったのである。それと、マレックの力強いパフォーマンスは、彼の小柄な肉体、フレディよりも短く見える脚などの欠点がありながらも、クイーンという力強いバンドのボーカリストを演じる俳優然としていたと思う。それでも、彼の歌声は吹き替えなので、感動するかというとそうでもなかったのだが。

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」だ。クイーンを力強いバンドに仕立て上げているのは、フレディの力があるからである。ブライアン・メイのギターもロジャーのドラムもジョンのベースも、力は感じるが、クイーンはバンドで歌が主役だ。その歌い手がバンドのイメージを決定づける。それは、力だ。フレディを演じたラミ・マレックがフレディと違うなと思うのは、マレックに力を感じなかったせいだ。歌声をマレックが吹き替えたのは、フレディの声を似せるのが困難だったのだろうが、所詮は偽物という印象を持ってしまった。

フレディ・マーキュリーの身長は177センチでそう高くはなかった。バンドメンバーでは一番身長が低い。といっても、ブライアン・メイ以外の身長は似たようなものだが、ギタリストのブライアン・メイは190センチ近くある。明らかにメイの方が大きいのだが、力は身長からもたらされるものではない。クイーンはバンドで歌が主役なので彼の力の源は歌声からもたらされる。

代表曲「ボヘミアンラプソディ」「ショウマストゴーオン」「ウィウィルロックユー」「ドントストップミーナウ」などから感じられるフレディの力強い歌声は感動的である。私は彼らのビデオをいくつか持っているが、なんだか、見ているだけで涙が流れていく。歌は言葉であるが、むしろ、歌は言葉であるよりも音楽である。だから、力強い歌声を聞いていると泣くというのは、音楽の持つ非言語的な力が私を感動させるという意味だ。

音楽の性質は不思議なもので、クイーンの曲を聞いていると、自分がフレディ・マーキュリーの力の源に触れているような感覚になる。クイーンというバンド名や、タイツを履いたフレディのパフォーマンス、フレディがバイセクシュアリティだったことなどから、女性的なイメージをフレディ・マーキュリーに持つかもしれないが、単に歌声だけを聞くと、フレディには強い力を感じる。

音楽は言葉でいくら表現しても、聞いてしまうとそれらの言葉がむなしくなる。どんなに言葉を尽くしても音楽を聞けば、全てが吹き飛んでしまう。クイーンというバンド名やタイツを履いたフレディのパフォーマンスやフレディのバイセクシュアリティなどは雑音となって消えてしまう。音楽は耳で聞く。あるいは目で見る。視覚と聴覚を使っても尚、音楽に付随した様々な雑音は音楽からずれ落ちていく。クイーンの魅力を感じるには聞くしかない。あるいは見るしかない。

クイーンと死

既に『ボヘミアンラプソディ』という映画から話がそれてしまっている。だが、もう少し続ける。フレディ・マーキュリーの魅力は力だといったが、それは即ち、クイーンというバンドの魅力でもある。当たり前のことだが、歌が主役のバンドにおいて歌い手の魅力が力なら、バンドの魅力もそれに伴った表現となる。

だが、なぜだか分からないが、クイーンの曲を聞いていると死を連想する。別に死にたくなる訳ではないし、フレディが45歳という三島由紀夫と同じ年齢で死んだからでもない。クイーンの魅力が力だと言っておきながら、死を連想するとは何たる矛盾かと思う。

クイーンの曲を聞くと生の源に触れた気がして、私は感動する。それと共に、生の対極にある死を連想し、私はむなしくなる。むなしくなるというとクイーンに価値がないようだが、そうではなく、クイーンの曲に死を連想するからこそむなしい訳だ。

フレディの熱量ある声が歌い終わった後の静寂に、私は生き物の限りある命を感じられてならない。クイーンの魅力が力であるゆえに、歌が終わることは力が尽きるような印象を持ってしまう。

ライブエイドをリアルタイムで見た人の話を聞いてから

ボヘミアンラプソディ』について、私はあまりリアルでは語りたくない。なぜかというと、私の周囲では『ボヘミアンラプソディ』を見て低い評価を付ける者がいなかったからだ。といっても、普段なら、映画について意見が違ったら、リアルでも議論したくなるが、『ボヘミアンラプソディ』についてはリアルでは議論できない。私がこのブログで、ここまでに書いたようなことをリアルでは言いたくないのだった。

それは、『ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画だからで、その映画について批判めいたことを言うことが私にはできないからだ。『ボヘミアンラプソディ』はクイーンを語った映画だから、『ボヘミアンラプソディ』への批判的な言葉がクイーンへと繋がるような気がしてしまう。それは錯覚なのだが、私はそこまでクイーンを自分と切り離して捉えることができない。私の中ではクイーンは、あまり客観的に見ることができない存在なのである。

ある人と電話で話した時に、『ボヘミアンラプソディ』の話になった。その時、その人はライブエイドをリアルタイムでTVで見たと言っていた。私よりもだいぶ年上の人なので、見ることはできる。しかし、それは、一瞬のできごとだった。「そうなんだ!すごいね」と私は言った。話はそこで終わった。しかし、電話で話した後に1人になると涙がとめどなく流れた。

私は時折、クイーンのビデオを見て、フレディ・マーキュリーはこの世にいないという感覚にとらわれることがあるが、この時は電話が引き金だった。私はフレディがこの世にいないことへのむなしさを痛感していた。

おわりに

今回の文章は、日記にでも書いて誰にも見せずにおくべき文章のような気がする。書いていて気恥ずかしい思いがした。それだけ、私の人生にとってクイーンは大きな存在だったということが改めて分かったが、『ボヘミアンラプソディ』という映画の最大の魅力は、そこにあると思う。

どれだけラミ・マレックが巧みに演じようとも、声を吹き替えた時点で、私には遠い存在となってしまった。わりと映画を見て泣くことが多い私が、こともあろうにクイーンの映画で泣かなかったというのは本当に意外だった。