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【書評】 豊饒の海 第一巻 春の雪 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (日本)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

三島由紀夫最大の作品『豊饒の海

今回紹介する『豊饒の海』は、三島文学の最大の作品であり、しかも最後の作品である。全部で四巻の大著である『豊饒の海』の最後の原稿を書き終えた後、三島は市ヶ谷駐屯地で割腹自決している。

私は10代の頃から三島由紀夫の死について関心を持ち、彼の芸術よりも一層、三島の死に注目していた。その頃は『金閣寺』『仮面の告白』くらいの作品しか知らなかった。確かに作品も良いが彼の死に様がどうにも人工的で、それゆえに自身の死を芸術作品にさえ見立てるイメージが私につきまとい、三島は私の中で伝説的な存在となっていた。

だが20代になり三島由紀夫の小説を本格的に読み始めると、彼の死の芸術性は現前しながらも、小説に秘める芸術性にこそ私は惹かれるようになった。だから『豊饒の海』を今まで読んでこなかったのは、何か理由があってのことではない。単に大長編だったから読む機会を逸したというに過ぎない。

しかし、『豊饒の海』の第一巻である『春の雪』を読んでみると、これまでずっと読んでこなかったことが悔やまれた。それほどに、三島の研ぎ澄まされた言葉の感性、そして物語のパズルのピースを埋めるかのような構成の論理性に心打たれる思いがした。

『春の雪』はエンターテインメント性に溢れた芸術作品

三島由紀夫は多くの長編小説を書いた。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』『禁色』『鏡子の家』など著名な作品から、『夏子の冒険』『お嬢さん』『命売ります』などのエンターテインメント作品まで幅広い。私は35歳を過ぎるまで三島のエンターテインメント作品には触れてこなかった。その理由は単に三島由紀夫の本領は、非エンターテインメント作品にあると思っていたからだ。

しかし、『春の雪』を読んでみると、作者の漢語の教養が表れる唯美的な文体や、皇族や侯爵などのたおやかな描写、明治大正の青年の凛々しくも儚い心情が描かれる一方で、「許されぬ恋」を魅力的なキャラクターを元に丁寧に描く物語の展開は目が離せない。エンターテインメント作品におけるはっきりとした起承転結が、『春の雪』には強く描かれているのだ。

だから『春の雪』は、芸術作品であることは紛れもない事実でありながらも、頁をめくる手を止められないほどのエンターテインメント性に満ちた魅力あふれる作品なのである。『春の雪』だけでも新潮文庫版で450頁を超える長大な作品で、これがあと三巻も書き継がれたのだから、三島の物語の構成力、展開力には舌を巻く。

潜在的な愛の露見

『春の雪』は、松枝清顕(まつがえ・きよあき)という19歳で侯爵の息子が主人公。清顕は学習院に通っているが、戦前の学習院は皇族や華族、資産家の子息などが通う学校で、清顕の友人も身分の高い者が多い。

副主人公にあたる本多繁邦(ほんだ・しげくに)も裁判官の子で、男性の中では本多が清顕の唯一の理解者にあたっている。清顕には聡子という年上の幼馴染がいて、子どもらしい誤解から彼女を遠ざけていた。聡子の方では清顕を愛しておりそれを彼も自覚しているのだが、それゆえにこそ遠ざけたりする。そんな様子も本多には打ち明けているが、清顕は本多以外の友人には心を打ち明ける素振りを見せない。「唯一の理解者」といえるゆえんである。

ある時、聡子が皇族の宮に見初められ、清顕の父が清顕に「構わないか」と確認に来るが清顕はそれでも構わないと言う。この時まで彼の中では、聡子は運命の女性ではなかったのだが、自分の手を離れて宮の妻になることが分かる(納采の儀を待つだけになる)と、彼女を愛するようになる。

尤も、清顕の聡子に対する愛はおそらく潜在的に存在していただろうが、絶対に届かない存在になる可能性が高まることで、聡子への愛に気づくといったところだろう。聡子への愛は潜在していたが露見したということだ。

豊饒の海』は夢と転生の物語

聡子への愛を自覚した後の展開は「昼ドラ」のようなどろどろした物語の展開を見せる。ふたりは、誰からも知られてはならぬ「許されぬ恋」を演じる。誰にも目につかない場所で逢引きをする聡子と清顕の情交は、エロスをほのめかす表現で留められながらも、むしろ具体的に性愛を描写しないからこそ、ふたりの吐息が感じられる官能的なシーンになっている。

聡子は年上の女性で、宮に見初められた身である。皇族の恩恵を受けて、長年生きてきた家系の娘である。それゆえに宮との結婚を優先し、清顕に諫める立場にありながらも、清顕との情交をやめることができない。

最終的に、聡子は妊娠までして、清顕と聡子の家族は狼狽するのだが、家族は愛よりも体面を重んじて聡子に堕胎させ、宮との結婚を破断にさせまいとする。しかし聡子は立ち寄った奈良の寺院で剃髪してしまい、二度と俗世には姿を見せないことを誓う。すなわち、清顕との愛も諦めるのだ。

最後は、清顕は聡子を追い求めて何度も寺を訪れるが、聡子は頑なに会おうとしない。既に出家した身の上ゆえに会わない訳だが、この徹底した俗世との隔絶が聡子の閉じられた愛の”歪な”完成形であり、聡子の愛の思念の中に、清顕が入る余地はなかった。

最後、本多に遺言をのこして死んでいく清顕は、「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」と言ってのける。本多は本気にしないが、『豊饒の海』は夢と転生の物語であり、清顕との邂逅はおそらく現実のものとなるであろう。それはまた、二巻に任せるとしよう。

存在感に溢れるキャラクター

『春の雪』に登場する人物は、主人公の松枝清顕とヒロインの聡子を中心に、強い存在感を持っている。清顕の友人の本多繁邦、清顕の教育係で書生の飯沼、聡子の召使の蓼科、清顕の父である松枝侯爵、清顕の祖母、シャムの王子などの誰もが強い存在感を持つ。尤も、この存在感は、小説を読む私に真に迫ってくる存在感の強さであって、これらの人物がおしなべて強い個性を有しているという意味ではない。

特に私が気に入ったのは清顕、飯沼、蓼科である。清顕は体を鍛えない代わりに、美青年で周りから「若様」ともてはやされている。聡子を執拗に愛することだけが、彼に託された使命であるかのように、彼は愛を貫徹するために徹底し命を賭す。魔に憑かれたかの如く聡子を求める姿は異様で、学習院の卒業試験を前にして、この男は生き続けることはなかろうと思うと、本当に命が尽きて病死している。

飯沼は『豊饒の海』の第二巻にあたる『奔馬』の主人公の父にあたる人物だ。物語の当初は、陰気で清顕を軽視しているが次第に愛敬の念を抱くようになる。みねという女中と恋愛関係になった科で屋敷を追い出されるが、若様である清顕に対する尊敬は消えることがなかった。朴訥で何を考えているか分からない飯沼が清顕に対する尊敬、そして後に煽情的でジャーナリスズム的行動に移る様などが興味深い。

蓼科は聡子の召使だが、飯沼が女中と恋愛関係にあることを松枝侯爵に密告したり、清顕と聡子の不義の関係を侯爵に報告した末に自殺未遂を企てたり、エピソードには事欠かない人物だ。

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