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【書評】 悪の教典 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆☆ (日本)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 上 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

悪の教典 下 (文春文庫)

究極の悪人を描いた傑作

人間の心には、必ず、善もあり悪もある。そのどちらかしかない、ということはあり得ない。ただ、普通の人間なら善と悪の割合はバランスを保っている。例えば、善人と呼ばれる人の善悪の割合が70:30程度なら、悪人と呼ばれる人のそれは30:70程度だろうか。それゆえに人間はたとえ悪人といえども、悪人のことを理解できる。例えば悪人となったことの理由を知れば、「確かに、悪行は許されるべきことではないが、悪を犯してしまった行為の原因は理解することができる」といえる。

だが、世の中には理解できない悪人というものがいる。その人間の心の構成要素のほとんどを悪が占めるような人間。善悪の割合でいえば0.1:99.9のような人間である。それが私たちにとって理解できない悪人である。つまり悪を犯した行為の原因を聞いても何ら理解することができないのが、こうした悪人に対する評価だ。これを究極の悪人と呼ぶなら、『悪の教典』はまさにそうした悪人を描いた作品だと思う。

究極の悪人を描くことは容易いことではない。読者に共感を持たせなければ読み続けてもらえないと感じる作家は、悪人のどこかに読者の肯定的な感情を誘うエピソードを挿入してしまう。そうすることでその小説に対して読者は共感を持って読み続けてもらえるが、一方で究極の悪人を描くことには失敗するだろう。心の構成要素の99.9%が悪で占められてしまうような悪人を描くことに作家の方が挫折するのだ。

その点、『悪の教典』は徹底している。イケメンで高学歴、海外の投資銀行出身の高校教師・蓮見聖司を描いた本作に対して、読者はピカレスクロマンのようなものを感じるかもしれない。しかし、自分を無条件に慕う生徒を次々と殺害していくシーンを前にして、そうした親しみは消え失せる。蓮見聖司に対して、作者の貴志祐介は読者の同情を誘おうとしない。親に虐待されていたとか、クラスメイトにいじめられていたとか、そういった哀感を誘うエピソードを挿入しない。だから読者は蓮見に対しては、嫌悪しかない。それは何ゆえか。99.9の究極の悪人を描ききったからだ。読者の嫌悪は、すなわち、本作への賛辞へと繋がる。『悪の教典』は究極の悪人を描いた傑作であった。

全体性が欠けた超個人主義的教師

究極の悪人を描いた『悪の教典』から一体、何を読み取るか。究極の悪人である蓮見聖司は、勤務先の高校の生徒たち、そして同僚の教師や上司に至るまで、ありとあらゆる他者から親しみを持たれていた。蓮見は外見や経歴などのパーソナルな面が人より優れていることに加えて、他者の心理を手に取るように知ることができる能力を持っていた。だから、他者の行動の背景にはこうした心理があるということが分かるし、目の前の人間が何を考えているか手に取るように分かるのだ。

他者の心理を理解できるのだから他者を思いやったり、優しくしたりすれば良いのだが、蓮見の場合はそうではない。高校教師としての蓮見が、自分の思い通りに事を進めるために、障害となる人間を首尾よく殺害するために、彼ら彼女らの心理を利用するに過ぎないのだ。蓮見は殺すことに特別の執着がない。蓮見は高校教師として仕事を全うしようとする。その全うしようとする気持ちには、真正なものがあるような気もしてしまうが、それは誤解である。なぜなら彼がクラスを組織しようとしたり、生徒を指導したりしようとすることの背景に、私たち読者が共感できる全体性がどこにもないからだ。

蓮見は一見、生徒のためにモラルを説いたり専門の英語を教えたりしているように見える。しかし、ひとたび生徒らが障害になると平気で殺してしまうのだ。それは、蓮見を男として愛した女子生徒に対してもそうだ。自分の犯罪が露見しそうになると殺害を試みる。蓮見は、モラル・勉強・恋愛のために、クラスを組織したり生徒を指導したりコミュニケーションを取ったりしない。結局蓮見がやりたいのは自分の本意だけだ。その本意が彼の歪んだ超個人主義にある以上、共感し得る全体性がどこにもないゆえに、私たちは相変わらず、蓮見聖司を理解することができない。ただ、ひたすら、不気味で、捉え難い存在として、彼は作品の中に巣食っている。