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【映画レビュー】 ビッグ・リトル・ライズ シーズン1 監督:ジャン=マルク・ヴァレ 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (米国)

『ビッグ・リトル・ライズ シーズン1』は米国のテレビドラマである。『セックス・アンド・ザ・シティ』『ゲーム・オブ・スローンズ』を手掛けたHBOが贈るサスペンス。シーズン2は製作中で、米国では2019年に放送される模様。日本での放送日は2019年7月31日(水)ということが決まっている。シーズン2にはメリル・ストリープがキャストに入っている。

待望の最新シーズン!『ビッグ・リトル・ライズ2』7月31日(水)日本最速放送決定 | サスペンス | ニュース | 海外ドラマNAVI

本作はドラマなので、映画レビューで紹介すべき作品ではないのだが、傑作だったので紹介していこう。

作品のプロフィール

『ビッグ・リトル・ライズ』の監督を務めたのはジャン=マルク・ヴァレというカナダの映画監督だ。彼が監督した映画には『ヴィクトリア女王世紀の愛』『わたしに会うまでの1600キロ』などがあるそうだが、私はどれも知らない。『ビッグ・リトル・ライズ』が傑作で、同作をヴァレ監督が最初から最後まで監督しているので、彼の監督作には注目していきたくなるほどだ。

『ビッグ・リトル・ライズ』の製作総指揮には、主演でもあるリース・ウィザースプーンニコール・キッドマンが名を連ねた。どちらもアカデミー主演女優賞の栄誉を受けている。ちなみにウィザースプーンはヴァレ監督の『わたしに会うまでの1600キロ』にて主演、アカデミー主演女優賞にノミネート。

ウィザースプーンははっきりとした価値観を持ち、その観点に合わない者には攻撃的になる女性を演じた。キッドマンは美しく聡明な元弁護士を演じている。双子を設け、美形で高身長で仕事ができる弁護士を夫に持つ。幸せな女性に見え、友だちにも幸せな生活を送っているように演じるが、実態は夫に虐待されていた。本作では上半身ヌードをさらしている。

その他のキャストでは、シェイリーン・ウッドリーローラ・ダーンアレクサンダー・スカルスガルドなど。ウィザースプーン、キッドマン、ウッドリー、ダーン、スカルスガルドの演技はおしなべて素晴らしかった。なおダーンはウィザースプーン同様に『わたしに会うまでの1600キロ』に出演している。

『ビッグ・リトル・ライズ』は第75回ゴールデングローブ賞・テレビムービー部門(2018年)にて4部門(作品賞・主演女優賞・助演女優賞助演男優賞)で受賞した。原作はリアーン・モリアーティという作家の小説。創元推理文庫で『ささやかで大きな嘘』というタイトルで発売されている。原作の方が良いタイトルだ。

誰かが殺された!しかしその誰かが誰なのかは、最後まで分からない

『ビッグ・リトル・ライズ』では、1話にて誰かが殺された事実が明かされている。しかし殺された誰かとは何者かについて、また、殺人者については一切触れられていない。しかも、事実を語るのはパーティの出席者であり、警察への質問に応える形で語っているのだ。一体誰が、誰に、殺されたというのか?この謎は最終話まで語られることがなかった。

パーティの出席者が語るのは、誰かが殺されたことについてだけではない。ストーリーが進むにつれて、主要キャストについてエピソードを語っていく。彼ら彼女らが警察の質問に応える形でしゃべっているのは、噂話である。だが、パーティの出席者が語る噂話という構図は、『ビッグ・リトル・ライズ』の世界観が噂話で成り立っていることを象徴する。

『ビッグ・リトル・ライズ』の舞台は、アメリカ・カリフォルニア州モントレーにある高級住宅街。マデリン、セレステ、レナータはセレブ女性である。マデリンもセレステもレナータも、一見、幸せそうに見える。だが、噂話に象徴されるように彼女らには裏の顔がある。徐々に剥がされていく幸せの仮面。「幸せ以外は、ぜんぶある。」という本作のキャッチコピー(公式HP)をなぞるように、セレブ女性の裏の顔が見えてくる。そんなセレブな住宅街に引っ越してきたのはジギー。「幸せ以外は、ぜんぶある。」というキャッチコピー。新参者のジギーも例外ではない。

噂話や登場人物の行動によって、徐々に明らかになる人間の深い闇。誰かが殺され、その誰かが誰であり、殺人者が誰であるかという、メインのストーリーを追いつつも、登場人物たちの陰鬱な過去の出来事や心理状態などがエピソードとして描かれることによって、マデリン・セレステ・ジギー・レナータ等を取り巻く闇は、いっそう深くなる。

映像の美しさに心惹かれていく

『ビッグ・リトル・ライズ』を見ていて、映像の美しさに感嘆した。モントレーは海沿いにあるのか、浜辺のシーンが出てきたり登場人物の邸宅の目の前が海だったりする。マデリン、セレステ、レナータ等の邸宅が瀟洒である。また、マデリンがセレステやジギーと一緒にお茶をしに行くカフェの雰囲気が良い。マデリンを演じるのはリース・ウィザースプーンなのだが、存在感が抜群である。強い自論を持っていて、思考が合わない人は徹底的にののしる。だが、マデリンはあまり下品にならずに、セレブ妻の矜持を保っていた。彼女を演じたウィザースプーンの演技力が高かった。仲の悪いレナータ(ローラ・ダーン)のことを愚痴っているだけで絵になるのである。

あとはセレステを演じたニコール・キッドマンは、元弁護士で、今は専業主婦に収まっている知的な美人を演じた。彼女は夫のペリー(アレクサンダー・スカルスガルド)に虐待されているのだが、精神科医以外には言えないでいる。親友であるはずのマデリンにさえも、仲の良い夫婦と目されているくらいだ。理想と現実に懊悩し、誰にも言えないでいる美人をキッドマンは演じる。キッドマンが出てくるだけで溜息が出るほど、美しかった。

闇が人の心の奥底に落ちていく

『ビッグ・リトル・ライズ』はミステリーを題材にしているが、トリックがある訳でもないし、どんでん返しがある訳でもない。最終話を見れば誰が殺されて、誰が殺人者なのかは、直ぐに分かる。だからミステリーを題材にしているけれども、ミステリーとしての価値が高い訳ではない。むしろ本作は、人の心をじっくりと描いた作品と言った方が良いだろう。それゆえに、本作は再見に耐える。

不倫、DV、子ども同士のいじめ、他者への悪口(マウンティング)など、家庭生活を送っていれば、ありふれた出来事が次から次へと降ってくる。だが、それら、ありふれた出来事によって人の心は闇に蝕まれる。出来事を契機として、闇が人の心を食んでいくのだ。それは、被害者も加害者も同じである。例えばセレステを殴っているペリーの顔には悲しみが漂っている。ペリーには暴力を振るうことへの快楽は微塵も感じられない。ペリーは、暗く、淀んだ生を生きているかのようだ。

だが、だからといって『ビッグ・リトル・ライズ』に描かれた登場人物がおしなべて暗い訳では決してない。明るくしゃべったりするし、バカ騒ぎをしたりもする。しょっちゅう闇に蝕まれている訳ではないのが人間であろう。ただし、ペリーとセレステだけはちょっと別だが。

『ビッグ・リトル・ライズ』には子どもも出てくる。突然キレてしまうジギーの息子。ジギーにいじめられたと訴えるレナータの娘。早熟なマデリンの娘。本作の子どもはステレオタイプ的な子どものイメージから離れて、心の赴く先があっちへ行ったりこっちへ行ったりと揺れ動いている。だが、本来、子どもというのはそういうものだ。「子どもは残酷だ」「子どもは純粋だ」というようなステレオタイプから離れて、残酷になったり純粋になったりするのが子どもだ。つまり、大人とそう変わりないということ。

闇が人の心の奥底に落ちていく過程を丹念に描いた『ビッグ・リトル・ライズ』。登場人物のそれぞれが、善と悪が混交した複雑な人物像になっている。それゆえに、映像でありながら彼ら彼女らの立ち振る舞いは現実的であり、どこか自分の知己の物語を見ているような気にさえ、なってくる。