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【書評】 真昼の悪魔 著者:遠藤周作 評価☆☆★★★ (日本)

 

真昼の悪魔 (新潮文庫)

真昼の悪魔 (新潮文庫)

 

 田中麗奈主演でドラマ化もされている『真昼の悪魔』の原作小説。著者は遠藤周作

 

推理小説の体裁を取っているが、犯人は隠されていないし、探偵役の青年は犯人を捕まえて白日のもとにさらけ出すことなく、表舞台から消える。したがって犯人は、誰からも犯人だと名指しされることなく、日常生活を続けていけてしまう。物語はそのままで終焉を迎えるのだ。

つまり本書は、推理小説らしい謎解きも犯人の告発もなく、犯人の犯罪は暴かれることなく終わるので、テーマが別にあるように見えるだろう。

 

そのテーマは、タイトルにもある通り人の心の中の悪魔である。心が乾ききって善も悪も何も感じなくなってしまった主人公の女性の中に巣くう悪魔である。

カミュ『異邦人』のムルソーや、フォードル・ドストエフスキー『悪霊』のスタヴローギンあるいは『罪と罰』のラスコリニコフを引用し、自らの悪行の説明を小説に求めていく若くて美しい医師・大河内葉子が主人公。

 

ただし悪行を小説に求めるのはあくまでも自分の中にある悪の「説明」で、彼女は自らの悪行を自己正当化することさえもしない。単に、自分の悪を「言葉」にせんがために小説を手に取るのみで、この設定は独特で面白い。

 

『異邦人』のムルソーはさしたる理由もなく殺人を犯し、それが太陽のせいだと言っている。

葉子はといえば、患者に対して人体実験を犯し、実験動物をむやみに殺し、幼い知的障害者男児をそそのかして女児を川に落とさせる。葉子の悪行には理由はない。自分の悪を分かりやすい言葉に置き換えるためだけに、彼女が読んだ小説が引用されるが、ただそれだけのことだ。自己正当化のための倫理観さえも彼女は持たない。

罪と罰』のラスコリニコフが老婆を殺害した理由を、自らにもあてはめて老女の患者を人体実験するが、ラスコリニコフと同様の理由があって人体実験したかどうかは疑わしい。

むしろ葉子は、老女の患者を人体実験したいが、理由が思いつかないので小説を引用したかのようなのだ。だから彼女は、自らの悪行の説明を小説に求めはするのだが、行いたい悪行が先にあってその理由付けが見当たらないから、小説から引用する、そんな印象を受ける。

人を人体実験しておいて、理由を小説に求める主人公の不気味さは恐ろしく、著者が、カトリック作家らしく、悪魔というものを冷静に見つめてきたことが窺える。

 

 

1980年代に出版された本書だが、主人公を含むキャラクターのしゃべり方が異様に丁寧で少し鼻につく。セリフも借り物のようでリアリティを感じず生きていない。遠藤周作は、俗世間の生々しいセリフを小説に描き出すことには長けていなかったのではないかと思えるほど。本書はカトリック文学ではなくエンタメなのだから、生き生きとしたコミュニケーションが見える言葉の応酬が見たかった。

 

葉子が恋人の結婚を受け入れる時の約束は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を想起させるが、本書にも『痴人の愛』の記述があることもあり影響を受けているのは明らかで、あまり独自性は感じない。

痴人の愛』のナオミのようにコケティッシュでもなく魅力的でもない葉子は、多くの男性が言い寄る女性像としては弱く映った。ドラマでは田中麗奈が葉子を演じているが、ドラマなら美人女優を出せば魅力的な女性かどうかは映像で分かるが、小説では魅力的に言葉で表現しなければならない。「あれっ?あんなにきれいな女性だったのか」と思えるほど小説での人物描写は薄いのが残念だった。「インテリ女性らしくギスギスしていない」とか「かわいく笑う」程度ではどんな女性か分からない。葉子の恋人は彼女の本性を垣間見ても尚結婚したいと思った訳だから、もう少しミステリアスな魅力が見えないと説得力がない。

ドラマはその点、演技ができる女優を使えば葉子がどんな女か分かる。そう、確かにドラマの田中麗奈なら男もほうってはおかないだろうが。・・・

 

葉子の犯罪を暴こうとする難波にしても芳賀にしても、存在感が薄く、彼らは本当に推理者として適切なのかと思わせられるくらい。

 

本書のテーマは上述の通り面白いのだが、エンターテインメントとしてはキャラクターの造形が物足りず、主人公も悪行は働くのだが読者が戦慄するような悪行は犯さないので、迫力不足の印象となってしまった。

 

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