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【書評】 葉隠入門 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠』と三島由紀夫

小説家・三島由紀夫による『葉隠』についてのエッセイ。『葉隠入門』とある通り『葉隠』の入門書であるが、同時に三島由紀夫の思想を追想できる作品となっている。

三島の『葉隠入門』は次のような書き出しで始まる。

若い時分の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。ある一時期の感激も時とともにさめ、また別の友だちと、また別の感激が生まれてくる。書物もある意味ではそのようなものである。
<略>
しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃だらけになって、がんこに守っている。

そして、三島由紀夫にとって重要な作品であるラディゲや上田秋成作品は、かつて三島を文学的に虜にしたが、徐々に彼の「座右の書ではなくなっていった」という。しかし、そんな中にあって三島の座右の書とでもいうべき作品は、山本常朝(じょうちょう)の『葉隠』なのである。しかも『葉隠』は、「世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わった」後、かえって三島の心を捉えた。三島にここまで言わしめる『葉隠』はいかに重要か。『葉隠』は彼の小説を解く鍵となっていることだろう。

三島由紀夫の『葉隠』を実践すること

三島由紀夫は小説家でありながら、ボディビルや空手を習い肉体を鍛えた。三島の小説には明晰な論理性と、美への強い意識がある。しかし三島は『葉隠』に耽溺するうちに「文学の中には、どうしても卑怯なものがひそんでいる」という、以前から抱いていた疑惑を表面に出すようになってきた。ゆえに彼は文武両道を必要とするようになった。彼の「肉体を鍛えること」への執着は『葉隠』の実践、すなわち文武両道からきている考えなのだろう。

三島は本書の中で、「芸術というものは芸術だけの中にぬくぬくとしていては衰えて死んでしまう」と言っている。なぜなら、文学は生そのものを材料として成り立っているからだ。

芸術はつねに芸術外のものにおびやかされ鼓舞されていなければ、たちまち枯渇してしまうのだ。それというのも、文学などという芸術は、つねに生そのものから材料を得て来ているのであって、その生なるものは母であると同時に仇敵である。

死の哲学を説いた『葉隠

三島は本書の終盤において、生の哲学を説いた西洋哲学、そして輪廻転生を説いた仏教と対置して『葉隠』を置く。

葉隠』は人間が死と直面した時に、「ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定している」。だから人の死について他者の評価はあてにならず、例えば先の大戦の神風特攻隊も、必ずしも犬死ではなく彼らの行動が純粋であり、情熱の高さと力とがあれば、それは価値ある死であろう。

思想や理論のために死ななくても、何の意味もない死であっても、人間の死としての尊厳がある。そこに『葉隠』の真髄があるのであろう。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないといって三島は擱筆する。

このヒューマニズム的な死の価値観は、生の価値観を対置して考えるほどに独創的とは思えず、『葉隠』という書物に対する興味が殺がれる結果となってしまった。まして三島が座右の書とするほどの書物なのか…という疑惑が首をもたげて、私はページを閉じた。