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【映画レビュー】 ジョーカー 監督:トッド・フィリップス 評価☆☆☆☆☆ (米国)

映画『ジョーカー』の概要

映画『ジョーカー』はアメリカの映画監督トッド・フィリップスの作品。フィリップスは主にコメディ映画を監督してきた人で、『ハング・オーバー』シリーズのヒットで一躍有名になっている。『ジョーカー』の前作『ウォー・ドッグス』(日本では劇場未公開)もコメディ映画であった。そのフィリップスがホアキン・フェニックスを主演に迎えて作ったシリアスな映画が本作だ。『バットマン』の悪役ジョーカーをモデルにしながらも、全編を通じてシリアスなストーリーで笑えるシーンは1つもない。

フィリップスはジョーカーの誕生秘話として、オリジナルのストーリーを作った。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)はフリーの大道芸人でその日暮らしをしている。『ジョーカー』は、経済的困窮の中にありながらも親思いで優しかったアーサーが、いかにして『バットマン』シリーズの最強の敵ジョーカーになったかを描いた作品である。批評家に評価され、第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

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世界中で大ヒットを記録

『ジョーカー』は『バットマン』シリーズのジョーカーをモチーフに描いたアメコミ映画である。アメコミ映画はヒットする。今年に入って、『アベンジャーズ/エンドゲーム』が世界興行収入1位の座を10年ぶりに塗り替えたことが記憶に新しい。しかし『ジョーカー』はR指定作品だ。いくらアメコミ映画といえどもR指定映画がどこまで記録を伸ばせるのか。直接的な暴力描写もある。しかもヴェネチアで最高賞を受賞したことからも、エンタメというよりはアート系映画の印象を持たれる。アメコミ映画だからといって、ヒットするのか。しかし『ジョーカー』は、世界興行収入が10億ドルを突破する記録を打ち立てたのだ。

R指定映画の全世界興行収入ランキングは、1位の座に『デッドプール2』(2018)が7億8,500万ドルで輝いていた。『ジョーカー』は公開3週目にしてあっさりと『デッドプール2』から首位の座を奪った。しかも『ジョーカー』は、2019年11月には10億ドルの興行収入を叩き出す。これはR指定映画として初の快挙となる。しかも中国では未公開。にもかかわらず『ジョーカー』は世界中で大ヒットを記録しているのである。

ホアキン・フェニックスの圧倒されるほどの名演

『ジョーカー』はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。金獅子賞の選考結果について、映画祭の選考委員は主演のホアキン・フェニックスを高く評価した。例えば審査員のメアリー・ハロン(映画監督)は、「金獅子賞を授賞したため、(ホアキンによる)その演技に賞を贈ることはでき」なかったが、圧倒されるほど素晴らしい演技だと絶賛している。それほどまでにフェニックスの演技は素晴らしかったのだが、一体どれほどのものだったというのだろうか。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の孤独

フェニックスが演じたアーサーは、大道芸人スタンドアップ・コメディアンとして成功したいと夢見ている。彼はTV司会者のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に憧れていた。アーサーは経済的には困窮を極め、認知症気味の母と2人で暮らす。NYにそっくりのゴッサムシティで生きる彼は、貧困・差別・病気・福祉からの排除等といった抑圧にさらされていた。そしてアーサーは徐々に狂気を帯びていく。その狂気が外部に発露したのは職場の同僚からもらった銃である。アーサーは、地下鉄の車内で自分を嘲笑した裕福な乗客3人を射殺するのだ。貧困・差別・病気、そして福祉からの排除といった抑圧により、アーサーは孤独に陥った。

道端に落ちている石がある。その石は踏みつけられる。そして蹴られる。通行の邪魔であるとして、あるいは通行中の暇つぶしとして、もしくは子どもの遊び道具として。いずれにしても取るに足らない存在である。だが、貧困・差別・病気・福祉からの排除といった抑圧にされされた孤独なアーサーとは、まさに路傍の石ではなかろうか。そして、アーサーを演じたホアキン・フェニックス路傍の石を体現しているのだ。

アーサーがピエロの恰好をしてゴッサムシティに立ちサンドイッチマンをしている時、若者が看板を奪う。看板を追いかけるアーサー。だが、それは若者に壊されてしまった。看板がなければサンドイッチマンになれない。上司に叱責されるアーサーのうなだれた姿。また、ゴッサムシティが財政難であることから、アーサーは福祉センターからのカウンセリングを受けられなくなる。それをカウンセラーから通告された時、煙草を燻らせながら嘆息するアーサーの哀しい顔。また、アーサーはトゥレット症候群を患い、他者から気味悪がられている。電車の中でつい笑いが止まらなくなる彼に乗客は奇異の目を向ける。笑いつつも、この笑いを誰かに止めて欲しいという苦悶が聞こえてきそうな、アーサーの声。

アーサーは路傍の石である。つまらない、取るに足らない石ころだ。通行の邪魔になれば蹴られ、踏みつけられる存在だ。戯れに面白がられて子どもに蹴られて遊ばれることもあるが、それも一時のこと。誰かに愛される訳でもなく、粉々に砕かれたとしても、たかが路傍の石のことを誰にも気に留めることはないだろう。その孤独な路傍の石を真正面から受け止めて演じ切ったホアキン・フェニックスには称賛を惜しまない。確かに彼の演技は圧倒的であり彼がいなければ『ジョーカー』は成り立たなかったと言えるだろう。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の狂気

『ジョーカー』の主人公アーサーは、孤独であるが銃を手にしてウェイン証券のエリートサラリーマンを3人殺害したことから、不気味な自信を持ち始める。そして、メディアを通じてアーサーの凶行を知った貧困者たちは、殺害されたのがエリートだったという情報から犯人を称え彼のようにならんとする。犯人がピエロの恰好をしていたことから、彼の真似をしてピエロの恰好をしてデモンストレーションを行っていく。貧しい大衆が立ち上がり、いつの間にかアーサーは、正体を明かさぬまま、反権力の象徴となった。

アーサーは路傍の石である。路傍の石は取るに足らない存在である。蹴られて踏みつけられる存在である。しかし、その石ころが狂気を持って「銃とメディア」を武器にした時、大いなる岩となった。アーサーの持つ狂気とは内に秘めた狂気ではなく、行動そのものである。エリートを殺害し、同僚を殺害し、実母をも殺害するほどの彼の行動にこそ狂気が宿っていた。そして最後に彼がテレビカメラの前で殺したのは、敬愛する司会者のフランクリンである。彼が1人殺す度に狂気の階段を一歩ずつ歩み、最後にテレビカメラの前で殺害することで彼の狂気は大衆に伝播した。彼と同様に抑圧された孤独な者たちに。アーサーの行動に影響を受けた大衆の1人は、バットマンの父であるウェイン夫妻を殺害した。

言葉による狂気だけでなく、殺人という行動を示すことで狂気を体現していくアーサーに、アーサー同様に孤独な者たちは影響されていく。テレビを通じた狂気の行動が孤独な者たちに伝播されることで、アーサーは路傍の石から大いなる岩へと変貌を遂げる。そして、その変貌を演じきったホアキン・フェニックスには、またも、称賛を惜しむことができない。

抑圧される者の存在証明はどこにも見つからなかった

『ジョーカー』の主人公アーサーは、自らを路傍の石だと分かっていた。貧困・差別・病気・福祉からの排除によって抑圧された彼は、自分は取るに足らない人間だと思っている。しかし、どこかに、自分は「意味のある人間」なのではないかという思いがあった。その思いを繋ぎとめているのは、母の存在だ。母はかつて資産家トーマス・ウェイン(バットマンの父)の家で家政婦として働いていたのだが、母によるとアーサーはウェインの子どもだというのだ。

その希望を頼りにアーサーはウェイン家に行き、トーマスの息子ブルース・ウェインに会い、そしてトーマスにも会って自分が彼らの一員であることに期待する。しかし、アーサーが母親が入院していた病院から無理やり奪った診断書を見てみると、アーサーは母親の養子でありトーマス・ウェインとも血縁関係がないことが判明する。結局、トーマス・ウェインの息子という期待は廃棄せざるを得ず、母親の実子でもないことが分かったアーサーには、絶望しかなかった。抑圧される者の生きる意味などなかった。彼は意味のある人間ではなく、ナンセンスで、路傍の石でしかなかったのである。

彼が「意味のある人間」であることを求めたのは、彼が抑圧された者だからである。不自由ない収入を得て、家庭や自宅を持っている人間にとっては、別段、自分が「意味のある人間」であることを求める必要もない。「意味のある人間」であることを期待しなくても、不満を感じることがないからだ。それは、彼ら彼女らが抑圧されず、孤独でもないからだ。しかしアーサーのように、貧しく、差別され、病気を持ち、福祉から排除された人間にとって、「意味のある人間」であることは、彼の存在証明だった。にもかかわらず、その希望が潰えた時、彼はジョーカーとならざるを得なかったのではあるまいか?

『ジョーカー』の持つ共感力の怖さ

『ジョーカー』は抑圧される者の孤独と狂気を描いている。誰しもが共感できる孤独ではないし、狂気ではないだろう。しかし『ジョーカー』は、アーサーの孤独と狂気に大衆からの支持があるように描写した。ここに映画『ジョーカー』の持つ不気味さ、恐ろしさ、怖さがある。アーサーを必ずしもネガティブに描いていない『ジョーカー』。本作は、アーサーに共感し彼を仰ぎ見る大衆も描いていた。本作がアーサーを仰ぐ大衆を描いたことで、観客が大衆と接続されて、アーサーに共感する人も出てくる。

なぜ観客が大衆と接続されるのかというと、既に、アーサーを支持する大衆を描く前に、アーサーの持つ孤独に共感させているからだ。アーサーのように貧困に陥る者、差別される者、病気に罹った者、福祉に排除された者は、『ジョーカー』が丁寧に描くアーサーの孤独に共感する。あるいは、抑圧された経験を持つ者も共感するかもしれない。あるいは、抑圧者を助けている者も共感するかもしれない。あらゆる観客が『ジョーカー』に共感することはない。だが、本作が描いたような孤独に関わる人たちに対して共感させる力を、本作は持っている。本作は、アーサーの持つ孤独が行動する狂気に繋がり、そして大衆の支持を取り付けたプロセスを描いたことで、映画が持つ共感力の怖さを示してくれる。