好きなものと、嫌いなもの

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俺の文学嗜好と落語

落語は10代の頃に好きになった振りをして、読もうと思ったが、挫折をした。なんといったって、初めて読もうとしたのが三遊亭円朝の『牡丹灯籠』だったのだから、読める訳がない。『牡丹灯籠』は言文一致運動の時代に書かれた作品で、読書経験の浅かった俺が太刀打ちできる代物ではないのだ。

 

しかも円朝以外の落語は読もうともしなかった。円朝の他の作品『真景累ヶ淵』には触れても、他には目を向けない。

 

なぜかと言えば、俺の文学への嗜好は、端的に気取っていたからだ。

文学を読み始めた頃から、漱石や鴎外等の文学的に名高い作品ばかりを礼讃し、「正当なもの」以外を排除していたからだ。その嗜好の流れが脇道に逸れ、荷風や谷崎に移りはしたが、一見本流から外れたようでいて、本当の意味で脇道に逸れた訳ではないのである。

なぜなら、現代の俺にとって、荷風文化勲章を受賞し、谷崎はノーベル賞候補にも挙がったほどの大家だ。作品は耽美的で本筋から外れているように見えても、俺の嗜好は「正当なもの」から離れることがなかった。

だから、落語を読むにしても、自分の好きなものを読まずに、三遊亭円朝の『牡丹灯籠』や『累ヶ淵』を読む。そして挫折してそれっきり。広がりを持たないのだ。

 

大学生になって少しは俺も柔軟な視野を持つようになり、古今亭志ん生の『古典落語』(ちくま文庫)を読んだり、春風亭小朝の落語を生で聞きに行ったりするようになった。その折にようやく、俺も落語が面白いものだと分かった。

落語には落ちがある。起承転結がハッキリしている。話の最初の頃に触れていたポイントが、回収されることがある。「おぉ~ここに結び付けてくるのか!」と膝を打つことさえある。

 

 

古典落語 志ん生集 (ちくま文庫)

古典落語 志ん生集 (ちくま文庫)

 

 

 

何で落語に関心を持つようになったか。

俺は永井荷風に憧れていた10代末期、江戸とか日本的なるものに対して「異常に」執着していた。理想としては、日本人は着物を着るべきとすら思っていたほどだった。

荷風に執着していた時、彼が落語家に弟子入りして、朝寝坊夢之助と名乗っていたことを知った。そこで俺は三遊亭円朝を知るのだった。円朝の落語は言文一致運動に影響を与えていて、お笑いだが文学史に名を残している。

「正当なもの」に執心する俺が、他の落語家よりも一等高いポジションに位置していそうに見える円朝に興味を持つのは自然だった。荷風を知りたい一心で、落語家に目を向け、行き着いた先は円朝。そして直ぐに円朝の落語が難しくて挫折するのだ・・・

 

最近、ネットでよく見る記事と言ったら政治経済や映画ばかり。俺がかつて好きだった落語は影を潜めていた。

しかし今日、昼休みに日経の電子版を見ていたら、立川談笑という現代の落語家の記事を初めて目にした。これが本当に笑えて、素晴らしい。文章だけで声を出して笑わせることができるのは、並みの技量ではない。文章力があるのは当然だが、それ以上に持っていなければならないのは、笑いの技量だ。

談笑の「笑えるエッセイ」がそこには表れているのだが、構成がしっかりしていて読み易く、最後は文章が笑いに結集する。

 

例えば、(未完)